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卒業生の声

歴史から学ぶこと

2012年度卒業生 植野 光(獨協医科大学医学部在学)
獨協医科大学キャンパスにて

獨協医科大学キャンパスにて:右が著者

「歴史は大河のようなものだ。雨粒が集まって川になり、川が集まって大河になるように、どんな小さな人の人生も雨粒のように集まって流れ、歴史という大河になる」

誰から聞いたのか、はたまたテレビの文言か忘れてしまいましたが、私が歴史を学びたいと思ったのはこのような言葉の影響でした。
歴史のことなら負けない、と意気込んで入学した私でしたが、いざ入ってみると周りには自分よりはるかに歴史の知識が多い、所謂歴史オタクが溢れていました。同級生たちのあまりに深い会話についていけなくなり落ち込んだのを今でもよく覚えています。
一方でマニアックな歴史上の人物について熱く語り合える人に出会えたり、友人と気兼ねなく史跡巡りができるのも史学科ならではといえるでしょう。

授業では、歴史を学ぶということを学ぶ授業や先生方の専門分野についての授業、広汎なものから深く掘り下げたものまで多角的に歴史を見つめることができます。
歴史が好きな人は歴史上の人物や歴史の事柄に多かれ少なかれ憧れを抱いているものではないでしょうか。私もその一人でしたが、その憧れは史学科に入ると打ち砕かれます。史料として残された文献も人が書いているからには書き手の誤りや思惑、偏見が含まれ、真実から大きく外れていることがあるからです。史学科の学生はそれを念頭に置きその分を差し引きしながら史料を読み解く必要があります。史料批判から本質を見極めるという作業は大好きなアイドルのすっぴんを垣間見てしまったようなやるせなさを感じる作業です。しかし続けていれば、ふと自分の視野が大きく広がっていることに気づくはずです。武人として格好良い部分だけでなく、君主として残虐な面も父親として優しい面もその人物にとって欠かせない部分だと繋がって見えるようになるのです。
私がご指導を賜っていた豊田先生は常々歴史の美しいところだけではなく、汚いところもしっかり見るようにとおっしゃっていました。人が生きている限り綺麗なことだけでは生きていけない、汚いところも含めて人間であると理解した時、汚い部分を汚いと感じなくなりました。この教えは今でも私の軸になっています。

現在私は医療関係の大学に通っています。なぜ史学科から医療系なのかとよく問われますが、答えはいたって単純で人が大好きだからです。歴史はその時代の人々の生き様の塊です。どんな小さな人でもその人が必死に生きてくれたおかげで今がある、そう思うと今日までに亡くなって歴史の一部になった人々への尊敬の念が溢れてきます。そして今を必死に生きている人を助けたい、少しでも苦しみが取り除かれるように不肖ながらお手伝いしたい、と思い今この道を歩んでいます。
人生は思い描いたようにはなりません。私もまさか自分が医療界に飛び込むことになるとは思ってもみませんでした。しかし予想外に辿り着いた場所だとしても後になって自分はここに来るべくして来たのだ、と思う日がきます。歴史は多くのことを私に教えてくれました。どんな偉人であっても自分の敷いたレールを思い通りに進む人生を送った人はいない、これもその一つです。
「置かれた場所で咲きなさい」というのは渡辺和子さんのお言葉ですが、偉人こそ置かれた場所で必死に咲いた人たちだと私は思います。受験生の皆さんには今目標を定め、努力をしているところだと思います。運命は気紛れな風で、向かい風が吹くことも追い風が吹くこともあります。しかし必ず皆さんを置かれるべき場所へ連れて行ってくれます。
皆さんが置かれた場所で綺麗な花を咲かせることができますように願っています。

大切な日に祖母と 上智大学カトリックセンターにて

大切な日に祖母と 上智大学カトリックセンターにて

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古代世界への憧憬、あるいは大いなる壁との対峙

2012年度卒業生 岡 典広 (ITサービス業 システムエンジニア)
ローマ、コンスタンティヌスの凱旋門前にて(2013年撮影)

ローマ、コンスタンティヌスの凱旋門前にて(2013年撮影)

