R.K.
演目リストを見ますとSMPの歴史は1978年から2004年までの26年間に渡ることがわかりますが、私はこのうち1984年12月公演のOur Townから1986年12月公演 Philadelphia, Here I Come までの5作品にかかわりました。
言い方は悪いかもしれませんが、SMPは私にはメイスン先生の劇団とうつりました。
メイスン先生を慕う学生達が先生によって演劇の素晴らしさ、楽しさを初めて知り、先生のおっしゃる事を一言も聞き漏らさないよう耳を傾け、先生の理想の舞台を試行錯誤を繰り返しながら完成させていった演劇サークル、そんな印象です。
私が入った頃、すでにメイスン先生は闘病中でしたので、日々の練習(17:00頃~20:00? )にも最初から最後までいらっしゃることはなく、来るか来ないかもその日の体調によってでした。いらっしゃったら1時間ほど練習を見てアドバイスをされてから、すぐにまたSJハウスへ戻られます。SJハウスに戻られる時はもうお身体が痛くなっていたので、ディレクター役の学生が先生のお身体をかばいながらゆっくりお供して歩き、SJハウスの部屋まで戻りました。
ディレクター役の学生の演技指導で楽しくざわざわ(それなりに真剣に)練習をしている所に先生が姿をあらわすと、その場の空気は突然張りつめます。おしゃべりはピタッとストップし、皆の顔から笑顔は消え緊張の面持ちになります。そこからは先生が冗談を言った時にのみ笑い声が聞こえるようになります。それまでの練習で決まった事も先生のNGが出れば全ていっぺんになくなります。
ある日の練習で、私が自信たっぷりにした演技を見た途端、先生が顔をしかめて隣に座っていたディレクターに何かコソコソと話しかけました。その直後ディレクターから「役の気持ちを考えて演技して。今の様な演技は役に合っていない。」と注意されて、私は顔から火が出る思いになりました。
先生のいらっしゃる練習はいつもとても緊張しました。自分の演技がいかに表面的であったかを指摘され、それはまるで自分の安易で怠慢な性格を見透かされている気がしたからです。
ですが、先生に対して緊張していたのは私だけだったのかなとも思います。
先生のまわりには常に男子学生が大勢いて、先生の話を聞いたり、先生と談笑していました。それはクラブ活動以外の時間でも同じでした。
ですが女子学生には遠い存在だった気がします。
少なくとも私は先生と親しく話をするのはとても難しいと感じていました。ですから先生が治療のためにアメリカへ戻られる度にとても個人的な内容のお手紙を書き、送りました。せめてそれをする事で、私も先生と親しく出来る学生の一人になった気分になれたからです。実際、個人的な内容の手紙にもいつも親身なお返事をくださいました。ある手紙では思い切って恋愛の相談をしてしまいました。私はSMPのある男子学生に恋心を抱いていました。その学生が特に先生と親しかったので、手紙でその学生の気持ちを先生に聞いてみたのです。
それに対しての先生の返事は「誰かが神父にならないといけない。彼がその誰かだと思っている。」でした。ショックを受けたのは言うまでもありません。先生が彼を神父にしたいと考えていたのもそうですが、先生の手紙が、彼との交際など考えるなと言わんばかりだったからです。
先生はイタズラ好きで、親しみやすくて、楽しいと誰もが言っていましたが、私にとっては真実を見抜いてしまう鋭い先生で、いつも緊張して近寄ることが出来ない存在でした。学生達に囲まれてニコニコ笑っているお姿を遠目に見ていました。
私にとって一番思い出深い公演となったのはシェイクスピアのA Midsummer Night’s Dreamです。なぜならこの公演は今の皇太子殿下でいらっしゃる浩宮様がご覧になって下さったからです。公演が終わり、ロビーで浩宮様をお送りした際、役者の一人一人ににこやかにお声をかけて下さったお優しいお人柄には大変感激しました。1985年の12月でした。
その半年後、メイスン先生にとっては念願であったJesus Christ Superstar をやることになりました。これは大変なことになったと思ったのをはっきりと覚えています。
SMPは英語劇のサークルとしては一目置かれていましたが、ダンスや歌が出来る集団ではなかったからです。ダンスや歌を見せるサークルやグループが数ある中で、ミュージカル無経験のSMPがそれをやる、それは大変なプレッシャーであり、学生達の野次の的になりそうな空気がありました。1986年の2月から練習は始まりました。歌もそうですが、ど素人がダンスを踊る事が最大の難関でした。ダンスサークルの女子学生に講師になっていただき、ダンスの基礎練習から始め、素人でも踊れる振り付けをしてもらったおかげで、半年後にはロックオペラ、Jesus Christ Superstar の公演を成功させました。速いテンポのリズムにのる事でさえ難しかった私達があのミュージカルをやってしまった。今思い返すと信じられません。メイスン先生の起こした奇跡の一つだと思っています。
先生はこの公演を観ることが出来たのか出来なかったのか、今思い出せません。Jesus~をやることは先生の悲願でしたので公演をご覧になったはずという気もしますし、それを待たずにアメリカに戻られた気もします。メイスン先生は3ヶ月後の8月にお亡くなりになりました。
メイスン先生が亡くなってからもSMPは年二回の公演を続けました。私にとって最後になったPhiladelphia, Here I Come はドイル先生の指導のもと大成功の公演になりました。私の知る範囲のSMPの歴史は以上です。
ところで先生が神父にしたかった学生は神父にはならず、彼と私は結婚しました。この事に関してだけは先生の言う通りにはなりませんでした。それともそんな事は最初からお見通しで、そうなるように私に仕向けたのだとしたら、私は自分が思っていた以上にメイスン先生とは親しくさせていただいたという事になるのかもしれません。