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卒業生の声

近況報告

1998年度卒業生 石川陽子(木版画工房摺師)
楊洛書先生と(2011 年)

楊洛書先生と(2011 年)

私の専門は中国の古くからの民衆版画「年画」というものです。

年画

年画

年画

年画

1996年に33歳で上智大学史学科に編入学し、1999年に卒業後、実践女子大学大学院美術史学科で中国年画について研究しました。その後は中国史・中国美術史とは関係のない仕事についていました。それでも、年画を自分でも制作できるのではないかと、浮世絵の木版画彫師の第一人者である朝香元晴先生の元で日本の伝統木版画技術を習い始めていました。

2010年に、「年画」を今でも制作している、明代から続く工房のマイスター楊洛書先生に年画を教えて欲しい、と手紙を書いたところOKがでましたので2011年に中国山東省.坊市楊家埠の工房に3ヶ月弱通いました。

彫師 朝香元晴先生

彫師
朝香元晴先生

帰国後は朝香先生のお友達である、カナダ人木版画家デービッド・ブル(DavidBull)さんの工房「木版館」で摺師として働いて現在に至っています。

ブルさんの工房は緑豊かな青梅にあり、2時間半かけて通勤しています。
私が働き始めた頃は、浮世絵や江戸から明治時代の作品をブルさんが彫ったものを私たち摺師が摺っていましたが、2年前にアメリカ人のイラストレーター、JedHenryさんが描いたゲームのキャラクターを制作し始めてから海外のマスメディアに取り上げられることも多くなりすごく売れるようになりました。今年はUkiyoeHeroes’Portraits’という連作を摺っていますが、海外で評判です。

Ukiyoe Heroes ’Portraits’ シリーズより

Ukiyoe
Heroes ’Portraits’シリーズより

Ukiyoe Heroes ’Portraits’ シリーズより

Ukiyoe
Heroes ’Portraits’シリーズより

この成功もあって、今年の秋には、青梅の他に浅草に工房兼店を出すことになり、そこで摺師を兼ねてマネージャーとして働きます。ボスであるブルさんを助けながら、スタッフ皆が気持ちよく仕事ができるように力を尽くしたいと思っています。

現在、日本では浮世絵等の伝統木版画の技術は風前の灯です。浮世絵は海外では評価が高くても、日本ではその価値が認められにくくなっています。朝香先生ほどの技術の持ち主ももう数少なく、後継者も育っていません。そんな日本伝統木版画界の瀕死の危機に、日本の伝統木版画が好きで好きでしょうがなくてカナダから移住してきた外人であるブルさんが、今、日本の伝統木版画界を支えている一人になっています。そんなブルさんの元で働けることにとても幸せを感じています。上智での生活が第二の青春なら、今が第三の青春であると実感しています。

これからは朝香先生の元で彫りの技術を向上させながら、浅草の店で木版画作品を通じて、世界の色々な人々に日本を理解してもらい、日本ファンを増やして友好の懸け橋の一端を担えたらいいなと思っています。私の年画への追求が、微力ながら今、伝統木版画という形で世界とつながりかけています。

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史学科とわたし

1997年度卒業生 望月 豊(NHK)
東日本大震災の被災地の海を取材

東日本大震災の被災地の海を取材

平成10年に上智大学を卒業して、NHK(日本放送協会)にアナウンサーとして入局し、中部地方や大阪などの放送局で勤務しました。

仕事の内容は、ローカルでは18時台のニュース番組が主でしたが、ナレーションや朗読、潜水リポーターとして国内外の海で水中リポートをするなど、自分の興味のある分野にも取り組んできました。

現在(平成26年)は、東京・渋谷の放送センターで、ラジオのディレクター兼務で働いています。

大学では、日本中世史を専攻し、卒業論文のテーマは、地元の堀越公方(室町幕府8代将軍・足利義政の弟・政知)についてでした。大学院に進むことを真剣に考えていましたが、結局就職を選択し、史学科で学んだことが活かせるのではと、さまざまな知識が求められるマスコミ関係を重点的に受験しました。

もっとも日本史の知識が直接仕事に役立ったことはほとんどありません(そもそも、社会に出てから通用する専門性を求めるのであれば、何を学ぶにしても最低限大学院程度の学歴は必須です)。

ただ、だからといって、史学科で学んだことが無駄だったとも思いません。史学科での経験が役立っていると感じる点を挙げるとすれば、徹底的に「調べる」こと、これはいまの仕事の「取材」にも通じるところがあるのかなと感じています。