 私が上智大学史学科に籍を置いていたのは、2009年から2013年の4年間で、専攻は古代ローマ史でした。高校の世界史では、僅かに触れる程度か、素通りされることさえある古代ローマ史ですが、近年ではマンガ・アニメ・実写映画などで人気を博した『テルマエ・ロマエ』の影響もあって、その文化に触れる機会は幾分増えているかもしれません。ローマには、現代のコンクリートを遥かに上回る耐久年数を誇るとされる「ローマン・コンクリート」を用いた巨大建造物や、「すべての道はローマに通ず」の言葉と共に地中海世界の至る所に張り巡らされたローマ街道といったダイナミックな古代技術の結晶が今なお残されており、私はその高い技術力と、卓越したインフラの魅力に惹かれて専攻を固めました。現在勤めている、システムエンジニアという一見文学部との接点が薄く見える職種を選んだのも、後代の人間が驚愕するようなインフラを作るという仕事に憧憬を抱いたがゆえのことでした。

 約2000年もの古の時代にこれほど優れた技術体系を築き上げるのだから、ローマ人という人々は現代人よりも遥かに優秀な人種で、もし現代の人々が同じ環境・条件下に身を置いたのなら、これほど盤石な生活基盤を築き上げることなど到底できなかったのではないかという考えが、実のところつい最近に至るまで私の頭の片隅にはこびり付いていました。

 就職して約1年半が経ち、実際にシステムの設計・開発・納品まで携わる身になってみてわかったのは、優れた体系というものは、最先端の技術を惜しみなくつぎ込めばできるというものではなく、見た目以上に細かな、本当に驚くほど細かな作業と、堆く積まれた過去の失敗に対する是正、試行の山ででき上がっているのだということでした。先人が犯した過ちとその対策をきちんと記録に残す、後世の人間がそれを正しく受け継ぐという知のリレーが幾年も続いて初めて、人の生活の基盤、インフラとしての形を得られるのです。

 先進的でスマートなイメージを持たれがちな“IT企業”の中でも、現場では口伝でしか知り得ない情報や技術がごまんとあるのが現実です。言葉や手業ではなく書物として残すことがいかに大切かということは皆重々承知していながらも、目の前の仕事に忙殺される中でいつしかその作業は捨て置かれ、有識者が現場から離れると共にその知の断片は歴史の彼方へと消え去ってしまうのです。

 今も昔もそうした性が人の精神に根付いているのだとすれば、ローマ社会のインフラを築いた人々の真に称えられるべき成果は、その優れた技術力そのものではなく、個人あるいはごく限られた共同体の中で終結しがちな技巧や職人業を、「体系」として確立させる努力、さらにはそれを維持し伝播させる手間を惜しまなかったこと、平たく言えば、「きちんと書いて残す」という当たり前の作業を誰もが弛まずやってのけてきたことではないか、と私は思います。

 現在上智大学史学科に身を置く皆様、あるいはこれから上智大学史学科の門戸を叩こうとする受験生の皆さんには、果たしてその「当たり前」を本当に当たり前にやれるだろうか?という問いをぜひ、日々の講義の中で、あるいは期ごとに立ちはだかるレポートを書き上げる中で、幾度も幾度も自らに投げかけてみてください。その問はきっと社会に出てからもずっと、どころか齢を重ねれば重ねるほど真剣に対峙せねばならなくなる人生の大いなる壁であり、大学生活の中でその姿をしっかり目に焼き付けておくことは、今後の人生の大きな糧となるはずです。ほんの少しばかり人生の先を行く、日に日に強大さを増すその壁の存在に戦慄く一先輩からの僅かばかりのアドバイスとして頭の片隅にでも置いてもらえれば、史学科の卒業生としてこれほど嬉しいことはありません。

 最後に、在学生の皆様ならびにやがて入学される受験生の皆様、そしてそんな皆様を厳しくも温かくご指導下さる先生方の活躍と、上智大学文学部史学科の今後益々の発展を祈念して、私の「卒業生の声」とさせて頂きます。最後までお読み頂き、誠にありがとうございました。

同、快晴の下に聳え立つコロッセオ(2013年撮影)

同、快晴の下に聳え立つコロッセオ(2013年撮影)

