本調査の目的は、中央部ビルマにおける雲南出身華僑のコミュニティの形成過程を明らかにすることである。18世紀以降、中国雲南省からビルマへの華僑の進出が活発化する。ビルマ北部の鉱山で労働者となる者や、一部にヒスイや綿花の交易を掌握する商人も現れ始めた。有力な商人はやがて、コンバウン朝の王都に交易拠点を形成する。そこでは、在地のコミュニティと王権との橋渡しをする地位についたと考えられる。
雲南華僑による交易の展開は、18〜19世紀のコンバウン朝の王権にとっても重大な意味をもつ。隣接する清朝中国との関係を左右する要素であり、同時に国内の経済に少なからぬ影響があった。しかし、これまで雲南華僑の活動実態を正面から論じた研究は、ほとんど無かった。
そこで、本調査では、文献調査とフィールドワークを併用して、王都地域における華僑コミュ
ニティの形成過程を検討する。マンダレー、アマラプラ、バモーには、この時期に建立されたという中国系の寺廟が残存している。現存する建造物での史料発掘と聞き取り、さらにヤンゴン、マンダレーの資料館での文献調査を行うことで、コミュニティ形成の時期、背景、関係する商人の活動を提示したい。
本調査の目的は、18〜19世紀のビルマ北部主要都市における、雲南華僑コミュニティ形成の様相を明らかにすることであった。
先行研究が乏しく、史実の確定すら十分に成されていない研究領域であることから、今後の議論に向けた基礎情報を収集するため、図書館・文書館における文献調査、歴史的な中国寺院における碑文調査を中心に計画を立案した。以下に諸施設の状況、および現地研究者との協働状況について述べ、最後に本調査で得られた知見を提示したい。
○図書館・文書館施設
ヤンゴン)
国家文書局 植民地時代の行政文書が多数収蔵されている。植民地期の文書が大部分を占めるという点から、コンバウン朝期の研究には積極的に調査されてこなかった施設だが、今回の調査では1860〜70年代、ミンドン王治世にあたる時期の史料を閲覧することができた。当時、王朝はまだ存続しているが、割譲されたビルマの南半分では植民地統治が始まっており、コンバウン朝の情勢を、政庁に報告する文書がまとまって保管されていたものである。
その中には、雲南とビルマの交易に関するレポートが複数あり、コンバウン朝と清朝中国との外交関係や、バモー周辺の少数民族の動向を取り上げたものがある。20世紀初頭のマンダレーに拠点を置く華僑商人ギルドに関する文書もあり、調査のテーマに合致する史料が集まった。これらは、現在内容を検討中である。
マンダレー)
雲南会館図書室 マンダレーには雲南華僑が集住する「中国人街(タヨウッタン)」があり、コミュニティの中核施設として雲南会館がある。館内には図書室が設けられており、蔵書は専ら中国語本である。内容は、娯楽小説や雑誌類が大半だが、雲南省内で発行された希少な学術雑誌も収蔵されている。
バモー)
バモー図書館 原史料と呼べるものは見当たらなかったが、現地で編纂されたバモー史の文献を閲覧した。また、市内のパゴダ(仏塔)や僧院の歴史を紹介するものがあり、ローカルならではの文献を見つけることができた。
○現地研究者との協働
ヤンゴン、マンダレー、バモーのいずれでも、現地研究者との協働作業を展開し、更なる人脈の拡大と今後の研究計画の構想を練った。
特筆すべきは、マンダレー考古局に所属する研究者との共同研究が前進したことである。これまでと同様に、今回もマンダレー考古局在籍研究者との合同調査を実施した。
調査地であるンガパジャウン砦遺構は、マンダレーの北、エーヤーワディー川の右岸に位置し、18世紀後半の建造とされるレンガ造の砦跡である。マンダレー考古局研究者、および大学教授と3人での現地踏査、および現状確認と記録作業を実施した。川を一望のもとに収める高地上に位置し、コンバウン朝によるエーヤーワディー川交通の統制の実態を解明するうえで重要な遺構と考えられることから、今後、文献調査を含めた研究の深化が求められる。
さらに、今後の計画として、バモー周辺での碑文調査が構想にあがり、今後具体化する予定である。
○調査による知見
今回の調査では、内戦の影響で外国人の入域が長く制限されていたバモーでの調査を実施した。中緬交易を扱う先行研究において、バモーは交易品の集散地として必ず触れられるものの、表面的な紹介にとどまり、この地域の歴史を深く掘り下げた研究はほとんど見られなかった。それゆえに、まずは町の全体像を把握し、歴史の概略を知り得たことに意義がある。
バモーはさして大きな町ではなく、徒歩でも町の全体像を把握することができる。タイピン川の左岸に位置し、最大の商業地は港に隣接して形成されている。そこに雲南華僑が集住する一画があり、1806年の創建という中国寺院および会館も現存する。川沿いには中国人街の他に、ヒンドゥー寺院もあり、町の形成に中国系・インド系商人が深く関わっていたことを思わせる。一方で、町の郊外にカチン人が居住している。その中間にビルマ上座仏教の僧院、パゴダが多数建設されているが、新しいものが多い。
