上智大学イスラーム地域研究所、京都大学ケナン・リファーイー・スーフィズム研究センター主催
オンデマンド講演会
移民ムスリムたちの今:
地域のマイノリティとして生きる
(Sophia Open Research Weeks 2024企画)
オンライン公開 2024年11月11日(月)~12月1日(日)
質問と回答
- 新井和広(慶應義塾大学商学部教授)「ムスリム社会に暮らすムスリム・マイノリティ:東南アジアにおけるハドラミー・アラブ」
- 岡戸真幸(上智大学イスラーム地域研究所共同研究所員)「クウェートとカナダ、それぞれに向かうエジプト人出稼ぎ者・移民のつながり」
- 鈴木麻菜美(京都大学ケナン・リファーイー・スーフィズム研究センター特定研究員)「オーストリアに渡った信仰と音楽:トルコ系ムスリム・マイノリティによる実践と継承」
- 沼田彩誉子(日本学術振興会特別研究員-PD 東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所)「日本社会に暮らしたムスリム・マイノリティ:テュルク系タタール移民と『故郷』」
Q01: [講演1への質問]東南アジアのムスリムの多くがハドラマウト出身というのがとても興味深かったです。高校のときに古くから数多くのアラブ商人が東南アジアを訪れてイスラームを広げたと習ったのですが、それらの人々の子孫はどうなってしまったのでしょうか。アラブであることを忘れて完全にどうかしてしまったとかでしょうか。[11月13日投函]
A: 質問ありがとうございます。東南アジアを数多くのアラブ商人が訪れたと言われていますが、前近代においては彼らがどこから来たのかはよく分かっていません。そういったアラブ商人は出身地に帰った人もいますし、現地に定住した人もいると考えられます。定住した人の子孫は世代を経るにしたがって現地社会に同化して、自分たちの祖先がアラブだったかどうか分からなくなった可能性が高いでしょう。今回取り上げたアラブ系は近代以降の移民の子孫で、まだ自分たちがアラブであること、祖先がハドラマウトから来たことを知っている人たちです。もしかしたらハドラマウト出身者の子孫がそうと知らずにどこかで暮らしているかもしれません。そう考えると面白いですが、我々がそれを知ることはできません。いずれにしても前近代の東南アジアは史料が限られてきますので確定的な事が言えないのが残念です。
あと東南アジアのムスリムの多くがハドラマウト出身と書かれていますが、正確には東南アジアのアラブの多くがハドラマウト出身です。念のため確認しておきます。[回答者:講演担当者、新井和広]
Q02: [講演4への質問]とても興味深く拝見し、戦前に日本に暮らしていたムスリムに感心を惹かれました。タタール系の人々で日本に残って子孫を残している人はもういないのでしょうか。いるならば、そうした人々の研究はされているのでしょうか。[11月15日投函]
A: 動画をご覧くださり、誠にありがとうございます。 日本に残られた方々もいらっしゃいます。 私が初めてインタビューにご協力頂いた方も、日本に残られた方でした。 今回の講演で紹介したインタビューの一部も、日本に残られた方から伺ったものです。 タタール移民の歴史が日本で紡がれ続けていることの重要性とともに、関係者の方々のプライバシーを重んじることもまた、大切であると考えています。 [回答者:講演担当者、沼田彩誉子]
Q03: [講演2への質問]クウェートで働く外国人というと東南アジアやインドからという印象をもっていたのですが、クウェート人と同じアラブであることがエジプトからの出稼ぎの人に有利に働くことはあるのでしょうか。[11月20日投函]
A: 質問ありがとうございます。残念ながらあまり有利に働くことはありません。ただし、エジプト人にとって、エジプト方言と湾岸方言という違いが多少ありますが、アラビア語が通じるという点は有利にはなっています。動画では、24分50秒辺りからご質問と関連する内容を話しておりますので、合わせて聞いて頂ければ幸いです。 [回答者:講演担当者、岡戸真幸]
Q04: [講演2への質問]もう一つ質問失礼します。エジプトからの出稼ぎ者にはキリスト教徒もいるそうですが、クウェートではムスリムの出稼ぎが多くて、カナダではキリスト教徒のエジプト人の出稼ぎが多いというようなことはあるのでしょうか。[11月20日投函]
A: さらに質問ありがとうございます。エジプト人の宗教別の出稼ぎ労働者の正確な数について、統計がありませんので解りません。私の印象では、こうした傾向はないと思います。私は、クウェートとカナダのそれぞれで、エジプト人ムスリムとコプト教徒の両方へ調査したことがあります。なお、コプト教徒は、エジプトで人口の1割ほどを占めています。
それから、『移民ムスリムたちの今』という講演で、コプト教徒に言及したのは、エジプトにおいてマジョリティであるムスリムにとって、海外への移住によってマイノリティの立場になった時に、エジプトでマイノリティであり交流があまりなかったエジプト人コプト教徒が近しい隣人になり得ると、カナダの調査から考えられたからです。エジプト人ムスリムにとって、マイノリティとなる経験は、自身の立場を相対化し、見つめ直す機会になるのです。