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まだなんとか

2012年度卒業生 波多野 陸(作家:2012年度群像新人賞受賞)
坊主頭にしました。

坊主頭にしました。

 上智大学を卒業してすでに一年以上経ってしまった、とはっきり言って焦りを感じる日々です。

 僕は卒業後間もなく小説で新人賞をもらい、それをいいことに今も自分のやりたいことを追及する日々を過ごしております。と言っても、現在執筆活動の方は絶賛不調中で(スランプとは言えません、なぜなら立ち上がれるかどうか不明だからです。スランプという言葉は現在進行中の事柄には決して使えません。立ち上がることのできた者のみが過去を振り返って使うことのできる「厳しい」言葉なのだと最近気づきました)、肉体労働チックなことをしてどうにか糊口を凌いでいます。自分があまりにも類型的な「夢を追う若者」になってしまったことと金をケチって坊主頭にしたことに思わず涙が出そうですが、泣いたって何にも変わらないのはみなさんご存知の通り。どうして僕はこんなに悲観的なのかと言えば、数か月前に、これが発表できたら人生もうどうだっていいや、という思い入れのあった小説がボツになったからです(だから、人生もうどうでもよいとは言えなくなったのですが、しかしその結果、人生に対して悲観的になったのは大いなる皮肉です)。ボツになった理由は、簡単に言うと内容から僕のそういう思い入れが感じられすぎたとでも言いましょうか、まぁ、何事もバランスが大事だという当たり前のことを改めて学んだわけです(ただ、学ばなくても知っていたので、できれば学びたくなかった)。

 とまぁ、こんな具合なので、焦り、焦り、けど肉体労働チックな仕事で疲れたから何にもやりたくないなぁ、という日々なのです。もちろん、僕が今こうなのは上智大学を卒業したこととは何にも関係がなく、ただ自分のした選択の結果なので、もし読んでくれている方がいるのなら、ご安心ください。と言うのは冗談として、夢=呪いに惑わされているような、あまり利口じゃない今の僕はまだマシなのだろうなと思います。本当にぞっとするのは、利口になることです。実をいうと、大学を卒業してからつい最近まで、色々と現実を知った気になっていた僕は、利口になりかけていた僕は、何にも興味がわかず、意欲がわかず、それはそれは最低な状態でした。もしかしたらこの一年は「バカ」に戻るために必要な期間だったのではないかとさえ思います。ある程度バカじゃないと、学ぶ気にも行動する気にもなれないようです。もっとも、バカに戻っただけなので、僕の創作活動が今後好転することを保証してくれるわけでもないのが。けれど、少なくとも、頑張る気にはなってきました。ONCE AGAIN!

 以上、近況報告でした。なんだか暗くて申し訳ありません!

鋸山山頂。登ってきました

鋸山山頂。登ってきました

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Good Morning from London

2011年度卒業生 吉澤まりえ(電機メーカー勤務)
ビッグベン の前で友人と(著者右側)

ビッグベン の前で友人と(著者右側)

みなさんこんにちは。
日系電機メーカーに就職して4年目。今月からロンドンに転勤になりました。

在学中は北條ゼミに所属し、毎日漢文の史料と格闘しながら仏像の研究をしていました。
思えば高校時代、理系科目は赤点を取ってばかりで国立大学を諦め、私立文系に志望校を決めた当時、一番苦手だった科目は世界史でした。
歴史が特別好きだったわけでもなく、しかも世界史を選択していた私がなぜ史学科に入学して日本古代史ゼミに入ったのか?
それは、世界に出たかったからでした。

全く論理的ではないように聞こえるかもしれませんが、海外に出て改めて思うことは、日本人の愛国心の薄さと自分の国への無関心さです。
私は高校時代オーストラリアに短期留学したことがあったのですが、ホストファミリーから日本のことを聞かれ、答えられなかったときに自分の無知さを恥じました。
幼少期から英語が好きで、いつか海外に出たいと思っていたのに、私は自分の国のことすらまともに語ることができない。
それが史学科を目指すきっかけの一つになりました。

大学で歴史を学んでいたと言うと、大抵の人が「なんでうちの会社に入ったの?」と聞きます。
ロンドンに来る前は国内で営業とマーケティングの部門を経験しましたが、仏像の研究をしていた女の子が電機メーカーでマーケティングをしているなんて、誰が想像したでしょう?
正直、私自身も全く想像しませんでした。
海外駐在自体は入社前からの夢でしたが、キャリアパス自体は希望していたものとは違いましたし、学生時代にマーケティングはおろか経済学部の授業を取ったことは一度もありませんでした。
今になるとビジネスってこんなに面白いのか!と思わされることばかりですが、在学中はアルバイトやサークルに夢中になっていたと思います。(もちろん他学部の授業を取って見識を広げることはとっても大事ですよ!)
でも、入社してマーケティングの仕事について気付いたことは、史学科で学んだことがいろんな仕事に活きるということです。
史学科に入学すると、史料批判というものをします。
おびただしい量の史料を読み、仮説を立てて、それを検証する史料を集めて論理を企てる、というのが基本の作業になってくると思うのですが、その作業は社会人になっても同じです。
私は商品企画を担当していたのですが、一つの商品を提案するには、なぜその商品を作る意味があるのか、誰に売れるのか、競合商品は何でなぜそれが売れるのか。
調べることだらけです!
私は史学科で4年間学んだおかげでその作業を苦痛に思うことはありませんでしたし、論理的な思考が身に付いたのではないかと思っています。
「歴史」というと大半の仕事とは無縁のことのように感じますが、史学科で学ぶ史学的方法論や思考は決して無駄にはならないのです。