そんなことを考えていた矢先、思いがけず嬉しい出来事がありました。

日本史専攻という肩書?を見込まれて、「DJ日本史」という番組に携わりました。タレントの松村邦洋さんと、お江戸好きのアイドル=お江戸ルこと堀口茉純さんと一緒に、お二人の豊富な知識とおしゃべり、松村さんのものまねで日本史を楽しむ番組です。

http://www.nhk.or.jp/r1-night/dj-nihonshi/

残念ながら、今は番組を離れてしまいましたが、なんだかご褒美をもらったような気分で、大学時代に使っていた日本史辞典を15年ぶりに引っ張り出し、「DJもっちー」として毎回楽しく放送に臨んでいました。

また、5月には、神奈川県小田原市で、ご当地で開かれている「北条五代祭り」に合わせて公開収録も行いました。今はどうか知りませんが、在学中は1年生の前期の最後に「悉皆調査」といって、あるテーマについて関連文献を調べ上げるという課題がありました。
その時取り上げたテーマが「後北条氏五代」についてだったので、人生こんなつながりもあるのだなあと一人感激した次第です。

上智はこじんまりとした大学ですが、よく言うように国際色豊かで在学中もさまざまな刺激を受けました。学閥がある会社では弱いかもしれませんが!?、そうでなければ上智ということが社会に出てからも個性になり得る大学です(ちなみにNHKには学閥などは一切ありません)。大学生活で、ぜひ自分の興味・関心を育み、自分という個性に磨きをかけていってください。

DJ日本史で松村さん堀口さんと

DJ日本史で松村さん堀口さんと

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あなたならどうしますか?

1997年度卒業生 小堀 優(みらい総合法律事務所弁護士)
「4年間、好きに使っていいよ」と言われたら、あなたならどうしますか?

筆者近影

○史学科から弁護士へ
私は、1993年に史学科に入学し、長田彰文教授のゼミに所属していました。

卒業後、司法試験に合格し、大学から歩いて10分位のところにある法律事務所で弁護士をしています。主な仕事としては、企業法務、不動産、M&A等を扱っています。また、書くことや話すことが好きなこともあって、法律実務書の執筆をしたり、放送大学でも教壇に立っております。

○史学科での生活を振り返って
史学科での生活を振り返ると、「悉皆調査(しっかいちょうさ)」が思い出に残っています。この「悉皆調査」とは、「悉く(ことごとく)」「皆(みな)」「調べ尽くす」という意味を有しています。 歴史学では、研究対象を確定する際に、その分野に関する文献・論文等の徹底したリサーチを行います。このリサーチを通じて過去の歴史研究の到達点を把握したうえで、未解明の分野や新たな歴史解釈へと迫っていきます。逆に、 このリサーチが不十分だと、独りよがりの研究結果にもなりかねません。

学生当時、この悉皆調査は苦痛以外の何物でもありませんでした(この時の担当教員が豊田浩志教授であり、厳しい成績を頂戴した痛い思い出もあります。)。

しかし、この悉皆調査は、あらゆる分野で活用できるスキルです。弁護士業務でいえば、法令や判例の調査は必須ですし、法律の解釈が問題になっている事案では、国会での審議過程を調べるために委員会議事録等のリサーチも行います。他の業界でも、メーカーなら商品の研究開発やマーケティングリサーチは必須ですし、マスコミなら綿密な取材を行うことは当然でしょう。

このように、史学科で学んだことは、歴史学だけに留まるものではなく、あなたの人生にきっと役立つことがあろうかと思います。

就職活動へのステップアップとして学科を選ぶのも一つの考え方だとは思います。しかし、大学生活の4年間は、社会に出ると二度と得られない時間ですので、自分ならではの使い方が見つかるといいなと思います。

「4年間、好きに使っていいよ」と言われたら、あなたならどうしますか?
もし、純粋に歴史が好きでしたら、史学科での生活はきっと楽しいものになると思います。そして、大学での楽しい4年間は、その後の人生にも素晴らしい果実をもたらしてくれると信じています。

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何処にいても必要なことを史学科で学んだ

1997年度卒業 遠藤 崇(総務省勤務)
著者近影

著者近影

1.史学科では予定どおり、やりたい勉強ができた
私は元々、卒業後の汎用性の観点から経済学部志望をしていましたが、歴史好きの人間で終わらず、「太平洋戦争の原因を自分なりに理解しておきたい」という欲求から、史学科に志望を変えました。多くの大学に史学科はありましたが、2年次からゼミ形式で勉強できる上智の史学科は大変魅力的でした。

