2008年度フィールドワークでは、四国のイスラームの歴史と現状について調査した。期間は、2009年3月18日から25日までである。
四国を調査地に決めた理由は、1950年代後半から四国、特に徳島にてイスラームの布教活動が行われていたという歴史があること、また、2009年3月現在2つのマスジド、2つのムサッラーが存在することからである。関東圏内においては、様々な国籍を有するムスリムが数多く居住している関係上、イスラームの活動(例えば、クルアーンやハディースの勉強会や、アラビア語教室など)が活発であるが、地方においては関東圏内ほどムスリム人口があるとは思えないので、個々人の活動によるものではないだろうか。
そこで、本調査では四国におけるイスラームの歴史と、地方におけるイスラーム活動の現状を明らかにすることを目的とした。
初日は、香川県高松市内にある「高松モスク」に行った。そこは、駅前に立地しているが、オーナー(パキスタン人)が中古車業を行っており、その事務所も兼ねているため、厳密には「ムサッラー」である。
そのオーナーは市内でインドカレー・レストランも経営しており、インフォーマントから、そちらには一日一回は必ず顔を出すという話であったので、まずはレストランへ出向いて行った。
午前中、しかも平日に行ったため、オーナーはもちろん仕事中で不在であったが、店員が親切にも電話で連絡をつけてくれたので、電話会談をすることになった。
高松モスクについて、オーナーの話によれば、金曜礼拝時に事務所をムスリムたちに開放している。金曜礼拝では、通常、7人ほどが来ており、ほとんどが外国人ムスリムであるという。オーナーは、現在の状況はこじんまりとしたものであるがモスクとして拡大できるようにしたい、と今後の展開を述べた。
その日の午後に愛媛県新居浜市に入り、新居浜マスジドに行った。マスジドのオーナーは、日本人ムスリムで、今回の調査に協力していただいた。明日、松山へ行く用事があるというので、車に同乗することになった。そこで、松山ムサッラーへ向かうことにした。
松山ムサッラーは、一軒家を借り、愛媛大学の留学生を中心にして、運営委員会を設置して活動を行っている。毎年の選挙でその運営委員は選出されているが、その年に選ばれた人の熱意に拠って活動状況が異なるという。
松山ムサッラーに行った日はちょうど金曜日で留学生が集まって金曜礼拝をするという。そこで、礼拝時間になってもう一度行ってみることにした。ところが、行ってみると、やはり人数が集まり過ぎるのだろうか、愛媛大学の構内にて金曜礼拝を行うという張り紙があった。そこで、愛媛大学に行って礼拝場所を探してみたが、それらしき人(ムスリムたち)に遭遇できなかった。そこで、松山の歴史を散策することにした。
松山市は、日露戦争で活躍し、小説「坂の上の雲」でも有名な「秋山兄弟(秋山好古(よしふる)、眞之(さねゆき))」の生誕の地である。日露戦争といえば、あの戦争によって日本は満州への進出の足がかりを得、植民地政策の中で北部に住むムスリムを研究するようになっていったこともあって、日本のイスラームの歴史を何か関係があると思い、「坂の上の雲」ミュージアムに行ってみたが、秋山兄弟の弟の方である、眞之と関係があった。
眞之は、少尉候補生として「比叡」に乗艦し、航海に出たという。その年が1890年のことであるというから、エルトゥールル号遭難事件にあったトルコ人たちを本国に輸送する任務に従事していたことがわかった。
その日は、四国のイスラームの歴史を調べるために、徳島へ行くことにした。『アッサラーム』誌30号には徳島のイスラームについての記載があるが、その中で、徳島のある高名な臨済宗の寺で、パキスタンからダアワ活動にやってきたムスリムとともに、禅の修行をしたと書いてある。それは、地元の日本人ムスリムたちが招いた故であるという。そこで、その事情を知っているだろうと思われるお寺に当たることにした。まず、「高名な禅寺」に目星をつけ、電話をかけてみることにした。
何件かに電話をしたが、その当時のことを知っている人が誰もおらず、キリスト教の神父さんは禅の修行に来たことがあっても、ムスリムは知らないというお寺もあった。
ところで、徳島のイスラームについては、事情を知る方(以下、Aさんにする)のお宅に訪問して話を伺うことが出来た。現在は、病気を患って静養中のため、自宅を出ることもあまりないという。
日本のイスラーム史を紐解くと、1956年からパキスタンからタブリーグが来日して、日本各地でタブリーグ活動をしていたが、徳島にもタブリーグの人々がやってきて、日本人との交流をもったという。
