上智大学 大学院 グローバル・スタディーズ研究科地域研究専攻

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大学院生へのフィールド調査サポート

調査地
ビルマ ヤカイン州
調査時期
2009年3月
調査者
博士前期課程
調査課題
18−19世紀ビルマにおける王権とサンガの関係に関する研究
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調査の目的と概要

前近代のビルマ史を考えるとき、王権と仏教との関係は欠くことのできないテーマである。ビルマ最後の王朝であるコンバウン朝(1752〜1885)の歴代国王は、仏法を護持・発展させるという目的のため、在位期間を通して仏教界への膨大な寄進を行った。寄進の形態は、仏塔や僧院、経蔵、貯水池など仏教関連施設の建設活動、またはそれら建造物の維持管理にあてる土地・労働力の寄進、さらに僧侶への食糧・必需品の寄進など様々である。

このような寄進活動が続けられた背景には、仏教の守護者であり、仏法の存続への責任を有する存在であるという、国王の責務として認識されていたことが従来指摘されている。このことは同時に、寄進活動を行うことが、国王としての正当性を主張するために必要不可欠な要素であったことを意味する。現在でも、かつての王都所在地には多数の仏塔が存在し、訪れた者にビルマの歴史を視覚的に訴えかける景観を形作っている。

しかし、寄進活動は、時として王国の統治における重大な問題ともなり得た。たとえば、マイケル・アウントウィンは、1985年のPagan: the origins of modern Burma(University of Hawaii Press)において、ビルマ最初の統一王朝パガン(バガン)朝(11〜13世紀)における寄進活動と、その影響を議論している。それによると、膨大な数の仏塔の建設および土地の寄進が行われた結果、免税地である寺領地が増大することになり、税収の低下と国力の衰退をまねく要因となった。

このような先行研究の成果から、ビルマ諸王朝の国王にとって、限りある動員可能な人的・物的資源を、仏教界と世俗の国内政治の双方に対し、どのように分配して用いるかが重要な課題となったであろうことが考えられる。コンバウン朝の時代にも興味深い事例がある。第6代の国王、バドン王(在位1782〜1819)の治世下に実行された、王国内に存在する寺領地への寄進を記録した碑文の収集と、内容の徹底した調査および再認定作業である。

先行研究で取り上げられることは少ないが、コンバウン時代においても寺領地の範囲を確定することが重要であったことがうかがえる。

しかしながら、コンバウン朝下における、寄進活動を媒介とした王権と仏教界の関係を考察するための基礎的なデータは、十分に整備されているとは言い難い状況にある。

そこで、コンバウン朝の中核地域であった上ミャンマーと、かつてはビルマ諸王朝から独立した王朝が存在していたヤカイン州において、この問題に関連する史資料取得を主眼としたフィールドワーク計画を立案した。

具体的には、それぞれの地域で歴史的な仏教建造物の現状確認を行い、それに付随する碑文などから、その建造物の縁起や寄進の内容を確認していく。

日程は、次の通りであった。

  • 全体の期間: 2009年2月24日〜3月23日
  • ヤカイン州(2月26日〜3月5日)
    滞在地:シットウェー、ミャウッウー、ヴェッサーリー、ダニャワディ
  • マンダレー近郊(3月6日〜3月14日)
    滞在地:マンダレー、ザガイン、ピンヤ、メイッティーラ、チャウッセー
  • バガン(3月15日〜3月18日)
    滞在地:バガン、サレー
  • ヤンゴン(3月19日〜20日)
  • シンガポール(3月21日〜22日)
    訪問先:アジア文明博物館、シンガポール国立博物館

調査成果

今回の調査では、ヤカイン州、マンダレー周辺、バガンと大きく3つの地域を移動した。以下、個々の地域ごとにフィールドワークの成果をまとめる。

ヤカイン州では、コンバウン朝による併合まで王都が置かれていた、ミャウッウーを中心に歴史的な仏教建造物をまわった。15世紀〜18世紀の間に、国王・王族によって多数の仏塔が建造され、今日でも約200が現存している。また、都市としての特徴は多数の仏塔だけではない。自然地形を巧みに利用した防衛設備も際立った特徴である。都市全体が丘陵地の空隙に存在する平地内におさめられており、頂上に仏塔を頂く丘の連なりが、ミャウッウーの景観を作り上げている。こうした点を踏まえ、1996年以降、政府による考古学地区としての保全・管理体制の整備が進められている。

仏塔そのものについて、上ミャンマーとは異なる点がいくつか認められた。建材として上ミャンマーではレンガを用いるのに対し、ミャウッウーでは砂岩のプロックが使用されている。ミャウッウー王宮の北方に位置するシッタウン・パゴダやトウッカンティン・パゴダのように、ヴォールト構造で作られた屋根を持ち、中央の礼拝室を取り巻く二重回廊を備えた形態の建造物も存在する。上ミャンマーには見られない形態の建造物であり、重要である。

シッタウン・パゴダの境内には、8世紀のものとされるアーナンダチャンドラ碑文が保管されている。ミャウッウーに都を置く以前、ヴェッサーリーの国王が、祖先王たちの名と事績を記したというもので、ヤカインの歴史を知るうえで極めて貴重な史料である。碑文そのものは碑文保管庫に収蔵されているため、間近に見ることはできないが、保管庫に隣接して碑文の拓本とビルマ語訳文、解説などが掲示されており、概要を知ることができる。それによれば、この碑文はもともと4面から成るが、現在はその1面のみを解読できているに過ぎない。他の面は、既に文字が判読不能か、未記入の面であった。1面あたりに二百年分ほどの事績を刻んでいたようだが、このように長期間を通じて書き足していくという碑文は、管見の限り上ミャンマーにはない。ヤカイン王朝における独特の時間観念に基づく記録装置ということであろう。