ロンドンに来て約1ヶ月が経ちますが、毎日が新しい発見だらけです。
私の会社にはイギリス人だけでなく、インド人やポーランド人、ジャマイカ人などいろんなナショナリティの人たちが働いています。
日本では当たり前と思っていることは海外では当たり前ではなく、文化や思想の違いに驚かされるとともにその違いが面白くもあり、毎日が刺激的です。
私は学生時代に留学したことはありませんし帰国子女でもありませんが、社会人になって必死で食らいつけば海外で働くチャンスは誰にでも与えられます。
やるか、やらないか、だけです。
大学生はとっても自由で何にも縛られない最高のモラトリアムですが、社会人になればもっと選択肢は増えて楽しいこともたくさん待っています。
皆さん学生生活を目一杯楽しんで、どんどん海外に出て行きましょう!

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学生生活を振り返って

2011年度卒業  小杉貞子(医学系出版社・編集
サークルではギターを弾いていました

サークルではギターを弾いていました

現在、医学系の出版社で、主に学会誌の制作・編集に携わっています。学生時代に読んだ論文の数よりも、多くの論文を普段から目にしています。業務の内容は、歴史とは全く関係ありませんが、活字に関わる仕事がしたかったので、現在の職場に就職しました。今まで自分が関わったことのない領域に足を踏み込んだので、わからないことがたくさんあります。大量の論文を処理するのに途方に暮れることもありますが、学生時代に多くの文献を目の当たりにして悪戦苦闘していた毎日を思い出しながら、日々格闘しています。

学生時代は西洋中世史ゼミに所属していました。バンド系のサークルに所属していたので、卒業論文では音楽に関係する内容を扱いたいと思い、『13-15世紀における楽師の社会的地位の変遷』というタイトルで執筆しました。「中世ヨーロッパにおいて、日陰の世界で生きてきた楽師が、どのようにして社会の構造に組み込まれていくのか」が大きなテーマでした。かつては蔑まされていた楽師たちが、やがて社会に受け入れられていく展開を受けて、改めて、表舞台に立つものだけでは歴史を紡ぐことはできないと感じました。
卒業論文では、楽師を筆頭とした被差別者について触れていたのですが、口頭試問の際に「自分の中で差別がどういうものか定義できていない」と先生より意見をいただきました。今でもよく覚えています。いろいろと文献を読んで差別について論じても、結局それは文献の著者の考えであり、私の中で「どうして差別するのか、どこからが差別なのか」理解できていませんでした。このことは、一生かけて勉強していく課題であると感じています。

多くの論文に触れるといった意味では、史学科で培った経験は現在の仕事に活かされているのかもしれません。ですが、大学で学んだものと現在の仕事がリンクしている必要は全くないと私は思います。楽師について勉強していたからといって何か役に立つなんてことはありませんし、話のネタにもなりません。しかし、大学で学んだことは、先ほども述べたように、自分の中の課題として生きていくのだと感じています。何故歴史を学ぶのか。それが自分にとってどういった意味があるのか。どのようにして、今を生きる私たちの生活に関わってくるのか。答えは見つからないかもしれませんが、考える機会を与えてくれる時間を、大事にしてください。

4年間はあっという間に過ぎていきます。学業はもちろんですが、サークルやアルバイトなど、学生時代にしかできないことを大いに楽しんでください。歴史学を学べる環境は、とても贅沢なものです。大学にはいろいろと制度や設備があると思いますので、使えるものはどんどん利用して、大学生活を有意義なものにしてください。

余談ですが、私は単位互換制度を利用し、東京音楽大学で1年間音楽史の授業を受けていました。普段と異なる環境で学ぶことは、とても良い経験になりました。興味のある方は、是非利用してみてください。音大生になったような気分になれますよ。

