現在イスラーム主義者の活動が注目を集めているが、彼らの行動を正確に理解するためには、その言説や論述の内容の分析が不可欠である。エジプト・アラブ共和国はムスリム同胞団の創設者ハサン・バンナーをはじめとするイスラーム主義者の生地であり、その思想関連を扱う書店が多数、存在するだけでなく、アズハル周辺やアレキサンドリア市内には同胞団系の書店も存在し、ムスリム同胞団員やイスラーム主義運動の研究者が多い。本調査では以上の状況を踏まえて、エジプトにて次の調査を実施することを目的とした。
(1)カイロおよびアレキサンドリア市内の書店および図書館にて、バンナーら同胞団思想家の文献・資料を収集、調査を行なう。
(2)収集した資料に基づきバンナーおよび同胞団思想家における歴史観・西洋文明観を分析する。
(3)ムスリム同胞団系メンバーに面会し、インタビュー調査を行う。
本調査は2011年度以降に予定している長期調査の予備調査であった。同胞団の思想研究に関しては、従来の研究はイスラーム国家観や社会観、倫理・道徳などが中心であり、彼らの歴史認識や西洋文明観についての研究は僅かであった。調査者はこれまで、イスラーム思想と西欧思想との「ずれ」[互いの誤解]を生む一つの原因が歴史観の違いであるとの認識に立ち、バンナーの著作を初めとするアラビア語史料の収集を通じて彼らの歴史叙述を分析してきた。本調査はそれを踏まえ、主にバンナーの思想や歴史認識に対する同胞団関係者の意見を聴取することで彼らの歴史認識及び西洋文明観を分析することを目的とした。そのことによりイスラーム思想と西欧思想の間にある溝を解明し、現代イスラーム主義運動が投げかけている問題に新たな光をあてることができると考えた。
本調査では、まず9月3日より19日までカイロのザマーレク地区に滞在し、同地の日本学術振興会カイロ研究連絡センター、および上智大学カイロ研究センターを訪問した。その上で調査期間の大半をカイロ国立図書館(Dar al-Kutub al-Qawmiyya)、ザマーレクおよびアズハル・モスクやフサイン広場周辺の書店街を巡り文献・資料の収集と読み込みを行なった。この度の調査で収集できた主な文献と資料は、以下のとおりである。
・Kennedy H., The Great Arab Conquests, How the spread of Islam changed the world we live in, London, orionbooks, 2007
・Mitchell, Richard P., The Society of the Muslim Brothers. Oxford University Press,
1969
・Qaradawi, Yusuf, Tarikhna: al-Muftara ‘alayhi, Cairo, Dar al-Shrouq, 2004.
上記の文献[Qaradawi; 2004]は、エジプトの同胞団の現代の著名なイデオローグである著者が、イスラーム史に対する近年の批判的議論に対し、著者独自の歴史認識を提示しイスラームにおける歴史認識の重要性ついて論じた最近の論考である。一方、[Mitchell; 1969] は初期のムスリム同胞団を扱った先行研究の代表的な著作として挙げられるものであり、同胞団研究に関わるうえで最も重要な資料の一つである。[Kenedy; 2007]はイスラームの初期征服史についての史学の観点からの実証研究の最新の研究成果が含まれており、同胞団の歴史観との比較考察の上で検討の材料となると思われる資料である。この度これらの資料を現地に赴くことにより入手することができた。
また調査者は9月6日にカイロ近郊の10th of Ramadan、9月14日にはナセルシティーに赴き、そこで現在同胞団のメンバーであるSalma Dental Clinic の歯科医Islam Mansour氏と面会し、バンナーや同胞団の活動に関する話を聞くことが出来た。氏との会見での応答は以下の通りである。
第1に、調査者は初期イスラーム史に関する氏の見解について尋ねた。Islam氏の見解は、イスラームの歴史において預言者ムハンマドの時代は決定的に重要な意味を持ち、それに続く正統カリフ時代は真正で高潔のイスラームが実践されていたとする。それ以後の諸王朝に関しては、時代と治めた君主により良い時代と悪い時代があり、一概に王朝の善悪を断定することは出来ないというものであった。
第2に、バンナーと彼の言説に対する氏の見解について質問した。同氏はバンナーの言説の核心は個人から家庭、社会へとイスラームの実践を広げる段階論の重視にあると述べた。またそれに際しバンナーは新規な要素をイスラームに持ち込もうとしたのではなく、理想とすべきイスラームから遠く隔たってしまった現実のイスラーム世界を本来あるべき姿に立ち返らせようとした、とのことであった。
