調査者は、カンボジア・アンコール期における社会の多様性および製鉄業の復元を目的としている。その復元の足がかりとして、カンボジア北東部に居住するモン−クメール語系の少数民族であるクーイ族の製鉄関連遺跡の踏査、および関連事項の聞き取り調査を2008年度の8月から行っている。
これまでアンコールの製鉄業について言及した研究者は存在するが、ほとんど研究はなされていない。クーイの製鉄業に関しては19-20世紀の民族誌を踏まえて体系的に研究を行ったものがあり、アンコールとの関連性を指摘しているが、宗教・神話的な側面からのアプローチであり説得力に欠けていた。
これまでの民族誌および先行研究では、調査地域の偏りがあった。また周辺地域の中での製鉄業の位置づけや当時の環境、および他民族とのつながりの有無が問題にされてこなかった。それゆえクーイの製鉄業は一般的にはあくまで1民族の過去の生業のひとつとしてしか理解されていない。なぜアクセスの良くない地域で生産が続けられてきたかという問題の重要性は注目されてこなかった。またアンコールの製鉄業を問題にしながらも実際に出土した製品が扱われてこなかった点が問題である。
これらの点を踏まえて今回の調査は、@炉の分布調査、A製鉄業に関する聞き取り調査、Bクーイの植民地期−内戦前後の社会変化の3つの視点で行った。今回の調査では、前回の調査よりも可能な限り調査域を広げ、クーイ族が居住するシェムリアップ州、プレア・ヴィヒア州、コンポン・トム州で調査を行った。2009年4月11日から17日および20日から22日にかけて製鉄炉の正確な分布の確認および聞き取り調査を行った。内戦によるさまざまな影響も十分に考えられたため、クメールの流入や使用言語など社会や環境の変化についての質問をまじえた。質問はすべて調査者および調査協力者によってクメール語で行われた。調査協力者はカンボジア人3名である。
炉の所在については、民族誌および先行研究により、村にひとつあるいは複数の村がまたがって製鉄炉が管理されていたことがわかっている。ドゥペーニュは民族誌の整理し異なる年代の中で炉が少なくとも13基存在していたと述べたが、ドゥペーニュ自身が訪れているのはその半数に過ぎず、開発や内戦を経た結果、現在もその存在を確認できる地点は限られている。またその規模や内容についてもその詳細をドゥペーニュは明らかにしていない。
今回の炉の踏査では、調査協力者の証言および村人の案内により、新たに5箇所の製鉄炉跡と考えられる地点を実際に確認した。炉はほとんどの場合村から2-3km離れた森の中に存在しており、周辺には河川があった。鉱石の還元や鉄精錬の際に出る鉄スラグ(鉱石の不純物の塊)が直径5cmから大きいものでは30cmほどになり10m四方に密集し、また積み重なっていた。また製鉄炉に付随する羽口および炉壁と考えられる粘土片等が見られる地点もあった。これらの状況から今回確認した地点は周辺に居住するクーイの製鉄業に密接に関わっていた地点であると考えられ、またその多くが製鉄炉であると判断ができた。
製鉄炉の踏査と同時に、古老たちへの聞き取り調査を実施した。これまでの調査を通して、クーイの製鉄業は、製鉄業が行われなかった地域、あるいはその記憶を村人が誰ももっていない地域)と聞き取り調査から1920年代ごろまで行われていたと考えられる地域、そして先行研究および聞き取り調査によって1940-50年代まで行われていたことがはっきりしている地域の三箇所に大別されると調査者は捉えている。
村人全体が製鉄業に関わっていたわけではなかったため、製鉄業の記憶は実際に関わったチャーイや技術責任者、工員およびその家族、周辺で手伝いをしていた人などが中心となった。今回は調査協力者を通して、3名のインフォーマントを得た。この調査により、新たに@の調査で明らかになった2箇所の炉(P村、S村)が実際に利用されていた製鉄炉であることが判明した。母親がチャーイの料理人であり、夫が工員を行っていたプレア・ヴィヒア州D村のポアル族の女性、作業場近くに居住していた同州R村のクーイ族の男性、コンポン・トム州S村のクーイ族の男性の3名をインフォーマントとした。
[女性:77歳、稲作業、プレア・ヴィヒア州P村出身で現在はD村に家族と共に居住、2009/3/14]
女性はポル・ポトの内戦以前まで製鉄業が行われていたP村に住んでいたが、内戦以後はD村に移り住んだ。P村の製鉄炉についてはこれまで民族誌、先行研究いずれにおいても一切記述が見られない。その理由としてクメールを含めて住民以外の頻繁な立ち入りがなかったことが考えられる。
女性によればこのD村で「クメール語が話されるようになったのはポル・ポト時代になってから」である。かつては村の背後に広がる雑木林のような森が村を包んでおり、「クメール人の往来も時折あるものの頻繁でなく、もっぱらポアル語とクーイ語が話されていた。ポル・ポト時代に森を貫く道路が通され、その状況は変わった。」と女性は述べる。女性の出身地であるP村も現在はクメール語を流暢にしゃべるが、同様の環境の変化が見られたと考えられる。このような環境の中で製鉄業は行われていた。
