1962年

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語劇の思い出

 

1962

 

(語劇を)主導したのは、当時の私たちのスペイン語の先生、ARTURO CHIRINO神父でした。彼はキューバ出身で、当時キューバ革命を成功させ大統領に就任したばかりの「カストロ氏とキューバ大学で机を並べていた」、と自己紹介をされたことをよく覚えています。兎も角、我々の年代では、一番人気があった先生であったと思います。我々のクラス会にも何度かご出席頂いたことがありましたが、残念ながら既に帰天されました。


多分、私が3年だったと思いますが、チリノ先生が主導しスペイン語劇をやろうということになりました。そのストーリーは記憶を探ると「保険屋が3人集まって、一種のかけあい」をやり、その3人の会話の面白さがポイントと言うようなものではなかったか、と思います。出演者は、同じ36クラス(西語科は35・36クラスの2クラスあった)の「奥坊」「比嘉」両君と私の3名であったと思います。両君は既に物故しており、出演者3名の内、生存しているのは私一人のようです。
   

私の記憶になりますが、私は「退役大佐」の保険屋という設定で、これは、私の髭が濃かったことからチリノ先生の指名に預かったようです。指名されてから、私は(それまでは毎日髭をそっていたのですが)全くそるのをやめました。しかし当時の世の中で髭を伸ばしているのは少数派であり、私も1カ月足らずでまた髭をそってしまいました。「髭が濃い」ところを買われて、指名されたのに、肝腎の髭をそってしまいましたので先生には叱られました。でも、役は変更なく、私はまた髭を伸ばしました。でも、前ほどは伸びませんでした。
   

そして、いよいよ「語劇」の当日のことです。入りは、良かったのか、悪かったのか、記憶はありません。多分良くはなかったと思います。劇は、最初は誰も居らず、最初に登場するのは私で、第一声は私が「NADIE」と言うことになっていました。ところが、私が「NADIE」を言おうとしたとき、次に登場する「奥坊」君が舞台に出てきてしまいました。「誰もいない」と言おうとしているのに人がいるのは、いかにもおかしいと私は思い、「奥坊」君に一旦消えろと言わんばかりに、小さい声で「シーッ」と言いましたが、一向に消える様子がない。それどころか舞台のあちこちを歩き回っている。私はついに覚悟を決めて「NADIE」と言い、その後のセリフを続けました。この間、異常な時間が流れたようです。座席で見ていた、クラスの他の方から、「どうしたんだセリフを忘れたのか」と言われ、私が前述の理由を言ったら、「そうか」と言っていました。「奥坊」君には、私から「なぜ出てきたんだ」と言ったところ、彼は、「扉がちゃんと開くか、どうか心配だったので、押してみたら扉があいちゃったので、出てしまったんだ」と言っていました。以上のことは、私は、はっきりと記憶が残っています。忘れることが出来ないエピソードです。

 

1959年入学(第4期生)山内浩行   2011.6.21筆