学会場で書籍搬入のお手伝いをすることもあります

学会場で書籍搬入のお手伝いをすることもあります

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夢中になれるものとの出会い

2011年度卒業生 野邉 真友(日本年金機構)
著者近影(2014年、群馬のキャンプ場にて)

著者近影(2014年、群馬のキャンプ場にて)

はじめまして、こんにちは。私は、在学時は西洋史専攻で、特に美術史や教会建築をテーマとしていました。入学以来、知人から「どうして史学にしたの?」とよく聞かれました。きっかけの一つは、小学生のころ、展覧会で興味を持った作品の主題や時代背景を自分で調べることを通して、“学ぶ”ということを初めて楽しいと感じたことです。大学は高校までとは違い、自分でテーマを選び、自主的に知識を深めていくことの出来る場です。大学での4年間で何をテーマに取り組もうかと考えた時、受験や就職のためという実用的な目的ではなく、初心に帰り自分の好きなことを思いっきり勉強したい!と思ったからでした。

大学では、西洋史や美術に関する講義はもちろん、面白そうだなと思った講義は全く違う分野でも何でもチャレンジするようにしていました。講義を受けてみると、自分でも意外なことに実は興味を持っていたことが分かり、物事に対する視野も広げることが出来たのではないかと思います。
卒論のテーマも入学当初は「絵画」とするつもりでいましたが、フランス旅行の際ゼミの先生から、ぜひ一度見ていらっしゃい、と言われたシャルトル大聖堂のステンドグラスにすっかり魅せられ、「シャルトル大聖堂におけるステンドグラスとゴシック聖堂建築プログラムの関連性について」としたのは、4年間の中で忘れられない思い出の一つです。
フランス語の文献を一生懸命読んだり、ステンドグラスのモチーフに対していろいろな解釈の可能性を考えたり、卒論の構成を練ったり、大変だと思う時も時々はありましたが、思考錯誤を重ね、卒論研究に向けた大学生らしい充実した時間を過ごせたことは、社会人になった今も私の強みになっています。

現在は史学と全く違う世界の仕事に就いていますが、大学で培った経験が活きていると感じる時があります。やるべき物事に対して前向きにまっすぐに取り組む姿勢は、どんな仕事にも必要なものですし、いろいろな角度から物事を見る考え方や、その人は何を思ってこの行動を取ったのかと推察する力や、気付かないうちに“物事を見る力”がついていたのだなと思います。
また、素敵な先生方や同窓生との出会いも忘れられません。笑顔の絶えない温かな環境で過ごせたことは、大学から離れても私の支えとなっています。職場では業務を刷新する大きなプロジェクトに携わっていますが、どんな仕事にも共通する基礎的な力や、前向きに広い視野で考える姿勢を史学科で養えたからこそ、難しい仕事にも楽しく取り組むことができるのだと思っています。

これから大学生になるみなさんや在学生のみなさんには、長いようであっという間に過ぎてしまう4年間を、ぜひ思いっきり満喫してほしいと思います。講義はもちろん、サークルに留学や進学など、広がった知識や人の輪の先に、いろんな可能性がたくさん詰まっています。ぜひ、何か夢中になれるものを見つけて、全力で取り組んでみてください。
大学の頃に負けないくらい自分らしく頑張らなくちゃ、と振り返ることが出来るような、そんな充実した大学生活になるといいですね!!

シャルトル大聖堂のステンドグラス(2008年撮影)

シャルトル大聖堂のステンドグラス(2008年撮影)

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私の寄り道人生、萬歳

2010年度卒業生 田之上優弥(国土交通省技官)
ミラノのモザイク店で

ミラノのモザイク店で

2006年4月に上智大学の門をくぐった時、私は法学部国際関係法学科の学生でした。しかし法律関係の仕事に就きたかったわけでもなく、図書館で借りる本はいつも古い時代のヨーロッパ史に関するものばかりで、気がついたらいつの間にか文学部史学科西洋古代史専攻の学生になっていました。転部科試験を受けた際の「君は本当に奇特な方だね」という、指導教官となった豊田浩志先生のお褒めの言葉(嫌味?)は今でも忘れられません。