バモーの公立図書館には、バモーの歴史に関する著作が2点収蔵されている。それらを読み込むことで、現代におけるバモーの歴史の位置づけが窺えた。
その特徴は、バモーの統治権がビルマのタインインダー(原住民)であるシャン人からビルマ人へ移行したものとし、さらにビルマ人が中国の侵入から守ったという歴史叙述の展開である。清緬戦争における防衛戦の成功の強調は、当時の王名や将軍名を冠した町内の主要な街路名称からも窺える。しかし、ここからは華僑、インド人、カチン人のバモー史への関与が見えてこない。今後、このような国家史的な歴史叙述からこぼれおちる要素をいかに掬い取り、地域の歴史の再構成に反映させるかが重要な課題となろう。
次に、中緬交易を担った集団に関する知見である。先行研究では、主に雲南の馬幇(マーパン、キャラバンの意)に焦点をあてて、この問題を検討してきた。また、19世紀末にビルマへの移住者が増加する、パンデー(中国人ムスリム)の馬幇について、多くの論考が提出されている。しかしながら、彼らだけが中緬交易の担い手でないことが今回確認できた。
旧王都であるアマラプラに現存する観音寺は、1776年創建という伝承をもつ雲南系の中国寺院であり、境内に修築記録を記した碑文を残す。そこには資金の拠出者として、多くの商号の名称が挙げられている。商号とは、商業活動のために結成された同業者組織であり、雲南省和順郷出身者による組織がよく知られている。商号の多くは商店経営などを行なっており、輸送を専らとする馬幇とは必ずしも同一の組織ではない。
中緬関係を考える上で重要なのは、有力な商号の代表者が、時として華僑コミュニティの代表的立場につき、王権と密接な関係を持った点である。18世紀の漢籍史料では、雲南出身の商人がコンバウン朝の王都にある「漢人街」を統括していたことに触れるほか、中には宮廷で仕官した者が存在したことを記録している。19世紀半ばには、尹蓉という和順郷出身の華僑が王都近隣における華僑の代表的地位にあり、宮廷顧問として深く政治に関与していたという。尹蓉は若くして商号の経営に加わり、実務経験を積みつつ頭角を現したと伝えられている。マンダレーの雲南会館の起源は、尹蓉が国王に建設を願い出た事からという説もあり、華僑コミュニティの形成を考えるうえで、有力商号の経営者層の解明は避けて通ることができない。
華僑コミュニティと言っても、その内実は複雑である。和順出身華僑のような漢人集団もあれば、パンデーもまた雲南出身の中国人である。マンダレーのパンデーコミュニティ成立に関する非公刊論文によると、マンダレーの建設当初は漢人とパンデーが混住する中国人街が設定されていたが、19世紀半ば以降、雲南回民起義の影響を受け、マンダレーでも両者の対立が表面化し、王によって居住空間が明確に分けられたという。1867年のパンデーモスク建設の背景には、マンダレーにおける交易拠点としてこれを整備しようとする雲南回族政権の思惑が存在した。それに対して、パンデーの交易活動を抑え込もうとする漢人商人の動向が窺える史料もある。雲南の政治情勢と、ビルマにおける華人の商業活動とは密接な関連を有していることがこれらの点から示唆されており、今後は双方の地域を視野に収めた研究が求められよう。
このように、華僑コミュニティの成立をめぐっては、このような視角から検討を深めるべきことが明らかとなったが、今後に残された課題も多い。最大の問題は、近年形成された歴史叙述である。マンダレーにおける尹蓉の活躍は、和順華僑による歴史叙述において必ず登場するエピソードである。しかし、ビルマ語史料からの裏付けはなされていない。また、バモーの歴史がそうであったように、ナショナルヒストリー形成という文脈下に個々の地域の歴史が再編成され、位置づけられつつある。それに対し、マイノリティの歴史叙述は軽視されがちである。現代に伝えられている歴史叙述の多くに対し、成立の文脈と史料的根拠の検討が必要であろう。そのためには、ビルマ語のみならず、中国語、英語、さらには少数民族言語などの史料を丹念に検証し、突き合わせる作業が不可欠だが、それによってのみ、多様なアクターが関係を結びあって構成する地域の歴史に迫れるのではないだろうか。
■ 2011年度 フィールドワーク・サポート(大学予算による)
■ 2010年度調査第2回
■ 2010年度調査第1回
■ 2010年度 フィールド調査サポートによらない学生の調査(フィールドワーク科目による単位認定)
■ 2009年度調査第2回
■ 2009年度調査第1回
■ 2008年度調査