ゼミは、英語文献を読み続ける2年次のゼミから始まり、3年次からは自分自身が追及したい内容を他のゼミ生に発表しながら卒論の構成をまとめていくエキサイティングな段階に入りました。最終的には、卒論「在米日本大使館と日米開戦」の執筆をもって、入学当初の欲求は概ね満たすことができました。太平洋戦争の原因という漠然とした知識欲を上手く消化できず悩んでいた4年次の夏、「在米大使館に焦点を当てて書いてみては」とさらっとアドバイスを下さった長田先生には非常に感謝しています。原稿用紙180枚程の卒論は、社会人としての日々の活動にも大きな武器となっています。史学科で得た知識を使っていないにも拘わらず、です。

卒論は大事に保存

卒論は大事に保存

2.歴史から離れる
卒業後は、自治省(現:総務省)に入省しました。史学科での勉学に一定の満足を得た後、紆余曲折を経て、現在は歴史から離れた世界に身を置いています。この進路を選択したのは、自治省という役所が、中央政府と地方自治体との調整役を担っており、在学中に努めたソフィア祭実行委員会の副委員長の役割と似ているところがあったからです。政治資金制度を担当する部署で公務員人生をスタートし、その後も、地方財政、国会担当などに携わっていきましたが、自分のキャリアが歴史とクロスすることはありませんでした。

3.それでも、史学科時代の経験は活きる
役所生活も6年程経過したある日、何気ない会話の中、上司が私の仕事ぶりをロジックや根拠で結論をガチガチに固めることが多いと評しました。柔軟性に欠けるという短所もありますが、私はこれをポジティブに受け取りました。分野を問わず、根拠は必要です。特に私のいる役所は、サービスを提供する相手、クライアントが1億3千万の国民です。最大限の納得を得るには、根拠とロジックは拘っても拘りすぎることはありません。

根拠への拘り、これは史学科で、特に卒論を通じて学びました。卒論は、先生方の論文に比べれば内容は浅いですが、この世にないオリジナルです。そのオリジナリティをしっかりと確立させるのは、史料をいくつも当たって築く根拠の繰り返しである点は変わりありません。史学科で得た知識を直接使った仕事ではなくとも、4年間の勉学で得たスタイルは、自分にとって大変重要な役割を果たしています。「結構、使えるな、あのときの経験」。これが今、感じる率直な気持ちです。

スコットランドの城跡にて家族と

スコットランドの城跡にて家族と

4.「歴史、やっていてよかった」と、日本を離れても思った
昨年まで、仕事の関係でスコットランドに居住していました。日本人があまりいない地域であるが故に、家族皆、当初は苦労もしたのですが、一方、新鮮な出会いが多かったことも確かです。知り合っていく人々との会話では、歴史を勉強していたということで、話が弾むこともありました。卒論の概要を丁寧に聞いてくれた人もいました。外国でのコミュニケーションでは言語が大きなハードルですが、興味をもたれる話題さえ見つければ、何とかなります。その点、歴史はネタとして使えました。

史学科で得たもの。それは決して失われない、愛おしい「財産」です。

エディンバラの自宅に友人を招いて

エディンバラの自宅に友人を招いて

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心の駆け込み寺、長田ゼミ

1996年度卒業生 土橋朝洋(慶應義塾中等部教諭)

太宰のような物言いをすれば、不真面目な学生生活を送りました。

卒業時のエピソードで、当時の教授陣のさる方(長田先生ではありません)から、「君が卒業か、不良品を世の中に送り出すことになるなあ」と何とも有り難い、残念なお言葉を頂戴したのを今でも鮮烈に記憶しています。当然、恩師の長田先生にもご迷惑をおかけしました。
3年生の夏には、先生から日露戦争に関する分厚い洋書を渡されました。粋なプレゼントではなく、諸事情によるペナルティとして。で、全部訳して来いと。それも今となってはいい思い出です。

そんな不肖のゼミ生(の一人)でしたが、社会に出てからも、変わらずお世話になっています。節目節目で仕事のアドバイスをいただいたり、ゼミの飲みに参加させていただいたり。

ところで、「変わらず」と言えば、長田先生、今もお変わりないですよね。……見た目が。我々が2年生だった1994年に上智に助教授でいらっしゃって、かれこれ20年は経っているはずなのに。つまりそれは、上智の学生と日々接して常に瑞々しい感性を保ち、近代日本外交史の精力的な研究を続け、時には海外の大学で研鑽し、ピアニストの奥さまに癒されている結果としてその若さを維持たらしめているのか。あるいは、ただ単に当時先生が、ちょっと言いづらいですが、多少老けていただけのことなのか。

