上智大学 大学院 グローバル・スタディーズ研究科地域研究専攻

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大学院生へのフィールド調査サポート

調査地
メキシコ カンペチェ州
調査時期
2009年3月
調査者
博士前期課程
調査課題
シュマベン村参事会公文書と養蜂同業者組合による記録文書の調査
―20世紀ユカタン・マヤ先住民の養蜂における外国種ミツバチ導入の経緯と対応、影響を探る
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調査の目的と概要

メキシコ、ユカタン半島マヤ先住民の間で、先スペイン期から行われている養蜂を取り扱う。そこでは、1911年と1987年の二度、外国種のミツバチ(ヨーロッパ種、アフリカ種)が導入され、養蜂様式、蜂蜜の消費者、社会的位置付け(ハチミツの用途、養蜂の目的)が大きく変化した。

今回の調査は、その「二度の外国種の導入が、具体的にどのように行われ、生産、流通、消費がどのような変化をもたらしたかを明らかにする」ことを目的としていた。対象地はメキシコ、カンペチェ州ホペルチェンの先住民共同体、シュマベン(Xmaben)村を中心とし、必要に応じその隣接村落(シュメヒア村、ウクム村)も対象地域とする。具体的に、1911年と1987年前後の資料に焦点をあて、調査することとした。

  1. Archivo General del Cabildo(村参事会公文書)から、共同体レベルでの外来種導入への反応、実施した施策の調査。外来種導入の経済、社会への影響を明らかにする。
  2. 養蜂同業者組合(Lol K'ax、Lol Jabín)及びそれを援助するNGO(COMADEP)の保有する資料から、実際に導入時期に生産者がどのような計画を持ち、どのような手段で外国種導入に対応していったかを明らかにする。

本調査は「先住民がどのような論理で外部からの技術や物質、思想に対応し、変容してきたかを明らかにする」という私の修士課程での研究テーマに基づく調査の一環である。特に、20世紀中の外来種ミツバチ導入はユカタン・マヤ先住民の養蜂の生産や消費、社会的役割を大きく変えた出来事であった。

よって、本調査で外国種導入期の具体的なデータを得ることは、養蜂及びハチミツの役割が先住民社会の中でどのように変容したかを文化人類学的に分析・考察するための重要な鍵となるだろう。

調査成果

本調査は記録文書を中心に20世紀中の外国種ミツバチ導入による養蜂業の変容を追うことを目的としていたが、シュマベン村に残されている資料の状況等などから、方法の変更を行った。村自体に記録された文書が多く保管されていないことを踏まえ、現地入りに際し指導を受けたメキシコ国立自治大学(UNAM)のSotelo博士との相談の上で、1950年以降に外国種ミツバチの導入に携わった方々への聞き取り調査を中心に養蜂業の変遷を追うことにした。

シュマベン村で一番最初に外国種による養蜂を開始した一家のモントイ家を中心に聞き取り調査をすることができた。特に実際に当時から外国種の導入に携わった家長のブッシュという老人から話を聞くことができたのは大きな収穫だった。現在では最も重要な現金収入手段となっている養蜂は常に村の歴史と密接にかかわってきた。そのため、養蜂業の変容を聞き取り調査すると同時に、村の歴史や経済を支えてきた中心産業の移り変わりを知ることにもつながった。

聞き取りの結果をまとめると、村自体は、20世紀初頭に現在の場所に移動してきたということだ。シュマベンという村は存在していたが、現在の位置になってからはまだ100年ほどしか経っていないのである。現在の村の中心には大きな井戸があるが、水源を求めた当時の人々はそこを中心にして移り住んできたというのである。20世紀半ばまでは、チューインガムの原料とされるチクレ(サポジラ)の木からとれる樹液の採集産業であり、重要な現金収入源であった。そのほとんどがアメリカへと輸出され、20世紀中の二度の大戦下ではアメリカ兵の食糧にも指定されていたそうだ。そのため、大量のチクレ採集が行われていたこともうなずける。

養蜂はというと、20世紀前半は経済的な重要性は持たず、そのハチミツや蜜蝋の生産量も少なかった。当時は、ユカタン半島の固有種、針を持たないミツバチ(以下マヤ蜂とする)を用いた養蜂が行われ、そこからとれるハチミツはもちろんであるが、蜜蝋がより重要であった。電気も通っていない時代には、ミツバチが生産する蜜蝋を使ったろうそくが明かりとして重宝されていた。1970年代までは、マヤ蜂が村で大量に飼育され、自家消費用の多くのハチミツと蜜蝋を生産していたそうだ。マヤ地域では蜂は特別な存在であり、神が蜂に姿を変えていると考えられてきた。それゆえ、ハチやその生産物であるハチミツ、蜜蝋は彼らの信仰や儀式にとって非常に重要な意味を持っていた。マヤ蜂からとれる蜜蝋のろうそくや、ハチミツのお酒を使用することは、宗教儀式の効き目がより表れやすいと考えられている、と村の歴史に詳しいリベラトさんが教えてくれた。