女性は自身が住むP村から2kmほど離れた田んぼに囲まれた森の中に存在する製鉄炉をこれまで一度も見たことがない。
[男性:77歳、稲作業、プレア・ヴィヒア州R村出身、2009/3/21]
R村出身の男性は現在もなお、家族と共にR村で暮らしている。R村から5km程度北には鉄鉱山がある。子供のころ(8歳)、男性の家は製鉄炉のある森のすぐ傍にあり、その作業の様子を見ていた。男性自身は稲作を生業として、作業に加わったことはなかったが、他の村から集まるチャーイの名などをよく覚えている。男性は「作業はチャーイ4名、ふいごを動かす工員2名、その他の作業をする他の工員など計12名が一度に作業を行っていた。」と述べたほか、「他の村からきたチャーイ3名が加わり、助け合って鉄を作っていた。」とした。これらの証言により周辺の村の名前が出てきたことで製鉄業を通して、村同士で炉を共有していたことが明らかである。また民族誌ではラオス人や中国人によって鉄製品が買い求められたことがあったことが明らかであるが、「ラオス商人が買いに来た。村に鍛冶屋もいて山刀や農具などを作っていた。」と述べ、それが裏付けられた。「鉱石はプノム・ダエク(クメール語で鉄鉱山の意味)から牛車によって運ばれてきた。」「製鉄炉には小屋が建てられ、その高さは5mほどあった。」といったものも先行研究とある程度一致したことでその情報の信頼性が高められている。また当時のR村の村人は「12家族ほどおり、そのうち10家族が製鉄業に関わっていた」と男性は述べた。しかしながらその裏づけはまだなされていないため今後他のインフォーマントにも聞いていく必要がある。
[男性:66歳、稲作業、コンポン・トム州S村出身、2009/3/17]
S村もP村と同様、村人たちによって製鉄炉の存在は認知されてきたが文献において何ら記述がなされてこなかった。男性自身は直接チャーイのことを知らないが、父親が「かつてここで鉄作りをしていた」と話していたのを記憶している。また男性はチャーイについて「女も男もいた。」「髪が長くてそれを頭上で束ねていた。」といったことを聞いたが、男性自身が見たもの、体験したことではないためその情報は不確かである。しかしながら、チャーイの存在があったことは確かといえる。S村には男性以上に年をとっている古老はいないため、かつて行われていた製鉄業についてくわしく説明できる人物はいない。しかしながら村人の誰もが製鉄場の存在を知っており、以前製鉄業が行われていたという事実を認識している。
男性によれば、製鉄炉があった場所は「今は開拓され畑が広がっているが、5,6年前まではあたり一体は森であった。」ことがわかっており、「今は森がないが、森があったときは森での禁忌(チュバップ・プレイ)があった。この森の木を切ると病気になったり、歩けなくなったりするといわれ恐れられていた。また妊娠中の女性がこの森に入ると、森のチャーイに喰われて子供を生めなくなってしまうという信仰があった。」とのことだった。村の中心部と製鉄炉の所在地はやはり3kmほど離れており、P村同様に村の通常の暮らしから切り離される形で製鉄業が行われていたと考えられる。そしてその存在はたとえ同じクーイであっても製鉄業に関わらない人にとって入ってはいけない聖域であったと捉えられる。
このような製鉄炉の踏査、および古老への聞き取り調査により、先行研究で扱われていた以上にクーイおよびその周辺の製鉄業がさかんに行われていたことが明らかになった。
また製鉄炉の正確な位置の分布が明らかになった他、チャーイの存在が認められたことで製鉄炉であるとの証明がなされた。またクーイの人々の製鉄業への認識も明らかになった。
これまでの聞き取り調査および今回の3名の聞き取り調査を総合すると、P村は1920年より以前に製鉄業が途絶えていたとの判断ができる。一方、R村は少なくとも1940年代まで製鉄業が行われていた。O村も同様であったことを考慮に入れるならば、よりプノンペンに近いS村もまた同様の時期まで作業が続けられていたと考えうる。このように考えると製鉄業はより首都プノンペンに近い地域で最後の活路を見出されていたと考えられる。以上の聞き取り調査の結果から製鉄業が全体的に栄えた時期は1920年代までと捉えることができる。これまで報告が重ねられていた特定の地域だけでなく、かなり広範囲にわたって製鉄業が行われていたことが今回の調査で明らかになった。実際にカンボジアの鉱山地図からは他の地方に比べクーイが居住する地域やより東部のラタナキリ地方には多くの資源がある。この資源の豊かさが、近代までの製鉄業を支えた大きな土台であったと理解できる。
■ 2011年度 フィールドワーク・サポート(大学予算による)
■ 2010年度調査第2回
■ 2010年度調査第1回
■ 2010年度 フィールド調査サポートによらない学生の調査(フィールドワーク科目による単位認定)
■ 2009年度調査第2回
■ 2009年度調査第1回
■ 2008年度調査