ともかく、もう一つ、変わらないもの。それは長田ゼミの“ゆるさ”でしょう。恒例行事、2月の追いコンに顔を出すと、ゼミの雰囲気が醸し出す“ゆるさ”に触れて、自分も「四谷に戻ってきたな」としみじみ実感できます。ここまで書いて気付いたのですが、要は、大学のゼミなんて先生の人柄こそ全てだと思うのです。

さて、今私は都内の中学校で教職に就いております。専門は国語教育、とりわけ司書教諭として読書教育に尽力しています。読書教育と聞いて、みなさんは何かイメージが思い浮かぶでしょうか。そして、中学時代にそれを受けたことがあるでしょうか。

本を薦め、感想文を書いてもらう。それは日常茶飯事。例えば、授業の一形態では、生徒に新書を読んでもらって、私と生徒の1対1で面談して本の内容を尋ね、答えてもらうという光景もあります。卒論の口頭試問の簡易版みたいなもの、と言えば分かりやすいでしょうか。
また、レポート・論文の書き方も指導します。仮説、引用、参考文献、こういった必須項目を理解し、駆使できる中学生は格好いいし、それができる彼らを育てたい。結果的に、私は教科で歴史を教えるのではなく、国語を選択しましたが、このような取り組みの多くは、史学科で学んだことが大いに役立っています。

最後に、上智を目指す人へ。大学は、どこまでも自由です。史学科も、その自由を保証してくれるでしょう。上智の学生は実に真面目です。進んで学んでいけば、何かを成し遂げられると思います。私は上智の四年間、これといった成果を残せませんでした。それもまた自由の結果です。ただ、そこで出会った人には本当に感謝していますし、先生を始め、今も繋がりを大切にしています。自力で拓くところと、また、他に頼るところ。両者とも、人間力と言えるでしょう。そのバランスの良さを追求してください。

 

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卒業生近況報告

1996 年度卒業生 三木 崇 (文教大学付属中学高等学校 社会科・地理歴史科教諭)
今後も試行錯誤しながら自分なりの授業スタイルを追及していきたいと思っています。

今後も試行錯誤しながら自分なりの授業スタイルを追及していきたいと思っています。

私は大学卒業後、東京都内の私立中学高等学校で社会科・地理歴史科の教員として勤務しています。主に高校生の世界史を担当しています。

教員として、教科やクラス、バドミントン部の指導にあたることはもちろん、学校行事に向けた業務、学校の広報や入試に関する業務、進路指導業務、学校改革業務などにも取り組んでいます。私立学校は組織としてそれほど大きくはないので、やらなければいけない仕事が多岐に渡り、目が回りそうになることもありますが、自分がトライすべきだと考えていることを組織全体として実践してもらえるチャンスも多く、そういう面の楽しさもあります。ただやはり一番の喜びは、何と言っても、明るく元気な生徒たちと共に、かけがえのない学園生活を送ることです。合唱コンクールの時には教員合唱団で歌う、文化祭の時には教員バンドで歌う、と、行事があるたびに生徒に負けじと私が楽しんでいます。

教師の最も大切な業務はもちろん授業です。残念なことですが、私は教員となってから、実に多くの「歴史」嫌いの生徒がいることを知りました。大抵の場合理由は「暗記が苦手だから」。確かに「歴史」においては最終的には暗記作業も必要とされますが、その前段階として「流れの理解」も不可欠です。ですから授業をする時には、できるだけ「分かりやすい図式」と「分かりやすい例え話」を盛り込みながら、本当は複雑である歴史の流れをできるだけ単純化し、生徒が理解しやすいように提示することを心がけています。今後も試行錯誤しながら自分なりの授業スタイルを追及していきたいと思っています。

