遠くて近い、サッカーと宗教

伊達聖伸

 フランス人のある言動を前にして「フランス人らしい」と評してみても、あまり意味はないでしょう。一括りにできるようなものではないからです。ステレオタイプ的なものの見方を打ち破ることも、大学教育の使命のひとつではないでしょうか。なんてことを学生の前では力説しているのですが、そんな私も「フランス人らしい」と妙に納得したことがあります。

 私が留学していた頃なので、今から10年ほど前になりますが、ベルギーにほど近いリールの街のオーケストラでパーカッションを演奏している宮本愛子さんから、次のような話を聞いたのです。「フランス人とオケをやっていて感じるのは、歯車がうまくかみ合ったときは、ものすごくいいものができるということ。でも、歯車が狂いだすと、あなたたち本当にプロなのっていうくらい、目も当てられない状態になることもあってね」。

 これからするのは、音楽ではなくサッカーの話です。こんなエピソードからはじめたのは、どちらも(かじったことはありますが)特に詳しいわけではない私が、フランスのサッカーについて何か書くよう求められて、記憶のなかから思わず浮びあがってきたことだからです。

 日本が初めてワールドカップの本大会に出場した1998年のフランス大会では、ジダンを中心とする地元フランス・チームが見事に初優勝を果たし、シャンゼリゼに繰り出したサポーターたちが「Zidane, Président !!」(ジダン・プレジダン)と盛りあがりました。

 4年後に行なわれた2002年の日韓大会では、前回優勝国が開幕戦で初出場のセネガルに敗れるという大番狂わせ。結局、予選リーグで1勝もできずに最下位で敗退しました。

 2006年のドイツ大会では、前評判は高くなかったと思いますが、予選リーグを何とか切り抜けたあとは、あれよあれよと決勝まで勝ち上がっていきました。マテラッティにジダンが頭突きをしたことで有名な試合ですね。個人的には、準々決勝のブラジル戦が特に印象に残っています。私が留学していたリールでも、街一番の大きさの広場(グランド・プラス)に大画面が設置され、アンリのゴールに人びとが快哉を叫んでいました。

 2010年の南アフリカ大会は、アネルカ選手がドメネク監督に毒づくなど、チームが内紛状態に陥って、予選リーグで姿を消しました。

 いやあ、これだけ天国を見たり地獄を見たりしているチームなんですね。いかにも「フランス人らしい」と思いませんか。きっと今回の大会でも、終わってみるまでわからない成績を残してくれるに違いありません!!(←当たり前ですね)

 フランス語学科の教員としては、今年の本大会にはフランスのほか、ベルギー、スイス、アルジェリア、カメルーン、そして日本と同じ組のコートジボワールが、フランス語圏の国として出場していることを述べておきます。それぞれのチームの注目選手や特徴などは市販のガイドブック等をご参照ください。

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 2006年ドイツ大会準々決勝フランスvs.ブラジル:アンリ、ゴール!の瞬間が大画面に映し出されると、リールのグランド・ブラスに集った人びとは興奮で沸いた。

 

 ところで、私は宗教学という学問をやっています。それはどういう学問であるかを一言で説明するのはなかなか難しいですが、たとえばサッカーというのは宗教に近いところがあるのではないかということを、思考実験してみることが割と歓迎される面を持ち合わせているところに、その特徴の一端があるのではないかと思います(ただし、本気で立証を企てて冷笑されても、責任は負いかねます)。

 ちょっとした思考実験にお付き合いいただける方は、次のリンクを開いて記事と映像をご覧になってみてください。「サッカーを新たな宗教に! ブラジル新興ビール会社の奇抜すぎる市場参入施策」。

 たしかにあまりに奇抜すぎる発想と思われるかもしれませんが、ここには宗教学者の興味関心を引きつけてやまないものがあります。

 今月の頭、私はパリに数日出張してきました。ホテルの部屋で何気なくテレビをつけたら、ワールドカップ・サッカー開幕を控えて、ブラジルについてのルポルタージュ番組をやっていました。ぼんやり見ていると、複数の人が「サッカーは私の宗教(religion)だ」とインタビューに答えているのです。