そうこうして史学科の学生となってからの5年間、国際シンポジウムのお手伝いをさせていただいたり、頭を抱えながらひたすらラテン語の文献を講読したり、最終的に大学院に進学したり、学部生と院生それぞれで研究対象であったイタリアに留学したりと、思い返せばかなり充実した史学科生活を送ることができたように思えます。研究者になるという夢は不完全燃焼な形となり社会に出ることになりましたが、上智大学の教室で、図書館で、研究室で、そして愛するイタリアの地で見聞き学び体験したことは、この身の糧となって今も生き続けています。

上に書いたように、私は紆余曲折した道を、違う言い方をすれば寄り道ばかりをして歩いてきました。しかし寄り道をする中で、むしろ寄り道をしていろいろな角度から歴史を眺めたからこそ「歴史を学ぶとはどういうことなのか」「歴史を学ぶことで何を学べるのか」ということについて、自分なりに漠然としたものは得ることができたと思っています。それこそが史学科で学ぶことの一番の意義ではないでしょうか。せっかく史学科で学ぶのに「歴史を学ぶ」だけならば、それは大学受験のための勉強とあまり変わりません。史学科の学生であるからには、ぜひ歴史を学ぶだけでなく、その先にある数々の歴史家たちが積み上げてきた研究蓄積以外の何かにまでアプローチしていってもらいたいと思います。そうやって自ら考え、そして蓄積させてきたものは、学問の場を離れたとしても、直接的であれ間接的であれ、様々な形で役立っていくことになるでしょう。

最後にひとつ、西洋古代史を学んで今でも一番心に残っていることを伝えたいと思います。それは、「2000年前も現代も、人間は何も変わっていない」ということです。敬虔に生きる人もいれば恋に生きる人もいる。革命を起こそうと試みる人もいれば教会の壁に落書きをする人もいる。政治家がいて庶民がいて、金持ちがいて貧乏人がいて、お風呂もお酒もご飯も大好き。そんな何千年も変わらない人間模様を学べるのは、学問広しといえども歴史学だけではないでしょうか。ちなみに、イタリアに旅行をしたら教会のモザイク画について同行者に知識をひけらかすこともできます(研究の場を離れた今の私です)。そんな不純(?)な動機であれ、歴史学を極めたいという野心的な動機であれ、史学科はきっと満たしてくれるでしょう。

大学院に進んで留学までしたにも関わらず国土交通省の職員という歴史とまるで縁のない仕事に就いてはいますが、紆余曲折の中歴史を学んだことで得たものの見方やアプローチの仕方、考え方は、一生なくなることのない財産としてこの身に刻まれています。

ヴェネツィアにて

ヴェネツィアにて

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大学時代史学科で私が学んだこと

2010 年度卒業生 中根朋子(阿見町役場職員)
勤務中の様子

勤務中の様子

在学中は東洋史を専攻し,卒業論文は中国南宋代の胥吏(ノンキャリア)と地方官僚(キャリア)のかかわりについて研究をしました。現在は地元の茨城県阿見町で地方公務員として働いています。
大学時代史学科で私が学んだことは,史料を読む際に主観にとらわれることなく,多角的な視点で読むということの大切さです。物事を考える際に自らの固定観念や先入観を持ってしまうと,視野が狭い思考しかできません。自分でも気づかないうちに持ってしまっている固定観念や先入観を捨てて柔軟な発想をすることで,今まで見えなかったものが見えてくる。多角的な視野で考察することで新しい発見がある。このことが,私が史学科で学んだ一番大切なことだと感じています。

私は現在,商工観光課という部署で観光物産の仕事をしています。イベントや祭りなどで土日の出勤が多くある部署ですが,とてもクリエイティブで充実した仕事ができます。

商工観光課に配属される前は,税務課で地方税の課税を担当していました。税務課では地方税法と阿見町税条例という,法律や条例に基づいての公平・公正な仕事が求められていました。一方,商工観光課では自由な発想と,それを実現させるフットワークの軽さが重要です。「公務員らしい仕事」から「公務員らしからぬ仕事」へと真逆の方向転換でしたが,どちらの業務もとてもいい経験になっています。地方公務員の仕事は税務・財政・福祉・教育・観光・環境・都市計画など,どれも地域住民の生活に必要なものですが,それと同時にとても幅広いものでもあります。各部署では制度や政策,法律に精通したその分野のスペシャリストとなり,最終的には様々な部署を経験してゼネラリストを目指します。年々多様化・複雑化する地域住民の様々なニーズに対応するためには,多角的な視点を持つことが必要不可欠だと思います。

