上智大学 大学院 グローバル・スタディーズ研究科地域研究専攻

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大学院生へのフィールド調査サポート

調査地
カンボジア
調査時期
2010年3月
調査者
博士前期課程
調査課題
強制立退き後の住民の生活に関する調査:再定住地区サエン・ソック村の事例
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調査の目的と概要

カンボジアは、1991年にパリ和平協定の締結によって、30年に亘って続いた内戦は終結を迎えた。その後、1992年3月、UNTAC(国連カンボジア暫定統治機構)が暫定統治し、1993年の選挙を経て、新政府が成立した。その後も新政府と反政府間及び政党間の内戦は続いたが、首都であるプノンペンには、外国援助が投下され、都市開発が進んだ。それに伴い、プノンペンの貧困者居住地域は、立ち退きを強いられるケースが多く確認されている。現地NGO団体HRTF(Housing Rights Task Force)の報告によると、1990年から2009年までに強制立退きの対象となったのは、約133,000人であった。
都市開発に伴う強制立退きの事例は、アジア各国で報告されている。しかし、プノンペンの事例は、カンボジア特有の歴史的背景を指摘することが出来る。第1に、1975年から1979年のポル・ポト政権時代に、住民は地方への移動を強いられたため、プノンペンの人口が政府関係者の1万人程度となったことである。ヘン・サムリン新政権の樹立後、復興と開発の過程において、人々が帰還・流入した。第2に、1979年以降の社会主義であったヘン・サムリン政権下で、ポル・ポト政権以前の土地建物の所有権は無効とされ、土地は国有化されたことである。1989年に所有権が認められるまで、「利用権」という概念であった。以上のような背景は、現在の強制立退き問題の背景として、問題の根源となっている。よって、他国の研究では「スラム」「不法居住地域」という用語が使われるが、ここではカンボジアの歴史的背景を考慮し、強制立退き後の再定住地区も含めて「貧困者居住地」と呼ぶ。現在、カンボジアの首都プノンペンには、410の貧困者居住地に40,548人が暮らしている。
強制立退き問題についての研究及びNGOの報告書では、問題の背景や強制立退き時に焦点が当てられる一方、強制立退き後の住民の生活について述べられることが少ないことから、強制立退き後に住民が再定住した地区で、住民のその後の生活に焦点を当てたフィールド・ワークを立案した。
調査地には、サエン・ソック村(Saen Sok Village)を選定した。この地は、2001年11月26と11月27日にプノンペン市街の2つの貧困者居住地(バサック、チバーアンパブ)で起こった火事で、家を焼かれた住民の再定住地区である。
サエン・ソック村は、プノンペン市街から約15キロ離れた郊外に位置する。面積154ヘクタールに、1,757世帯8,372人が生活している(2009年時点)。

今回の調査では、(1)サエン・ソック村の概要に関する新聞記事及び文献調査を行うこと、(2)住民へのインタビュー及び参与観察を通して、強制立退き後の住民の生活を明らかにすることを目的とした。(1)では、強制立退き時の様子、サエン・ソック村が再定住地区として選定された背景、移動当初の状況に着目した。(2)では、再定住時には状況が同じであった人々の生活が、10年を経てどのような変化が考察できるのかを明らかにするために、現在の住民の就業形態、居住環境に注目した。

調査成果

 (1)サエン・ソック村の概要
□元居住地で起こった火事
2001年11月26日、プノンペン市街南東に位置するバサック(Bassac) で起こった火事により、貧困者居住地区の約2,400世帯が家を失った。その翌日、プノンペン市街南方に位置するチバー・アンパブ(Chbar Ampov)でも火事が起こり、約1,000世帯がホームレスとなった。政府は、プノンペン郊外の2つの地を彼らの再定住地区として設定し、2001年12月3日に住民をトラックに乗せて移住させた。2つの再定住地区の1つであるアンロン・カガーン(Anlong Kngan)が後のサエン・ソック村であった。
再定住地にサエン・ソック村の場所が選出された背景には、当時の政府の政策方針を指摘できることがわかった。2001年6月、当時のプノンペン市長は、プノンペン市街の貧困者居住地区に住む人々の80%にあたる170,000人を、プノンペン郊外に移住させることを宣言した。その際、プノンペン郊外に位置する現サエン・ソック村の地を、住民の再定住の候補地として挙げていた。しかし、プノンペン市街から遠く、インフラも整っていなかったため、居住問題に取り組むNGOによって再検討が要求されていた。にもかかわらず、その半年後、政府はインフラ整備も行われないままに、バサックとチバーアンパブで起こった火事で焼きだされた人々の再定住地として定めた。