今の日本におけるタブリーグの人々は、ムスリムに対して布教活動をしているが、その当時は、ノンムスリムに対しての布教活動であった。彼らは、自分たちの滞在する場所や食物を自分たちのお金や力で確保して活動をしていたので、地元の人たちにとっては非常に友好的に受け入れられたという。その結果、73名の日本人がムスリムに改宗し、その中の数名が徳島のイスラームを盛り上げていくことになったという。
話は割愛したが、Aさんからのお話で、歴史的にも東京のイスラームと地方のイスラームは完全に分離しているわけではないことがわかった。
その日の午後遅く、徳島市にある2008年4月にオープンした「徳島マスジド」に行った。そこで、いろいろなムスリムと知り合った。徳島マスジドは、徳島大学の留学生が中心となっている。古い工場を買い取って中をマスジドとして改造した。外国人ムスリムの中では、エジプト人の家族が一番多いという。また、珍しいことではあるが、朝の礼拝(ファジュル)をマスジドで行なう男性が多いと言う。都内でもファジュルの礼拝をマスジドで行なう人々は珍しく、それだけ濃密な活動を行なっていることがいえる。徳島では、バングラデシュの家庭を訪問したり、日本人ムスリムのところへ行って色々なご馳走を頂いたりした。
松山市に行き、ロシア人墓地にてムスリムの墓地を調査した(写真参照のこと)。墓標の前のプレートに宗教マークがあるので、イスラームであるのか、あるいはその他の宗教であるのかを知ることが出来る。中には、宗教マークが入っていないものもあったので、名前からムスリムではないかと判断して、写真に納めたものもある。
その後、愛媛大学付属図書館にてロシア人墓地に関する文献調査を行った。しかしながら、これといった文献資料が見あたらず、その日は過ごした。
ロシア人墓地に関する文献調査を続行した。松山市立中央図書館にて文献があるかどうか調べたところ、ロシア人墓地全体に関する研究ノートが出てきたので、それに基づいて現在ロシア人墓地に埋まっているムスリムたちのことを少しずつ調べていった。松山になぜロシア人墓地があるかというと、日露戦争時に「捕虜(当時は俘虜)収容所」があった。松山に収容施設があった理由は、秋山兄弟に依るところが大きいのかと言えばそうではなく、複合的な要因からである。歩兵師団の基地があったこと、島であることから容易に逃げられないこと、などである。
ロシア人ムスリムについては、非常に興味深い記事があった。当時、ロシア人捕虜が亡くなったとき、その者の宗教を特定し、その宗教の儀式に倣って葬式をあげていた。カトリックであれば、カトリックの司祭を呼んで式を執り行っていたし、ロシア正教の場合、も神父がよばれ、その方式で葬儀が行われていた。一兵卒といえども、死者を冒涜することはなかったのである。ムスリムに至っては、もちろんイスラームのやり方で行われた。研究ノートの記載によれば、あるムスリムを埋葬する際、死者の体を洗い、布で遺体を巻いていく方法まではよかったが、棺桶に入れずにそのまま土に入れてしまうやり方にびっくりして、報告書にもその驚きを表現していたお坊さんの話がでている。
以上が今回の四国調査旅行についての報告であるが、以下からは、報告を踏まえた上での筆者の総括にはいりたい。
四国のイスラームの歴史は、日露戦争を中心とした時と、1960年に入ってからの歴史とに分けることが出来ると思う。またその歴史は現在までに続くものではなく、現在は留学生が中心となって活動しており、当時活躍していた日本人ムスリムたちも、現在の活動には参加していない人々が多く、過去から受け継がれているものではないことが言えよう。特に、徳島のイスラームは、過去と現在とが断絶した形となっている。それは、東京のムスリムたちとの間にあった出来事が大いに関係していることがいえるのではないだろうか。
また、現在のムスリムたちの活動に関して、特に徳島のムスリムたちの活動は、非常に濃密なものであることがいえる。松山市の活動においても、留学生を中心にしているとはいえども、これは、ムスリム人口の多さ如何の問題ではなく、活動を行なう中心人物の熱意と周囲の人々の努力の賜物であることがいえるのではないだろうか。
■ 2011年度 フィールドワーク・サポート(大学予算による)
■ 2010年度調査第2回
■ 2010年度調査第1回
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■ 2008年度調査