本調査は、2009年度1月末に提出予定である修士論文の執筆にあたり、必要とされる資料・データの収集を目的に実施した。調査概要は、アルジェリア北部の山岳地帯であるK地域H村を中心に、インフォーマルな労働として絨毯の機織りに従事する村の女性らに聞き取り調査を行うこと、また彼女らを支援している村のアソシエーションをはじめとした、K地域で活動を広げている複数のアソシエーション団体に聞き取り調査を実施することで、K地域の住民同士のネットワークがアソシエーションを通していかに構築されているか検討することである。またK地域のほか、アルジェにおいて統計局を中心にデータ収集を目的に調査を実施した。なお、本調査は2009年8月11日から9月11日にかけて行い、そのうち9月5日〜10日の間においては、フランスのパリにわたり、アラブ世界研究所にて先行研究の読み込みを主とした文献資料の収集に費やした。本調査の詳細と成果は、以下の通りである。
1. K地域H村と絨毯の歴史に関する調査
アルジェリアでは、絨毯や刺繍といった伝統的な工芸品を作り、販売する職人に対し専門の資格証明書を発行しており、本来この証明書の取得は義務付けられている。しかしこれを発行、更新し続けるには毎年7000〜8000DA(ディナール)納めなければならないため、証明書を得ずにインフォーマルな立場として仕事を続けざるを得ない人々は、公立の販売所(アトリエ)などに商品を卸すことができず、身近な知り合いを通して注文を受けることにより収入を得、家計を助けてきた。K地域H村には、そうしたインフォーマルな立場として絨毯を織っている女性が20名ほど暮らしており、その多くはアルジェリア独立(1962)以前、何十年も前から機織りにより生活してきた人々である。なかでも最高齢の織り子として現在も現役で機織りを続けている女性A氏に聞き取りを行うことで、H村の女性と絨毯の関わりについて概観することを試みた。
1.1 A氏の話
・女子学校とマラテール先生
A氏によれば、H村の女性が現金収入を得る手段として絨毯の機織りを始めたのはフランス植民地支配を受けて以降のことであるという。フランス政府は、国内でもとりわけ父権性が強いK地域において女子教育を遂行したが、その試みのひとつがH村の女子学校であった。H村の女子教育は、絨毯の機織り技術の養成に限った、今日でいうところの職業訓練といったものではなく、国語(フランス語)、算数、家庭科といった初等教育に相当する複数の科目を授業として提供するものだった。授業は午前と午後の部に分かれており、機織りはある程度の年齢に達した生徒が、授業後の夕方から夜にかけての時間を利用して学べる制度になっていた。村の女子学校で教えていたフランス人教師のなかでも、H村に大きな変化をもたらした人物としてマラテール・アブデラスラム先生の話が現在も語り継がれている。マラテールは、H村の女子学校が設立された当初から、学校の責任者として運営から教育まですべてを任されていた女性である。現在、H村の絨毯の模様は、大きく4種類に区分することが出来る。アーバン、アーディル、アクラル、タクディフである。なかでも、アーバンと呼ばれる模様は1918年、マラテールの考案により、カビール地域の陶器に描かれていた模様を絨毯の模様に取り入れたことが発端となったものであるということであった。H村では、地域の伝統として、母から子へと絨毯の機織りが受け継がれていた。その多くはシンプルな白い絨毯が中心で、家内消費に限られたものであったが、マラテールが多くの模様を絨毯に適応させたこと、また貨幣経済がフランス入植とともに地域に浸透したこと(人頭税の納付など、現金を得る必要性も生じた)から、絨毯の売買が始まり、収入を得る手段として機織りが行われるようになった。今日においても、とりわけアーディルの模様に関しては村の絨毯学校あるいは職業訓練センターで学ばれる最も複雑な模様の絨毯であり、K地域の他村の女性ですら、H村のアーディルを職業訓練センター等に学びに行っている。H村の女子学校設立後、一定の期間はマラテールが単独で授業も行っていたが、次第に教員数も増え、K地域の女子学校のなかでも視察が訪れるなど模範校としての扱いを受けるまでになった。しかし、アルジェリア戦争を機に女子学校は閉鎖され、校舎は軍事キャンプとして利用された。独立後、改めて絨毯学校として再開するが、職業訓練センターとして同様の建物が近くに建設されたこと、また治安の悪化も影響し買い手が激減したことから、現在、村の絨毯学校に通う生徒はごくわずかとなっており、後継者の不足も新たな問題として沸き起こっている。