□再定住時の様子
サエン・ソック村について書かれた資料から、以下のような当時の様子がわかった。
サエン・ソック村(当時はアンロン・カガーンと呼ばれていた)には、約3000世帯が移動した。しかし、移動当初、この地には何も用意されていなかった。水、トイレ、家もなく、住民の生活は困難を極めた。また、住民の多くは、それまでバイク・タクシーとして働いて収入を得ていたが、再定住地からプノンペンまでの道が現在のように整備されておらず、往復で2ドルかかった。これは、彼らが1日に稼ぐ額よりも高かったため、バイク・タクシーでは生計を維持できなかった。また、移動した世帯の約20%の人々には、政府によって土地が分配されなかった。職がなく生活を維持できない人々や土地の権利を得られなった人々は元の居住地に戻った。2002年1月には、約200世帯が元の居住地に再び移住していった。
その後、NGOや国際機関の支援により、インフラ整備は行われていった。2002年の2月には、UN Habitatの支援により、仮設トイレが10家族に1つの割合で設置された。また、仮設の市場もつくられ、水や生活用品が売買された。一時的な学校施設も設けられた。

(2)サエン・ソック村でのインタビュー調査及び参与観察
□就業形態
現在までに、約6割の人々が経済的な理由からこの地を去っていったという。では、2001年当初から継続して住み続けている人は、なぜこの地に定住することができたのか。その疑問を明らかにするために、村内の3家族に「現在はどのように収入を得ているのか」「移動当初はどのように収入を得ていたのか」を尋ねた。

 ある家族は、現在、父、母、子ども3人、長女の夫とその子どもの計7人で暮らしている。父

はプノンペンでバイク・タクシーをして月80ドル程度の収入を得ている。母は村内の市場で、揚げたバナナを売って1日の家族の食費分程度を稼いでいる。また、時間のある時に作った手芸品を村内のNGOに売ってわずかの現金収入を得ている。長女の夫はプノンペンのラジオ局で働いており、次女と三女が村内のNGOの職員として働き、合わせて月90ドル程度の収入を得ている。
移動当時、バイク・タクシー業をしていた父は、毎日通うことができなかったため、プノンペン市街の貧困者居住地に1人で暮らし、得た収入を月に一度家族に届けていた。プノンペン市街までの道が整備されてから、家族と一緒に住むようになった。また、長女は住み込みで家政婦として働き、得た収入を家族に送っていた。
別の家族にも同様の質問をしたところ、同じような答えが返ってきた。サエン・ソック村の住民は現在、バイク・タクシー、建設労働者、市場での物売り、NGO職員など多様な形態で収入を得ていることがわかった。一方、移動当初は収入を得ることが難しく、家族内の誰かがプノンペン市街に住み、定期的に家族に仕送りすることで、生計を維持できていたことが考察できた。

□居住環境
現在の村内の居住環境を明らかにするために、村内を歩いてみた。すると、住民の居住地を2つに分けることができることがわかった。第一に、土地の権利を持っている人々が住む場所である。政府による土地の分配は、7m×15mの土地に区切って行われたため、現在でも家々が整然と並んでいる。土地の権利の売買によって、大きな敷地を有する家や、空地となっている場所も多く見られた。第二に、土地の権利を持っていない人々が自身で家を作り、軒を連ねている場所である。村内の川(池)の両側及び病院裏の空地に、それぞれ100軒程度を数えることができた。
このような居住環境の違いがなぜ生まれたのかを疑問に思い、第二の場所にはどのような人が住んでいるのかを尋ねた。住民は「政府によって土地が与えられるのを待っている人々が住んでいる」と説明した。政府によって土地が分配された時に、土地が与えられなかった人々が独自に家をつくり、住んでいるということであった。また、経済的な理由から与えられた土地を売って、その地に住んでいる人もいると述べた。
移動当初、同じ状況からスタートした住民たちが、現在はそれぞれに異なる状況下に暮らしていることが考察できた。第一に、土地を得て移住当時から継続して住んでいる人々、第二に、土地の権利を得られずに自身で家を作り定住している人々、第三に、得た土地を売ってプノンペン市街に戻った人々、または村内に住んでいる人々である。また現在、売られた土地を買って、プノンペン市街から村内に移住してくる中間層も多数見られ、村内には経済的な格差が生まれていることがわかった。

□強制立退き後の生活

強制立退きに遭い、再定住したことを、現在はどのように感じているのかを住民にインタビューした。すると、質問した人全員が「この地に来てよかった」と答えた。その理由を尋ねると、元の居住地に居たときは、「衛生状態が悪かったから」「学校に行けなかったから」という答えが返ってきた。しかし、「現在の暮らしに満足しているか」と質問したところ、その答えは、政府から割り当てられた土地を得ている人といない人では意見が分かれた。前者は、「満足していると答えた人が多かったのに対して、後者の人々は生活への不安と政府の政策への不満を語った。

今回の調査を通して、現在の住民の生活の相違をもたらした分岐点を政府による土地の分配時に遡ることができることがわかった。一方、村を出た人々の暮らしを、今回の調査では明らかにすることができなかったため、今後の課題としたい。

今回の調査は、文部科学省研究拠点形成費等補助金による大学院教育改革支援プログラム「現地拠点活用による協働型地域研究者養成」の一環の支援を受け、実施することができた。深く感謝の意を表したい。

■ 2011年度 フィールドワーク・サポート(大学予算による)

■ 2010年度調査第2回

■ 2010年度調査第1回

■ 2010年度 フィールド調査サポートによらない学生の調査(フィールドワーク科目による単位認定)

■ 2009年度調査第2回

■ 2009年度調査第1回

■ 2008年度調査

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