[回答者:講演担当者、岡戸真幸]
Q05: [講演1への質問]ハドラマウトから東南アジアやいろいろな地域に人々が移住していったという話の壮大さに感心しました。ハドラミーはアフリカや南アジアにも移住したそうですが、それらの地域でも今回のお話しと似たような状況を見ることができるのでしょうか。簡単にでもご教示いただければ幸いです。[11月20日投函]
A: 質問ありがとうございます。南アジアや東アフリカのハドラミー移民ですが、東南アジアと似た部分もありますし、異なる部分もあります。たとえば南アジア、デカン高原にあるハイデラバードではハドラミーの傭兵が軍隊の中で活躍し、ハドラマウトの沿岸部と内陸部の一部を支配していたクアイティー王国のスルターンはハイデラバードの軍隊の中でも位を持っていました。東アフリカでもハドラミーの傭兵がいたことが伝わっていますが、東南アジアで軍事に関わったハドラミーはおそらくいなかったと思います。
その一方南アジアでも東アフリカでも商業活動を行っていたこと、宗教者は地元の尊敬を集めていたという点は東南アジアと同様です。
もう一点、東アフリカのアラブはハドラミーのほかにオマーンからやってきた人びともいました。彼らの宗派はイバード派という独特な派でオマーンとアルジェリア南部にしか信徒がいません。東アフリカは19世紀にはブーサイード朝の首都がザンジバルになるなどオマーンとの政治的なつながりが強い場所でもありました。ここでは政治はオマーン系、経済はハドラミーという一種の棲み分けができていたと言われています。
[回答者:講演担当者、新井和広]
Q06: [講演3への質問]映像もあり、楽しんで拝聴しました。オーストリアのアレヴィーの人たちは、他のトルコ人の人たちとの仲間意識はどれくらいあるのでしょうか。また、宗教に関係のないアレヴィー独特の歌とか踊りはなくて、歌や踊りはどれも信仰に結びついているのでしょうか。[11月20日投函]
A: ご質問いただきありがとうございます。「オーストリアのアレヴィーの人たちは、他のトルコ人の人たちとの仲間意識はどれくらいあるのでしょうか」という問題はアレヴィー自身を取り巻く環境や個人体験が関係してくるもので、すっきりとお答えしにくいところでありますので、冗長となりますことをお許しください。
まず彼ら(アレヴィーとその他の人びと)が「トルコ系移民」として交流した場合、同じルーツを持つ者同士として仲間意識はたしかにあるでしょう。移民としてオーストリアでドイツ語に囲まれて生活する中で、トルコ語を話せることや本人や家族がトルコ生まれであることは、「仲間」として強く意識する根源となり得ます。
一方、宗教という枠組みで見た場合、個人や組織・団体の傾向にもよりますが、やはりアレヴィーである「自分たち」とちがう信仰をもつ「彼ら」として、ほかのトルコ人たちのとの間に線引きをしている傾向が見受けられます(今オーストリアで活動しているアレヴィーの団体も習慣などの違いからそれまで所属していた「イスラーム振興協会」という団体からアレヴィーとしての組織を築くために独立したという背景があったりもします)。
一方、オーストリアで最も大きなアレヴィーの団体(協会)でのインタビューでは、アレヴィーをイスラームの一グループと位置づけ、ムスリムの一部としてほかのトルコ系移民たちと交流している様子もありました。これについては、この協会が宗教団体としての認可への活動を行ったり教師の派遣をしている団体なので、「よくわからない」「自分たちとちがうひとたち」であるアレヴィーというよりムスリムの一部として自分たちを位置づけ表明することで、他のトルコ系移民に受け入れてもらう、トルコでのそれよりもより安定した交流を目指した、仲間意識の「演出」、とも言えるかもしれません。
他方、そうした団体に対し自らをイスラームの流れはくむものの一般のムスリムとはちがう独立した「アレヴィー」として自己認識し組織された団体もあります。
また、移民コミュニティにはアレヴィー、スンナ派といったような宗教としての枠組みだけではなく出身地域によるコミュニティも根強く、そこでは同じ町や村出身としての別の仲間意識が築かれている場合もあります。ただアレヴィーはマイノリティであることや生活習慣のスンナ派との違いから、地域や市町村によってはまとまって暮らしていることも多く、その場合は地域の仲間意識=アレヴィーとしての仲間意識にもなりますのでケースバイケースですね・・・。
「宗教に関係のないアレヴィー独特の歌とか踊りはなくて、歌や踊りはどれも信仰に結びついているのでしょうか」という点については、結論から申しますと、アレヴィーにとってすべての歌や踊りが信仰に基づくわけではありません。動画内でご紹介したデイシュ(あるいはネフェス)と呼ばれる歌とセマーフという踊りのような旋回は、アレヴィーのジェム儀礼の中で実践されるもので、明確に信仰に結び付いています。動画内では便宜上「歌」「踊り」と表したところもございますが、デイシュやセマーフはどんなに歌や踊りっぽく見えてもアレヴィー達には「デイシュを語る(唱える)」「セマーフを回る」といったように表現されて、娯楽として行われる歌や踊りとは明確に区別され、あくまで信仰行為の一部として行われているわけなのです。