・アソシエーションと絨毯祭
H村で活動しているアソシエーションTILIWAは、機織りをしている村出身の女性のサポートを目的として、1989年8月16日に設立された。現在は賛同会員によって選出された若い女性7人、男性7人、代表1人の計15人が中心メンバーとして組織運営を行っている。“TILIWA”は、女性たちにとっては他の女性と情報交換をする場としても大きな役割を担ってきた、古くからH村に存在する泉の名前から取ったものである。TILIWAは非営利団体であり、活動の資金源は主に賛同会員らによる寄付金である。また、年に一度、絨毯祭という名で村の絨毯学校を会場に絨毯の展示会を行っているが、その際はT県による資金援助を元に企画運営を行っている。絨毯祭はベルベルテレビ局など、毎年テレビや新聞の取材を呼び、大々的に行ってきたことから、村にとっては村の歴史や文化を後世に伝えること、そして機織りの女性らにとっては年に一度大きな収入を得る機会となるという双方の目的により開催されてきた。今年度(2009年度)、H村の絨毯祭は11回目を迎えるはずであり、当初、本調査ではこの絨毯祭について、主に調査を実施する予定であった。しかし、日本を発つ直前に今年度の絨毯祭が行われなくなったとの連絡が入ったため、なぜ絨毯祭が行われなくなったのか、その経緯を聞き取り、検討することを調査目的の一つとするに至った。アソシエーション団体TILIWAに加え、ティジウズで活動しており広範なネットワークをK地域一帯にもつAMUSNAW、また記念館Maison du Tapisの改修工事を担当しているT県庁文化局局長と接触し、絨毯祭の開催がなぜ叶わなかったのかそれぞれの意見と見解を伺ったところ、村の住民により近い立場で活動しているTILIWA、AMUSNAWと、資金援助に関わる手続きを進める県庁側で意見の食い違いがみられた。TILIWAで機織り女性のサポートを担当しているH氏、及びAMUSNAWの広報担当のF氏に伺ったところでは、書類の申請は例年通り行ったにも関わらず、資金に関する連絡が行政側の担当者から入らないままであることから、おそらく担当者のところで資金がストップし、関係者に横領されたのではないかということであった。また、H村にかかわる人間で、変化を好まない人やアソシエーションの活動をよく思っていない人々による何らかの妨害があったのではないかという声も耳にした。H村のように大きな町でもない閉鎖的な地域では、アソシエーションのような地域に根付いた活動をよく思わない人がいることは事実であるが、反対派の立場としては、純粋に変化を望まないという理由より、行政側がアソシエーションのような運動体を好ましく思わず、妨害や監視をしているという声は度々耳にすることである。私がアソシエーションとともに行動していて感じたことだが、アソシエーションのメンバーの多くは村の住民出身者であり、エリート層の出身者により構成されているわけでもないため、村民からの信頼も厚く、住民側の個々人の生活環境や家庭の事情にも精通している。また村と村のネットワークも広範におよび、時にはヨーロッパ諸国のNGOらから支援を得、活動を行っているため、反感や懸念を抱く人々がいることも致し方ないように感じた。
・アラブ世界研究所における調査
パリに位置するアラブ世界研究所には、多くのイスラーム・アラブ関係の文献が所蔵されており、閲覧が可能となっている。ここでは、数日のみの滞在予定であったため、主にChantréauxという、かつてH村に滞在し、複数の論文、文献を残したフランスの人類学者の著書を閲覧、コピーすることを目的に訪問した。なかでもChantréauxの博士論文が出版化された著書は既に絶版となっており入手困難となっていたため、今回閲覧できたことで、1930年代後半におけるH村の女性の暮らしが絨毯に特化して描かれており、修士論文執筆にあたり非常に参考となった。
■ 2011年度 フィールドワーク・サポート(大学予算による)
■ 2010年度調査第2回
■ 2010年度調査第1回
■ 2010年度 フィールド調査サポートによらない学生の調査(フィールドワーク科目による単位認定)
■ 2009年度調査第2回
■ 2009年度調査第1回
■ 2008年度調査