これからの日本社会は超少子高齢化の時代を迎え,海外からの労働者や移民の受け入れの増加などによって,国際化がさらに加速することが予想されます。様々な歴史や文化をもつ人々とのかかわりの中で,歴史的認識やそれぞれの価値観の違いを理解することは大変重要です。上智大学文学部史学科を目指す皆さんや在学中の皆さんは,史学科での4年間の学びを通して,現代社会,そして国際社会に対応できる思考力を是非身に付けてください。

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他大学出身者だからこそわかる「上智らしさ」

2009年度大学院前期修了 工藤彩香(読売新聞記者、秋田勤務)
県警記者室で新聞チェック中

県警記者室で新聞チェック中

私は、2007年に他の私立大学から上智大学大学院(文学研究科史学専攻)に進学し、大学院の3年間を井上ゼミで過ごしました。

初めのうちは、施設の使い方や授業の選び方など、分からないことばかりで戸惑う事もありましたが、上智出身の大学院同期生や指導教官のサポートもあり、比較的すんなり馴染むことができました。

他大学出身者だからこそわかる「上智らしさ」があります。私が感じた上智の印象は、学部生も院生も、明るく自由闊達で、真面目だということ。「真面目」にも色々種類がありますが、上智生は自分の持つ興味関心が明確で、目標に向けて楽しみながら努力する人が多かったように思います。また、考えに芯がある一方、他人の意見にも寛容で、広いテーマについて仲間と熱く議論できる雰囲気がありました。院生として1泊2日のゼミ合宿にも参加させてもらいましたが、学年や専門分野を超え、学問の話で皆ワイワイ盛り上がる姿はとても刺激的で、学生の意識の高さを感じました。

学会や論文の締め切りに毎回ヒヤヒヤしていた身ですが、大学院修了後はどういうわけか、「毎日」締め切りに追われる新聞記者になりました。記者を元々志望していたわけではなく、学部生の頃から夢は高校教員。大学院で教職の専修免許も取得しました。そのうちに、「学校という狭い世界しか知らないまま社会科の教員になって、自分は一体生徒に社会の何を教えられるのだろうか」と考えるようになり、就職活動を始めました。メーカーや出版社など様々な業種を受けましたが、最終的に世の中の動きを最前線で体感できる新聞記者を選びました。

初任地の秋田支局に赴任後、県警担当、通信部勤務を経て、5年目を迎えた現在は、県警キャップをしています。県警担当は、警察官ら捜査関係者宅に「夜討ち朝駆け」し、時には酒場で親交を深め、ネタをもらうのが仕事です。有事の際には、現場で足が棒になるまで「地取り取材」をし、時には、批判や葛藤と戦いながら「遺族取材」をしなくてはなりません。

県警キャップは、こうした県警担当記者を束ね、事件事故取材を統括する立場にあります。これまでに秋田市の弁護士刺殺事件や、クマ牧場従業員2人が亡くなった鹿角市のヒグマ脱走事件、由利本荘市の土砂崩落5人生き埋め事故取材などを経験しました。

なかでも一番印象深いのは、記者1年目の2011年3月に発生した東日本大震災です。

岩手出身で土地鑑があったこともあり、応援派遣の第1陣として震災当日に盛岡市入りし、その後1週間山田町や釜石市などを取材。震災後も応援記者の派遣は続き、計8回3か月間ほど、岩手、宮城、福島の被災3県で取材しました。間もなく震災から3年半を迎えますが、秋田県内で避難生活を送る被災者もまだまだ多く、継続的な取材が必要だと感じます。

史学出身の記者は少数派ですが、歴史的な流れを踏まえて国際政治や経済を読み解くことができるというのは、一つの強みではないでしょうか。事件や事故、災害など突発的な事案が発生すれば、夜間休日問わず呼び出されることもままあり、記事には間違いも許されないため、肉体的にも精神的にもハードな仕事ですが、自分の視点で世の中に問題提起 できるのは、この仕事ならではの醍醐味です。

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真摯な研究姿勢を教示してくださった、アットホームで学生想いの先生方に感謝!

