私の寄り道人生、萬歳
2006年4月に上智大学の門をくぐった時、私は法学部国際関係法学科の学生でした。しかし法律関係の仕事に就きたかったわけでもなく、図書館で借りる本はいつも古い時代のヨーロッパ史に関するものばかりで、気がついたらいつの間にか文学部史学科西洋古代史専攻の学生になっていました。転部科試験を受けた際の「君は本当に奇特な方だね」という、指導教官となった豊田浩志先生のお褒めの言葉(嫌味?)は今でも忘れられません。
そうこうして史学科の学生となってからの5年間、国際シンポジウムのお手伝いをさせていただいたり、頭を抱えながらひたすらラテン語の文献を講読したり、最終的に大学院に進学したり、学部生と院生それぞれで研究対象であったイタリアに留学したりと、思い返せばかなり充実した史学科生活を送ることができたように思えます。研究者になるという夢は不完全燃焼な形となり社会に出ることになりましたが、上智大学の教室で、図書館で、研究室で、そして愛するイタリアの地で見聞き学び体験したことは、この身の糧となって今も生き続けています。
上に書いたように、私は紆余曲折した道を、違う言い方をすれば寄り道ばかりをして歩いてきました。しかし寄り道をする中で、むしろ寄り道をしていろいろな角度から歴史を眺めたからこそ「歴史を学ぶとはどういうことなのか」「歴史を学ぶことで何を学べるのか」ということについて、自分なりに漠然としたものは得ることができたと思っています。それこそが史学科で学ぶことの一番の意義ではないでしょうか。せっかく史学科で学ぶのに「歴史を学ぶ」だけならば、それは大学受験のための勉強とあまり変わりません。史学科の学生であるからには、ぜひ歴史を学ぶだけでなく、その先にある数々の歴史家たちが積み上げてきた研究蓄積以外の何かにまでアプローチしていってもらいたいと思います。そうやって自ら考え、そして蓄積させてきたものは、学問の場を離れたとしても、直接的であれ間接的であれ、様々な形で役立っていくことになるでしょう。
最後にひとつ、西洋古代史を学んで今でも一番心に残っていることを伝えたいと思います。それは、「2000年前も現代も、人間は何も変わっていない」ということです。敬虔に生きる人もいれば恋に生きる人もいる。革命を起こそうと試みる人もいれば教会の壁に落書きをする人もいる。政治家がいて庶民がいて、金持ちがいて貧乏人がいて、お風呂もお酒もご飯も大好き。そんな何千年も変わらない人間模様を学べるのは、学問広しといえども歴史学だけではないでしょうか。ちなみに、イタリアに旅行をしたら教会のモザイク画について同行者に知識をひけらかすこともできます(研究の場を離れた今の私です)。そんな不純(?)な動機であれ、歴史学を極めたいという野心的な動機であれ、史学科はきっと満たしてくれるでしょう。
大学院に進んで留学までしたにも関わらず国土交通省の職員という歴史とまるで縁のない仕事に就いてはいますが、紆余曲折の中歴史を学んだことで得たものの見方やアプローチの仕方、考え方は、一生なくなることのない財産としてこの身に刻まれています。