大学時代は本当に先生方に恵まれていたと思います。特にゼミ担当の大澤先生や坂野先生には大変お世話になりました。当時から上智大学は少人数教育が徹底されていて、先生方には本当に細かくご指導をいただきました。史学科の講義は、スッキリと整頓された高校の教科書に対する個々の反証から始まるため、私にとって大学での学びは、受験で培った美しい歴史観が一気に崩れ去るところからのスタートとなりました。その中で私なりに掴んだ「史学」とは、「まずは全体(一般的に言われている「歴史の流れ」)を大局的に把握し、その上で全体を構成する個々の要素の問題点・矛盾点に着目し、自分なりの手法でその点を掘り下げ、解決案や新観点を提示する」作業だと考えています。そしてこれは、史学とはまったく関係のない、ありとあらゆる分野・職種に応用できます。史学科での学びは、膨大な情報を整頓し、全体像を見定め、個々を分析し、そこから新観点を導き出すための洞察力につながります。この力は誰にとっても、社会に出てから大きな武器となるのではないでしょうか。

私が大学4年生だった当時はインターネットを使った教員募集が少なくとも一般的ではなかった時代で、教職志望者はまず掲示板を確認し、気になる学校があったら就職課の部屋に入り、配置されている求人情報や資料に目を通す必要がありました。地理歴史科教員の求人が少なく、行き詰っていた私に対して、就職課の方は「本当に勤務したい学校があるのなら、ただ情報を待っているだけではなく、自分からその気持ちを適切に伝えなさい」というアドバイスを下さいました。その後私は早速、興味ある学校に教職への熱意を訴える手紙を送り、結果として、手紙を送ったうちの一校に現在勤務しています。また、ちょうどこの頃私は怪我をし、外出ができない日が続きましたが、そんな中、私と同じゼミに所属し同じく教員志望の人たちが、チェックした情報を電話で伝えてくれました。そのことがどれだけ自分の励ましになったか分かりません。上智の史学科に在籍し、先生方、就職課の方、同じゼミの仲間と偶然にも出会うことができ、そしてそういう人たちの暖かい支援の結果として、現在の自分がいることを今でもつくづく実感しています。今度は自分の番です。自分との出会いが、その人の人生にとってのプラスとなれるような存在、そうなれることが今の自分にとっての最大の目標です。

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安直な思いつきが人生をきめた私の場合

1995年度卒業生 山幡 康二(公認会計士)
宮古島にて

宮古島にて

卒業生の山幡と申します。史学科で独自のHPを立ち上げるとのこと、在学中お世話になった豊田浩志先生から、ご案内いただきました。昔のことなどを思い出しながら、雑文を書かせていただきます。どうぞお付き合いください。

私が上智大学に入学し、豊田先生に初めてお会いしてから、かれこれ四半世紀になります。当時の豊田先生は40代前半(今の私とほぼ同年齢ですね)。情熱的な若き研究者、という印象でした。先生のシャイなお人柄の裏返しだと思いますが、時折出る憎まれ口が、ユーモラスで面白かったですね。

実は、入学当初、私は西洋史にそれほど興味はなく、日本の近現代史を勉強するつもりでいたのですが・・・豊田ゼミに在籍することになったのは、1年次に受講した豊田先生の授業が印象的だったからだと思います。研究に取り組まれる姿勢に情熱を感じ、そこに惹かれるものがありました。

当時の私は(今も?)、西洋史に詳しくなかったものですから、まずは弓削達先生の『ローマはなぜ滅んだか』から読み始め、豊田先生にも書籍を貸していただいたりして、徐々に豊田ゼミ生らしくなっていったように記憶しています。

確か2年次だったと思いますが、歴代のローマ皇帝について、英文で書かれた専門書を豊田先生と一緒に読み進める授業があり、とても面白かった記憶があります。それが直接のきっかけで、「卒論のテーマはローマ皇帝にしよう!」と思い・・・さあ、ローマ皇帝のうち誰にしようかな・・・そして選んだのが、セプティミウス・セウェルス(在位:193年−211年)。「アフリカ出身の初のローマ皇帝」として有名な人ですね。
「アフリカ出身の初のローマ皇帝」を選ぶところが、何とも自分らしいと思います。「安直で軽薄」という意味で。

セプティミウス・セウェルスについてちょっと補足しますと、「アフリカ出身の初のローマ皇帝」・・・このイメージが独り歩きしている・・・独り歩きさせようとする人がいる・・・という、そんなローマ皇帝です。彼の実像に迫るのではなく、「アフリカ出身」に意味を持たせ、何らかの思想・イデオロギーを語る際に利用する・・・(そうなると、歴史研究ではなく、創作活動ですね)。
もっとも私の場合は、特に深い考えもなかったわけですが。

ちょっと脱線しました。何を書いているのでしょう。
脱線ついでに、もう少し脱線して、在学中に勉強したこと、そして現在に至るまでのことなど、ダラダラと書いてみます。
勉強熱心な学生というわけではなく、単に、気まぐれだっただけなのですが、歴史以外にも勉強したいと思い、選択科目で、経済学部、法学部、外国語学部の授業も受講しました。会計学と会社法が面白かったですね。