聞き取り調査からわかったことは、チクレ産業が20世紀半ばから衰退していくのに合わせ、外国種のミツバチを用いた養蜂が導入され、ハチミツの生産拡大及び販売が重要視されるようになった。そして、次第に養蜂は現金収入を最ももたらしてくれる村の中心産業となったということだ。

ユカタン半島に外国種のミツバチが導入されたのは、資料によって多少のばらつきがあるものの1910年代であるということだ。しかしながらシュマベン村においては、少なくとも1950年以降になるまで外国種のミツバチが導入されることがなかったそうだ。

村ではまず始めにイタリア種のミツバチが導入され、幾度かの技能研修が開かれたそうである。導入を推進していたのはINI(全国先住民庁)だという。聞き取り調査では、その際の全国先住民庁及び州政府の意図を探ることは無理であったが、外国種による養蜂を比較的抵抗もなく受け入れ、そのまま重要な現金収入源として成長させていったのである。

また、外国種が導入される前の養蜂業がどのような形態でおこなわれていたか、その生産物がどのように使用されていたかに関しても聞くことができた。

聞き取り調査から得られた情報が多かったことに対し、文字資料をあまり多く手にすることができなかった。しかし、それらの文字資料からは、聞き取り調査の内容を裏付けるような歴史的事項が多く記録されていた。私が手に(目に)することができた資料は、村が公に残したものではなく、村の個人が村の歴史や儀式の手法を記録したものであった。養蜂業の変遷と村の歴史の移り変わりは密接に関わっているようであった。無理を言っていくつかの資料を貸してもらうことができ、そのコピーをとってくることができた。

村での聞き取り調査から、当初の目的としていた20世紀中の養蜂産業の変容の像をつかむことができた。次に必要となってくるのが、その養蜂業の形態変容の背景にどのような理由や意図があったのかを探ることであった。

その際に、シュマベン村だけでない、ユカタン半島の経済の移り変わりを見る必要性があった。そもそも外国種ミツバチの導入は村人が主導でおこなったのではなく、国及び州政府などのレベルでの決定により導入が進められたからだ。

ユカタン半島への外国種ミツバチの導入は、メキシコ革命に関わったサルバドール・アルバラードという軍人が1910年代に、経済利益のためにイタリア種を導入したことからはじまった。20世紀半ば以降は、エネケンという植物を用いて行う繊維産業の衰退に合わせ、それにとってかわるユカタン半島の重要な産業として養蜂が着目されるようになったのである。このように、ユカタン半島全体の経済状況を抜きにはシュマベン村における養蜂産業の変容の論理を理解することはできない。

それらの資料に関して、カンペチェ自治大学のコンスエロ博士、ユカタン自治大学の養蜂、ユカタン自治大学ミツバチ研究所の職員、ゴンサレス博士、アルファロ博士と会い、文献資料の提供と、ユカタン半島全体における20世紀中の養蜂業に関して教示頂いた。同時に、ユカタン自治大学において、20世紀中のユカタン半島の経済状況に関する文献も多く手にした。

ユカタン半島の養蜂に関して、研究センターがユカタン自治大学内にあるなど、研究が進んでいるといえる。しかしながらその研究は生物学・獣医学的なものが多く、人々の生活と結びつけた文化人類学的な研究は非常に少ないということがわかった。数少ないながらも、上記の博士方の協力により、文化人類学的にユカタン半島の養蜂に関する先行研究を見つけることができた。

本調査の目的とする20世紀中のシュマベン村における養蜂業の変容調査は、7月にメキシコ・シティで行われる第53回国際アメリカニスタ会議において発表する予定である。本滞在中に得た有意義なデータ及び資料を整理、まとめて発表を迎えるつもりである。

■ 2011年度 フィールドワーク・サポート(大学予算による)

■ 2010年度調査第2回

■ 2010年度調査第1回

■ 2010年度 フィールド調査サポートによらない学生の調査(フィールドワーク科目による単位認定)

■ 2009年度調査第2回

■ 2009年度調査第1回

■ 2008年度調査

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