第3にムスリム同胞団の下部組織で現在も機能しているウスラ制度につき、その詳細について教示を受けた。ウスラ制度とは同胞団の少数のメンバーからなる集会であり、会合は週ごとに開催され、会合場所は一定ではなく各メンバーの置かれた状況によって変化するというものである。氏によれば会合において議論される内容は多岐にわたるが、イスラームの宗教的知識や実践の問題の他に、イスラーム史の重要性についても議題となることはしばしばあるとの事であった。
またIslam氏との面会時、調査者は現在の同胞団において歴史や西洋文明論を執筆する著名な著作家につき質問したが、同氏はその分野の代表的著作家としてRaghib al-Sirjani、 ‘Ali Muhammad al-Salabi氏を調査者に紹介した。今回の調査期間を通じ書店にて探索した結果、上記の著者の著作複数を入手することができた。その中でこの度購入できた書籍は主に以下のものである。
・Al-Salabi ‘Ali Muhammad, Al-Dawla al-‘Uthmaniyya, ‘Awamil al-Nuhud wa-asbab al-suqut, Cairo, Mu’assa Ikra’a lil-Nashr wal-tauzi‘ wal-tarjama, 2005
・----, Al-Dawla al-Fatimiyya, Cairo, Mu’assa Ikra’a lil-Nashr wal-tauzi‘ wal-tarjama, 2006
・----, Al-Fath al-Islami fi al-Shamal al-Ifriqi, Cairo, Mu’assa Ikra’a lil-Nashr wal-tauzi‘ wal-tarjama, 2007
調査者は9月19日より22日までアレキサンドリアを訪問し、同地に滞在した。滞在中はNabi al-Daniel 通りの古書店街を訪問するなどして資料の収集にあたった。その後カイロへ戻り、出立日の25日まで同地に滞在した。この間ムスリム同胞団の医療協会の会長であった ‘Abd al-Mon’em ‘Abu al-Fotouh氏に聞き取り調査を行なうことが出来た。同氏の見解と解答は以下の通り。
第1にムスリム同胞団に加入した契機について質問した、同氏が大学在籍中の1970年代にイスラーム運動が大学で広まっており、1974年にサーダート大統領が前任の大統領ナーセルにより投獄されていた同胞団メンバーを釈放した際、学生団体と同胞団メンバーの間でつながりが生まれ、同氏はその結果同胞団に参加したということである。
第2に調査者は、同胞団創設者バンナーに対する見解について質問した。氏はバンナーを平和主義的改革者と見なし、彼がラシード・リダーら先達のイスラーム思想家によるイスラームの刷新の試みの後を継ぎ、1924年のトルコにおけるカリフ制廃止等の出来事の結果、イスラームが危機に陥った時代背景において実践的な草の根の活動を成功させることができたという点を重視していた。
第3に調査者は ‘Abu al-Fotouh氏の持つヨーロッパ文明観につき質問を行なった。同氏によれば、近代以降ヨーロッパよりエジプトに移植された西洋文明がエジプトに与えた影響について言えば、よい側面と悪い側面の双方があったとする。その例として、西洋的価値観の中における人権や表現の自由といった概念は受け容れられるものである、その一方で西洋近代の価値観の中には、イスラームの教えと矛盾、衝突する概念も内包していたと指摘した。
第4に調査者は、現在の世界におけるイスラームの現状に関する同氏の見解を尋ねた。同氏によれば、現在のイスラーム社会ではイスラームの正しい教えは実践される傾向にあるが、いくつかの誤解が広まっているとの認識を示した。それらは本来イスラームが自由や正義、公正などの価値観を唱導するものであるが、一部の人々にはそれが伝わらず、恐怖や不安を作り出すものと考えられているということであった。
この度の調査を総括して、現地に赴きムスリム同胞団関係の書籍を収集し、現地で団員の話を聞くことができたという点で有益な示唆を得ることができ、特に現在の同胞団において調査者が現在主な研究対象としているバンナーの思想やイスラーム主義者の歴史認識、西洋文明観といった議題に対して、実際の同胞団のメンバーの意見を聞く機会を得たことで、同じ同胞団の中でも彼らの思想や考え方には個人により見解の一致だけでなく相違や多様性も見られるという事を理解することができた。本調査は、文部科学省研究拠点形成費等補助金による大学院教育改革支援プログラム「現地拠点活用による協働型地域研究者養成」の一環の支援を受け、実施することができた。深く感謝の意を表したい。
■ 2011年度 フィールドワーク・サポート(大学予算による)
■ 2010年度調査第2回
■ 2010年度調査第1回
■ 2010年度 フィールド調査サポートによらない学生の調査(フィールドワーク科目による単位認定)
■ 2009年度調査第2回
■ 2009年度調査第1回
■ 2008年度調査