もともと英語は好きな科目でしたが、上述の豊田先生の英文講読の授業や、先生にお借りした英文の専門書を読んだりして、英語に親しんだ結果なのでしょう、TOEICで思いのほかいいスコア(700点台ですが)を取ってしまったことから調子に乗り・・・プロの通訳者が教える外国語学部の「通訳入門」という授業を受講したことがありました。
とても印象的で、今でも思い出します。「英語で話した方が楽」という帰国子女たちに囲まれ、苦行のような半年間でした。私はお地蔵さんのように、ずっと固まっていました。

この授業で先生から、とても印象に残る言葉がありました。「英語は道具にすぎません。何か専門の分野を作ってください。英語が専門という人はいりません」という言葉に、いろいろ考えました。私は何を専門分野にしようかと。

ちょうど会計学と会社法が面白いと思っていたこともあり、何を勘違いしたのか、公認会計士試験の勉強を始めてしまい(安直で軽薄!)・・・苦労しましたが何とか合格することができ、会計監査の仕事などを経験して、現在に至っております。
現在の勤務地は沖縄です。海が綺麗でいいところですよ。

まったくまとまりのない、文字通りの雑文になってしまいました。失礼しました。
豊田先生をはじめ、史学科関係の皆様の、ますますのご活躍とご健康を祈念しながら、筆をおきたいと思います。

2014年6月28日
梅雨明けの沖縄にて

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授業が楽しい!

1994年度卒業生 白須(旧姓:墳崎)礼子(捜真女学校中学部・高等学部教員)
授業風景

授業風景

史学科を卒業し、母校である捜真女学校中学部・高等学部に教員として戻ってから来年の春でちょうど20年になります。どの時期も常に先生方に支えられ、成長した私にとって、自分が「先生」になって支える側になることは、長年の夢でした。しかし、実際には生徒たちに助けられ、教えられることの方がずっと多いのは、教育実習の時から現在に至るまで変わりません。

20代のころは、「もっと頼もしい先生にならなくては」と焦り、「良い授業をしなくては」と思い込んでいました。しかし、息子を出産し、自分自身が子育てをするようになると、不思議と肩の力が抜け、「生徒とともにつくる授業が生徒にとっても自分にとっても最良の授業」と思えるようになりました。だからからこそ、歴史の教科書の記述に大きな改変がなくても、毎年、毎時間、授業の内容は変わっていきます。このことが今、本当に楽しいです。新年度の最初の授業で自己紹介のあと「何か質問ありますか」と聞くと、生徒から私自身に関する質問が次々に出てきます。必ず出るのが「趣味は?」という問いですが、これに対しては「授業です」と答えています。ただ、授業の中でいつも葛藤するのが「最新の研究動向をどこまで生徒に伝えるのか」という問題です。

今でも忘れられない大学での講義の1つに、1年次の必修科目だった東洋史概説があります。大澤正昭先生は、私たちが受験で慣れ親しんだ山川出版社の世界史の教科書を題材に、いかに最新の研究成果と教科書の記述とがかけ離れているかを解説して下さいました。
自分が必死に覚えてきたことが真実とは限らないということに衝撃を受けると同時に、史料を読み解いて自分なりの真実にたどり着く歴史学研究の面白さを教えていただいた講義でした。あの面白さを生徒にも知ってほしいという思いから、自分の授業でも「教科書にはこう書いてあるけど、実はね…」という話をしたくなります。しかし、中学生・高校生が対象だと、生徒を混乱させることにつながりかねないので、実に悩ましいところです。

そこで、いつか大澤先生の東洋史概説の講義を、歴史に関心のある有志の生徒に聞かせ、歴史学研究の入り口の扉の向こう側をのぞかせたいと思ってきました。それが昨年10月に、大澤先生が本校に来てくださったことで実現しました。約100人の高校生とともに、私自身学生時代に一瞬戻って、先生の講義を伺うことができたのは大きな喜びでした。

今年度は高校3年生の担任をしています。実はこの高3生は、中1から6年間持ち上がってきた生徒たちです。同じ生徒を6年間連続で持ち上がるのは、約20年間の教員生活の中でも初めてのことです。私がずっと歴史の授業を担当していることで、彼女たちに私の歴史の見方を押し付け、彼女たちの歴史観を偏ったものにしてしまう可能性を危惧しつつも、6年間の内面の著しい成長を傍で見守り続けることができた幸せを日々かみしめています。そして、何人かの生徒は今、上智の史学科をめざしています。彼女たちが私と同じように上智ですばらしい先生方と出会って、研究の楽しさを存分に味わってくれることを願って、受験勉強の応援をする毎日です。

