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なぜ日本語をはじめたのか、よく聞かれます。確かに、これからお話しする大学(国立東洋言語文化研究所)で勉強し始めた当時、一年生の時はそれなりに人数はいたのですが、二年生になると350人から30人に減っていました。
パリ12区のポール・ヴァレリー高校にいたときに、“外国語”コースを専攻しました。私の第1外国語は英語で、第2はスペイン語、第3はドイツ語でした。その高校では他にもロシア語やイタリア語を選ぶこともできましたが、中国語の夜間講座のポスターを見た途端、私が選ぶべきはこれだと確信しました。私はクラスメート(彼は今中国美術史の研究者です)とともにすぐにその講座に登録しました。中国語の授業は3年間履修するように組まれていましたが、それを知ったのが2年生だったので、私はその年に初級を、3年次に中級と上級をまとめて履修しました。中国語は私の第4外国語となり、一番夢中になって勉強しました。そしてそれが私の選ぶべき進路だと悟り、国立東洋言語文化研究所(現INALCO)に進むことを決心したのです。
第1外国語の英語の授業はとても充実していました。先生はイギリス人で、授業はすべて英語で行われていました。当時扱ったテキストのうちいくつかは未だに印象に残っています。少し経ったあと先生は高校を辞め、大学で教鞭をとるようになりました。
ドイツ語の先生が、すでに勉強している、バカロレアを受けることになっていた3つの言語に集中しろとは言わずに、中国語のような難解な言語の持つ魅力をよく理解できると言ってくれたことをよく覚えています。先生自身も英語よりドイツ語に惹きつけられていた訳ですが、それはまさしくドイツ語が難解な言語だったからです。言語を学ぶということは、その文化に入り込み、徐々に吸収していくということでもあります。私の中国語への熱意は当時の先生のおかげもあって日に日に増していきました。その先生は当時私の憧れであった韓素音(ハン・スーイン)に見間違えるほどよく似ていました。中国人の父とべルギー人の母を持つ韓素音は幅広い知識の持ち主で、それは彼女が書いた数多くの小説からうかがえます。彼女が毛沢東、特に周恩来を支持していた当時、講演をパリの文化センターに聞きに行った記憶があります。私の太極拳師範が少し中国語なまりの日本語を話していてそれが大好きなのですが、彼女も少し中国語なまりのフランス語を話していて、私はそれをとても気に入っていました。
いずれにせよ、バカロレアで中国語を受け、20点中16点という高得点を叩き出し、試験監督であったペネロープ・ブルジョワから賛辞を受け、勉強不足の他の受験者に模範として示されました。
進路は決まりました。迷うことなく、東洋語学校に入学しました。入学するのが待ちきれず、高校三年生の時に既に聴講生を受け入れていたベトナム語の講義を受けに行っていました。そしてベトナム語は私の第5外国語となり、ベトナム語にある六声を再現しようと喜んで発音練習室に入り浸っていました。
そして、バカロレアの試験後に、INALCOで日本語を履修することを決断しました。二つの難関言語を学ぶことは2年生までは可能でした。それは既に習得していた中国語に頼っていたからです。しかし3年生にあがり、日本語の先生の期待に応えるのが難しくなったため、苦渋の決断をくだしました。当時鎖国をしていた中国のことを考えて、日本語を選択したのです。それと日本語のカリキュラムは中国語よりずっとよくできていたということも言っておかなければなりません。そして出家するかのように日本語の道に入りました。なぜなら生涯を通してそれを学び続けなければならないと分かっていたからです。
[traduit avec la coopération de 横地彩子, 熊本カロリーヌ, 小郷 綾子 et今城雪子]