2008年度大学院前期課程修了 柳下惠美(早稲田大学文学学術院総合人文科学研究センター助手)
2011年8月ニューヨークにて

2011年8月ニューヨークにて

私が西洋史を本格的に学ぼうと思ったのは、幼少期から歴史やノンフィクションの物語が好きだったことに起因しています。歴史上に登場してくる様々な人物が、実はこれまで語られていなかった側面を有している事などが分かった時、皆さんはその人物に親近感を抱いたり、それまでとは違った観点で物事をみるようにならないでしょうか。

また小学校から高校まで学んでいた歴史が、一次史料を詳細に辿っていくと実は通常語られていることとは違っていたり、それを知ることにより少し世界の見方が変わったりすることがあります。勿論、義務教育で学ぶ歴史は基礎としては大切ですが、大学、大学院ではこれまで学んできた歴史の中から自分の興味・関心のある時代、国、文化を選択し、それをよく掘り下げて関連する史料を自ら読み解き、過去を自分の目を通して再現できるという醍醐味があります。

上智大学の史学科は、先生方其々がご自分の専門に対して大変真摯に向き合っており、これら上記の事を全て叶えてくれる環境が整っていました。自分の専門領域以外のゼミにも気軽に出席させて頂くことができたのも先生方がお互いにそれぞれを尊重し合い、学生のことを真剣に考えていたからこそと感謝したいと思います。

2010年1月 長谷川先生を囲む感謝パーティーで:長谷川先生と奥様のイザベル先生

2010年1月 長谷川先生を囲む感謝パーティーで:長谷川先生と奥様のイザベル先生

私の指導教員であった近世史ご専門の長谷川先生は、文献を読み解く術や論文執筆に必要な文献を丁寧に教えてくださり、特に修士論文執筆時には詳細にご指導頂くなど、大変お世話になりました。そして多くの事に関心を持ってしまう私は、論文執筆の際には、“決めたテーマから外れることのないように”とその基本を教えられました。いつも笑顔の長谷川先生の研究室にはその温かいお人柄に魅かれ数多くの学生が相談に訪れていたことを覚えています。

古代史ご専門の豊田先生からは“現地に行って自分の目で真実を確かめる”という調査研究の基礎を徹底して学ばさせて頂きました。海外各地に何十回と出向き、一次史料の収集と調査を行って執筆した私の博士論文は、このことが好評価に繋がったと思っております。ジョークを交え、笑いの絶えない豊田先生の授業は受講するのが大変楽しみでした。数多く所蔵しておられた研究室のDVDを気軽に貸して頂いたことを覚えております。

近代史ご専門の井上先生のゼミでは、“史料を詳細に読み解く術や一次史料の重要性、また様々な観点から1つ事柄を捉えることの大切さ”を教えていただきました。私は先生のゼミでも発表させて頂く機会を与えられましたが、ここで学ばせて頂いたことはその後の国内外の学会等での発表に役立っており、井上先生のゼミで培った賜物と思っています。

中世史ご専門の児嶋先生からは“残された芸術品・美術品から何が見えてくるのか”について学ばさせて頂きました。もともと美術・芸術鑑賞が好きな私でしたが、なお一層美術史や絵画への興味が増すことになりました。イタリア語を流暢に話し、通訳をなさっていた児嶋先生のお姿は今でも覚えております。

私は上智大学ではジャン=ジャック・ルソーの友人で18世紀を生きたデピネ夫人に焦点をあて修士論文を執筆、修士を修了後、博士後期課程に2年間ほど在籍し、研究対象を舞踊家イザドラ・ダンカンにしたことから、その後早稲田大学に移りましたが、史学大会など出向いた際にも私が在籍していた頃と全く変わらず、先生方はいつもアットホームな雰囲気で温かく迎えて下さいました。

2009年3月 上智大学正門の前で:大学院学位授与式 

2009年3月
上智大学正門の前で:大学院学位授与式 

上智大学在籍中は主に西洋史専門の先生方一人一人から当時の文化、芸術、社会等について学びましたが、ここで学ばさせて頂いた研究に対する姿勢は、博士論文「イザドラ・ダンカンの舞踊芸術の形成とその普及―彼女と継承者たちの国際的公演・教育活動」を執筆する際に有益であったことは言うまでもありませんし、様々な先生方から培った学びは今でも貴重な財産になっております。今後も研究を続けていく上で、史学科で培い、学ばさせて頂いたことを誇りとしてまた心の拠り所として、さらに精進していきたいと思っております。
将来、上智大学の史学科で学ばれる皆さんは、ここでの学習経験は必ずや何らかの形でご自身の財産になることと思います。有意義な学生生活でありますように!

2014年7月 アテネで開催された国際学会で

2014年7月
アテネで開催された国際学会で

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