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カイゼンと合唱は、人生の両輪です

1994年度卒業生 森 健一(新宿区役所勤務)
著者近影

著者近影

僕は地方公務員として税務、介護保険、生活保護などの区民生活に密接にかかわる業務に携わりながら、「常に問題意識を持ち、仕事の効率化や事務改善を怠らず、周囲を巻き込む」をモットーに、トヨタ生産方式などの考え方を参考にして、働きやすい職場づくりを現場から進めていこうと考えている、多少あまのじゃくな職員です。

住民税課税の部署では、個人中心ではなくチーム中心の職場運営、前年の反省をもとにした事務改善、無駄の徹底的な排除、エラー処理手順のマニュアル化(自分のやり方を文章や図にし、共有する。新しいことには適宜対応する)などで、徹底的に仕事の効率化を目指し、結果として大幅に残業を減らすことができました。一方で、様々な業種の人々と交流を持ち、人生を楽しむことも忘れてはいません。

そんな自分の今の目標は、出世よりも「こんな人と一緒に働きたい」と思われる人材になることです。

職員の自主勉強会「SHIPSサロン」にて、ファシリテーターを務める(2012年、新宿区役所食堂)

職員の自主勉強会「SHIPSサロン」にて、ファシリテーターを務める
(2012年、新宿区役所食堂)

・受験生の皆さんにお伝えしたいこと
僕は1997年に新宿区役所に就職しました。
「就職氷河期」といわれた時代の端緒。そんななかで大学院を中退して、当時は難関といわれた公務員にシフトしたといえば聞こえはいいですが、正直なところ、院でやりたいことを見失ったため、修士を切ったわけです。就活中はこれがずっと負い目でした。それについてどうやっても後ろ向きな理由しか思い浮かばない。なので、特別区の面接はことごとく落とされました。

学生当時の自分のキャリアについての意識の甘さ、独りよがりな就活、コミュニケーション能力の欠如がその原因だと分析しています。
これから大学の門をたたき、社会にはばたく準備をしていく皆さんには、「こんな自分になりたい」というキャリアビジョンを描くことや、キャリア教育の機会を積極的に利用すること、仕事について考える機会をもつことを切におすすめします。

・自分が学生だった頃のIT事情
話は再び前世紀へ。
僕の学生時代は、インターネットはまだ普及する前、データ保存はフロッピーディスクで行うという状況で、ITなんていう用語もありませんでしたが、そういうスキルが必要とされ始める時代でした。「卒論は手書きで」という、今からすると信じられないルールのゼミもあったようです。

豊田ゼミは卒論は当然のこと、あらゆるレポートの提出に際し「ワープロ必須」でしたが、自分はデータ入力のバイトをやっていたり、後述する合唱団の演奏会プログラムにはさむアンケート等の原稿を大学のPCで作成したりしていたので、他の文系の学生よりは、PCを扱う技術には長けていたのかなとは思います。

区役所に就職してからもしばらくは、住民異動や印鑑登録、証明書の出力等で専用のホスト端末を使うくらいで、文書作成は富士通のOASYSというワープロ専用機(!)やそれのPCソフト版で行うことが義務付けられていたり、そもそもPCのスキルがなくても仕事には困らなかったり、Excelでちょっとした表を作れば大幅に事務改善が図れたり(これは今でもあてはまります)、今からすると不便極まりない時代でした。こういう時期に周りの職員に先んじてExcelの基礎を勉強したことが、結果として今の自分の強みの一つになっています。

論文を書くためには「参考文献の収集」が不可欠です(ちなみに豊田ゼミでは外国語の本を一冊訳すことが必須条件になっていました)。学生時代はそのために図書館中をかけずり回り、コピーカードを何枚も使ったものですが(もちろん上智の図書館で必要な資料が全部そろうわけじゃありません)、いまでは家に居ながらPCで資料やデータベースを検索できたり、いきなり論文を読むことができたり、大学の購買で取り寄せたり神保町に行かなくても洋書を買える。人文系の研究分野においてもインターネットは強力なツールになっているわけです。

