歴史から学ぶこと
「歴史は大河のようなものだ。雨粒が集まって川になり、川が集まって大河になるように、どんな小さな人の人生も雨粒のように集まって流れ、歴史という大河になる」
誰から聞いたのか、はたまたテレビの文言か忘れてしまいましたが、私が歴史を学びたいと思ったのはこのような言葉の影響でした。
歴史のことなら負けない、と意気込んで入学した私でしたが、いざ入ってみると周りには自分よりはるかに歴史の知識が多い、所謂歴史オタクが溢れていました。同級生たちのあまりに深い会話についていけなくなり落ち込んだのを今でもよく覚えています。
一方でマニアックな歴史上の人物について熱く語り合える人に出会えたり、友人と気兼ねなく史跡巡りができるのも史学科ならではといえるでしょう。
授業では、歴史を学ぶということを学ぶ授業や先生方の専門分野についての授業、広汎なものから深く掘り下げたものまで多角的に歴史を見つめることができます。
歴史が好きな人は歴史上の人物や歴史の事柄に多かれ少なかれ憧れを抱いているものではないでしょうか。私もその一人でしたが、その憧れは史学科に入ると打ち砕かれます。史料として残された文献も人が書いているからには書き手の誤りや思惑、偏見が含まれ、真実から大きく外れていることがあるからです。史学科の学生はそれを念頭に置きその分を差し引きしながら史料を読み解く必要があります。史料批判から本質を見極めるという作業は大好きなアイドルのすっぴんを垣間見てしまったようなやるせなさを感じる作業です。しかし続けていれば、ふと自分の視野が大きく広がっていることに気づくはずです。武人として格好良い部分だけでなく、君主として残虐な面も父親として優しい面もその人物にとって欠かせない部分だと繋がって見えるようになるのです。
私がご指導を賜っていた豊田先生は常々歴史の美しいところだけではなく、汚いところもしっかり見るようにとおっしゃっていました。人が生きている限り綺麗なことだけでは生きていけない、汚いところも含めて人間であると理解した時、汚い部分を汚いと感じなくなりました。この教えは今でも私の軸になっています。
現在私は医療関係の大学に通っています。なぜ史学科から医療系なのかとよく問われますが、答えはいたって単純で人が大好きだからです。歴史はその時代の人々の生き様の塊です。どんな小さな人でもその人が必死に生きてくれたおかげで今がある、そう思うと今日までに亡くなって歴史の一部になった人々への尊敬の念が溢れてきます。そして今を必死に生きている人を助けたい、少しでも苦しみが取り除かれるように不肖ながらお手伝いしたい、と思い今この道を歩んでいます。
人生は思い描いたようにはなりません。私もまさか自分が医療界に飛び込むことになるとは思ってもみませんでした。しかし予想外に辿り着いた場所だとしても後になって自分はここに来るべくして来たのだ、と思う日がきます。歴史は多くのことを私に教えてくれました。どんな偉人であっても自分の敷いたレールを思い通りに進む人生を送った人はいない、これもその一つです。
「置かれた場所で咲きなさい」というのは渡辺和子さんのお言葉ですが、偉人こそ置かれた場所で必死に咲いた人たちだと私は思います。受験生の皆さんには今目標を定め、努力をしているところだと思います。運命は気紛れな風で、向かい風が吹くことも追い風が吹くこともあります。しかし必ず皆さんを置かれるべき場所へ連れて行ってくれます。
皆さんが置かれた場所で綺麗な花を咲かせることができますように願っています。