 たしかに、サポーターにとって、応援するチームは宗教人類学でいうトーテム動物のようなもの。サッカーの試合にはサッカーの試合に特有のセレモニーがあり、それを反復することで一定の社会性が育まれます。「キリストの生涯の主要な日付を祝賀するキリスト教徒の会合、「出エジプト」あるいは十戒の公布を祝賀しているユダヤ教徒の会合と、新しい道徳的憲章の制定、または国民の何らかの重大事変を記念する市民たちの集会とのあいだに、どんな本質的な差異があろうか」と述べたのは、フランスの社会学者エミール・デュルケム(Emile Durkheim)ですが、このリストにサッカーを付け加えることはできないでしょうか。

 妖術信仰研究で知られるマルク・オジェというフランスの人類学者は、1982年に「サッカー――社会史から宗教人類学へ」という論文を雑誌『デバ』 に寄稿しています(Marc Augé, « Football : De l’histoire sociale à l’anthropologie religieuse », Le Débat, 1982 / 2, n°19)。そこで彼はなかなか面白いことを言っています。もし、ヒューロン族(カナダの先住民)やペルシア人(18世紀にモンテスキューは彼らの目を借りてフランス社会を風刺した)が民族学者で、今日のフランスにやって来たとしたら、水曜の夜と土曜の午後(サッカーの試合がある曜日と時間帯)になると群衆の動きに変化が見られることに関心を寄せ、その規則性と強度に打たれるのではないか、というのです。

 オジェはこの論文のなかで、トニー・マソンの本を取りあげています(Tony Mason, Association Football and English Society 1863-1915, The Harvester Press, 1980)。私はこちらの本については未見ですが、サッカーの成立と発展を、イギリスの階級社会や世俗化の問題と絡めながら論じている本のようです。もうひとつ言及されているのが、ロバート・コールズの「「代替」宗教としてのサッカー?」という論文で、これはデュルケムが宗教的実践について述べたことはサッカーにも適用可能であることを示しているようです(Robert W. Coles,  “Football as a “Surrogate” Religion ? ”, A Sociological yearbook of religion in Britain, No.8, 1975)。そしてオジェは、「私が進んで「ライックな聖性」(sacralité laïque)と呼ぶものから、西洋人の多くは日々、生きる力を汲み出しているのだ」と述べていて、そこにサッカーも入ることを主張しています。

 サッカーを宗教の代替物としてとらえようとする研究は、概して宗教とサッカーが機能的に等価の役割を果たしていることを示そうとします。ところで、フランスの宗教社会学者のダニエル・エルヴュ=レジェは、『記憶のための宗教』のなかで、さらに一歩踏み込んだ分析を行なっています(Danièle Hervieu-Léger, La religion pour mémoire, Cerf, 1993)。彼女は、代替宗教としてのサッカーやスポーツが意味を産出する様態は、即席で瞬間的なものとなっていると指摘します。そしてまさにそのことによって、伝統的な宗教の世界からの断絶が遂行されていると言います。

 もう少し噛み砕いて言うと、こうなるでしょうか。伝統的な宗教は、その宗教の影響が及ぶ社会において、連綿と続く記憶の担い手であった。その宗教を生きるなかで主体が味わうことができた宗教性と、サッカーで盛り上がることによって経験することができる宗教性というのは、たしかに同じような機能を果たしているところがある。しかし、アナロジーでとらえられる機能的に等価な経験は、むしろ方向性としては逆の結果を生み出すことになる。というのも、サッカーがもたらす宗教性は、伝統的な宗教を再発見して再構成し、社会の記憶の担い手を引き受けていくことにはつながらず、むしろそのような記憶の継承をますます困難にするからである、と。

 ワールドカップ・サッカーは4年に1度のお祭り。「サッカー教」信者であるなしを問わず、また直接的な試合結果とは別のレベルで、このイベントに自分がどう向き合っているかを点検することは、大げさなことを言えば、自分がどんな時代を生きているのかを考えるきっかけにもなるのではないでしょうか。