ミャウッウーに所在する多数の仏塔は、現在も修復・整備作業が着実に進行していた。2001年に刊行されたパメラ・グットマンのBurma's Lost Kingdoms: Splendours of Arakan.(Orchid Press)では、1990年代後半に撮影された写真が多数掲載されているが、それと比較すると、修復の進行を明瞭に確認することができる。例えば、当時は損傷していたラダナボン・パゴダが今ではほぼ完全に修復され、修復記念碑がたてられている。

しかし、こうした碑文を除くと、上ミャンマーで多く見られる寄進内容を詳細に記した碑文は確認することができなかった。現時点で確定的なことは言えないが、上ミャンマーの王朝とヤカインの王朝とで、多数の仏教建造物を建設したという共通項はあるものの、その方法や社会的文脈については、必ずしも同一ではない可能性がある。ごく少数ながら、ミャウッウー考古博物館にミャウッウー期の碑文が収蔵されており、今後、それらの分析が必要であろう。

したがって、ヤカイン州での成果は、仏教建造物の修復・管理が進行している現状を確認できたこと、また記録装置としての碑文の性格が、上ミャンマーとヤカインとで異なる側面があることを知り得たにとどまる。

これに続く上ミャンマーでのフィールドワークでは、史料から王朝時代に寺領地が設定されていたことが明白なパゴダを中心にまわった。

最初の訪問地であるピンヤは、バガン朝の崩壊後、14世紀に一時的に王都が置かれた町である。現在でも、大型のパゴダが複数残っている。このうち、シュエズィーゴン・パゴダは美しく修復されており、境内に周辺の地図や歴史を記した碑が立つなどしている。碑文も境内の碑文庫に10点ほどが収蔵されていた。ここにある碑文は、全てコンバウン期以前のもので、文字も丸い形状のものではなく、それに先行する四角い形状のものであった。

次いで、マンダレーでは、マハムニ・パゴダ境内にある碑文庫を訪ねた。この碑文集積は、さかのぼればコンバウン時代バドン王期の寺領地調査の成果である。約700点以上の碑文が現存し、収蔵庫内に、番号順に、整然と立ち並んでいる。ここにある碑文には、コンバウン時代以前に存在した碑文の内容を刻写したもの、オリジナルがコンバウン時代に作成されたもの、あるいは両者の内容が織り交ざっているもの、と大きく3種類の碑文が存在するが、文字はいずれも、現代と共通する丸い形状のものである。

このほか、上ミャンマーにはミャンマー考古局が管理する碑文庫が、ザガイン、チャウッセーにもあるものの、古いものが多く、コンバウン時代の碑文については収蔵点数が少ない。したがって、本フィールドワークの目的に最も合致するのはマハムニ・パゴダで確認できた碑文ということになる。

マハムニ・パゴダ収蔵の碑文群は、基本的な構成が共通している。表・裏の2面があり、それぞれ行数は20行〜40行ほどである。表面の冒頭に、碑文のタイトルが刻まれており、その横に管理用に書かれた通し番号が加えられている。全体の構成としては、まずパーリ語による一文があり、続いて国王の王統や事績が刻まれる。寄進内容の詳細があるのはそれに続く部分である。そして最後に、寄進者の功徳の永続が願われる。

同碑文庫で合計約40点の碑文文面を採取することができたが、現状では全ての分析は未完である。しかし、これまでに確認できただけでも、寄進内容の表現方法にばらつきがあることが確認できる。例えば、土地の寄進の際には、その範囲の表し方が異なる。面積を表す単位で明確な数値を記す場合もあれば、東西南北方向の目印を明記し、それによって範囲を表す場合もある。この理由については今後の課題としたい。

最後に、バガンでは、コンバウン時代のものという建造物の現状確認を行った。バガンに残る約2000点の建造物は、大半がバガン朝時代に起源をもつものであるが、後世の諸王朝によって寄進された建造物も存在する。中には壁画を良好な保存状態で残すものも現存している。また、仏舎利を宝蔵したパゴダとして名高い、タンジィー・パゴダやトゥーインパゴダでは、境内に複数の碑文が保管されていた。

バガンでの成果は、コンバウン時代の建造物の現状と所在地を確認できたことにとどまり、文字史料については見るべきものが少なかった。

フィールドワーク全体の成果として、まず当初の目標のうち、仏塔の現状確認については、所在地と共に修復の状態などを多数確認することができた。次に、碑文の文面についても、マンダレーのマハムニ・パゴダなどで多数を取得することができた。

今後の課題は、それらの分析である。年代記や勅令集など、他の史料と相互参照しながら、碑文に記録された情報の文脈を読み解いていきたい。

■ 2011年度 フィールドワーク・サポート(大学予算による)

■ 2010年度調査第2回

■ 2010年度調査第1回

■ 2010年度 フィールド調査サポートによらない学生の調査(フィールドワーク科目による単位認定)

■ 2009年度調査第2回

■ 2009年度調査第1回

■ 2008年度調査

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