・ 大学時代から続けていること
僕は大学の4年間「混声合唱団アマデウスコール」とともにありました。団創立から30余年を数えるサークルで、今も合唱を続けている卒業生も数多くいます。学生当時はテノールのパートリーダーとして、演奏会に向けて毎日の練習を指導していました。ゼミや論文を手際よく片付けて、いい演奏をするためにどうすればいいかを真剣に悩む、そんな学生でした。

現在も「武蔵野合唱団」等、いろいろなグループで合唱は続けており、小林研一郎、山田和樹といった錚々たる指揮者の指導を受けております。昨年の上智大学100周年記念演奏会では、練習時のテノールソリストも務めました。また、毎年All Sophian’s Festivalで現役生と交流を深めたり、数年に一度のOB合同ステージで歌ったり、あるいはSNSで先輩や後輩たちと近況を伝えあったりするなど社会人になっても上智との関係は続いています。

上智大学100周年記念演奏会にて (2013年12月、サントリーホール)

上智大学100周年記念演奏会にて
(2013年12月、サントリーホール)

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上智大学史学科卒業生として

1992 年度卒業生 齋藤貴弘(愛媛大学・法文学部・准教授)
2002 年ギリシア旅行。アテネのアレスの丘の上で。右奥はアゴラのヘファイストス神殿。

2002 年ギリシア旅行。アテネのアレスの丘の上で。右奥はアゴラのヘファイストス神殿。

上智大学文学部史学科に入学したのは1989年。昭和が平成に替った年でした。史学科ではゼミ所属以前から豊田浩志先生には読書会などを開いていただいたりして早くからいろいろとお世話になりました。一方で、ユング心理学などにも関心があり心理学科の夏のゼミ合宿に参加したりもしました。学生時代は今思えば怠慢でしたが、充実していたという気はします。

入学当初から漠然と研究職を考えており、大学院に進むにあたってはギリシア史の先生のいる大学を薦めていただき、当時の東京都立大学(現・首都大学東京)大学院へ進みました。気持ちの割に勉強不足だったので大学院ではギリシア語史料講読のゼミをはじめ大変に苦労しましたし、出来の悪い院生で、指導教官の前澤伸行先生には随分とご迷惑をかけたのではないかと思います。

そうしたご指導のお蔭でなんとか修論も2年で書くことができ、博士課程に進むことができましたが、当時はまだ課程博士取得は一般的ではなく、研究を進めつつ日本学術振興会の特別研究員(PD)に採択されたのを機に博士課程を退学しました。

学振研究員時代は、2週間程度ですが初めてギリシアを訪れることができました。書物や画面を通じてしか接してこなかったギリシアという風土が、実際に訪れて嫌な感じだったらどうしようという一抹の不安は、まだ強い9月の陽射しの下、オリーブの木陰で乾燥した心地よい風を感じるうちに吹き飛んでいきました。

特別研究員の後は大学非常勤講師の仕事をぽつぽつといただくようになり、それだけでは(実家暮らしでも)生活できないので、書店員としてアルバイトを7年ほど続けました。
書棚を通していろいろ学ぶこともあり、接客業や自分より若い書店員たちとの仕事を通じての関わりも、よい経験になりました。ただ将来的にどうしたものかという漠とした不安は常にありました。その一方で、勉強会や学会、あるいは授業を通じて、年齢の上下を問わず、研究面でも、人格面でも尊敬できる諸先生、先輩、後輩、学生たちと出会えたこと、このことが研究のみならず、気持ちの上で生活を支える糧となりました。自分の能力については足りないところを挙げればきりがなく、人に恵まれたということを抜きに今の自分はなかったということだけは確信しています。

非常勤が少しずつ増え、書店バイトを辞めたのが2013年の1月でした。その年には、政治学や国際政治という、ちょっと専門から離れた分野の講義も担当しました。これも大変でしたが、現代における古代ギリシア史という学問の意義を再確認するうえで非常に勉強になりました。

そんな折、たまたま公募した愛媛大学に思いがけず採用され、この4月からは法文学部人文学科で准教授として仕事をしています。色々な大学に講義の時間だけ顔を出しては帰るという学生との接点もあまりない生活から一転、自然豊かで宗教的にも色濃い松山でアットホームな学生たちと一緒に勉強と研究を楽しんでいます。

 

同じくギリシア旅行。アテネ、アクロポリス南麓のアスクレピオス神殿の記念碑。 修論のテーマとなった史料。

同じくギリシア旅行。アテネ、アクロポリス南麓のアスクレピオス神殿の記念碑。
修論のテーマとなった史料。

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