一方で、アレヴィーは儀礼に歌を用いるだけでなくその習慣から多くの吟遊詩人(アーシュクやオザンと呼ばれる)やサズの演奏者、民謡歌手を輩出してきたことで知られていまして、そうした儀礼外の場では一般的な民謡を歌ったり、あるいは結婚式などのお祝いでハライなどのアナトリアのダンスを踊ったりも盛んにしますが、この場合の歌や踊りは「歌う」「踊る」ものであって、「語る」「回る」とは表されず、デイシュやセマーフとは区別していることがわかります。つまりはどの歌・どの踊りも信仰に結び付いているわけではなく、デイシュやセマーフとして認識されているものだけが特別に信仰に結び付いている、と言えます。
こうした区別の中では、極めて舞踊的に行われるセマーフをどのように踊りとは違うものとして伝えていくかは、移民コミュニティの中で重要な課題となっています。やはりアレヴィーのことをよく知らないままセマーフを見ると「踊り」との区別がつけられず混同してしまうということがあるようで、そうしたなかでの問題意識や試行錯誤が以下の論文などで議論されています。
Sökefeld, Martin. 2004. “Religion or Culture? Concept of Identity in the Alevi diaspora”, Diaspora, Identity and Religion-New Directions in Theory and Research., pp. 132-155.
----------------------. 2005. “Cem in Deutschkand: Transformationen eines Rituals im Kontext der alevitische Bewegung”, Migration und Ritualtransfer: Religiöse Praxis der Aleviten, Jesiden und Nusairier Zwischen Vorderem Orient und Westeuropa., pp.203-226.
Shankland, David and Atila Çetin. 2005. “Ritual Transfer and the Reformulation of Belief Amongst the Turkish Alevi Community”, Migration und Ritualtransfer: Religiöse Praxis der Aleviten, Jesiden und Nusairier Zwischen Vorderem Orient und Westeuropa. pp.51-72.
[回答者:講演担当者、鈴木麻菜美]
Q07: [講演2への質問]興味深くお話しうかがいました。欧米へのエジプト人の出稼ぎ先として、カナダは他の国々より好まれているのでしょうか。歴史的経緯や行きやすさからいうとイギリスとかに行きそうな気もするのですが、そういうことはないのでしょうか。[11月24日投函]
A: 質問ありがとうございます。カナダは、多くの移民を受け入れてきた国家ですが、エジプト人の出稼ぎ先として他の国より好まれているかどうかは判断がつきません。また、イギリスはエジプトを植民地にしてきたこともあり関係が深そうですが、同じ植民地だったインド人がイギリスに渡った状況のように、エジプト人もイギリスに渡るかというとそれほどの傾向はないように考えられます。例えば、フランスの植民地だったマグリブ諸国の出身者が独立後に、植民地期のフランス語教育の影響からフランスに出稼ぎに行くようになり、やがて定住し、その子孫たちがマグリブ系フランス人へとなっていくという流れは、エジプトの場合見られません。特定の国との結びつきはなく、欧米に幅広く移住しているようにみられます。[回答者:講演担当者、岡戸真幸]
Q08: [講演4への質問]今の代々木のモスクの前にもモスクがあったと初めて知りました。ありがとうございます。一つだけよくわからなかったのは、テュルク系タタールということはテュルク系じゃないタタールもいるのでしょうか。[11月24日投函]
A: 動画をご覧くださりありがとうございます。長い歴史を振り返れば、「タタール」という名称は時代や地域によって意味合いが異なるため、扱いが難しい部分があります。詳しくは、以下の研究が参考になります。
小松久男編著(2016)『テュルクを知るための61章』明石書店.
櫻間瑛・中村瑞希・菱山湧人(2017)『タタールスタンファンブック―ロシア最大のテュルク系ムスリム少数民族とその民族共和国』パブリブ.
ただし、今回の講演で「テュルク系タタール移民」と呼んだのは、取り上げた人びとの間にテュルク系ではないタタールがいるという意味ではありません。テュルク系の一民族であるタタールの方々を取り上げた講演であることを明確にするために、「タタール移民」の前に「テュルク系」と付しました。[回答者:講演担当者、沼田彩誉子]