この文章は先に掲載したCouchot先生の教員ブログ「Les fous du ballon」の広報担当による日本語試訳です。原文(フランス語)はこちらで読めます。
宙吊りにされた時間
四年ごとの同じ季節に、天地の間で奇妙な日食が起きる。それは、地球のどこからでも見え、時折、ミニ地震を引き起こす。ついこの6月にも、メキシコシティーでそんな地震が起きた。メキシコがドイツと対戦し、予想だにしなかった勝利を収めた直後のことだ。公式重量410から450gグラムの多色の皮の球体が、さまよえる天体となり、地球はその周りを回転し始める。そしてこの時期、地球はうまく回っていないということが、皆の一致する見解となる。
通常のせわしない時間が宙吊りになるこの期間、この世にはもはや、チョークの線で囲まれ、両端にゴールネットを備えた緑の芝生の長方形フィールド以外には何も存在しないように見える。この時期、人に意見を述べたいのなら、サッカー嫌いだとまずいし、どの方面のアジテーターであれ、このイベントにまつわる熱狂か悔しさ以外のことは訴えても何の効果もないだろう。何せこのイベントだけが、世界の大半の住民の脳の活動時間を捉えることができるのだから… 海も山も嫌いで、息を切らしたサポーターたちの喚き声が更に嫌いなら、一言でいえば、飲み始める前からカップが溢れそうなら、一番良いのは、サッサとどこかにサッてしまうことだ。
「誰が地球の統治を引き受けるのだろうか?」(ニーチェ)
何故ならば、サッカーのワールド・カップは当然、他と同様の単なるスポーツ競技ではなく、何よりもまず、真の地政学的事件なのだ。「グローバル化」につれて、日々ますます計算高く、機械のようになっていくこの世界で、叙事詩的冒険の終焉と偉大なメシア(救世主)的価値(救済、歴史の流れ、経済・社会的進歩)の後退が残した空虚を、ワールド・カップが埋めてくれる。それらの偉大な価値が、メシア/メッシ付きでもなしでも、これまでは様々な共同体を結びつけ、まとめていたのだが。強大国間の永遠の対決が再び始まり、諸国民が一つの地球全体のイベントに参与する喜びを(一時的であれ)再確認するのは、今では、水平方向に、地面すれすれの所においてであり、思想の何らかの天空上ではないのだ。
また、ワールド・カップは一種の予測不可能性を目の当たりに示してくれる。その予測外の出来事が多かれ少なかれ調整されたものである時ですら、そのことに変わりはない。というのも、様々な醜聞、贈収賄、友人間の裏工作、八百長試合までもが存在し、定期的にそれらが明るみに出て、サッカー・スタジアムの神々にもビジネス感覚があること、クーベルタン男爵の精神はいつも芝生の上に漂っている訳ではないことを、我々に喚起するからだ。時おり、悲劇、さらには「古代悲劇」(この表現は、1982年、セビリアの「アレーナ」でプラティニを擁するフランス代表チームがドイツに敗北した際に、フランス語圏の報道機関によって使われたものだ*1。)の様相を示しながら、ワールド・カップはまた別のグローバリゼーションの束の間のショーを我々に見せる。そのグローバリゼーションは、地球規模の巨大カーニバルのように、カードを切り直し、諸大陸間、諸国間の力関係を再配置するものだ。
何故ならば、ドイツ(結局のところ、いつも勝利するわけではないが)を除けば、世界を支配する主要経済大国(アメリカ合衆国、中国…日本すら!)が必ずしもサッカー大国ではないのだ。ワールド・カップ5度優勝のブラジルのような謂わゆる新興国や、開発途上国が時には驚きの試合結果を出すこともある。例えば、1990年にロジェ・ミラを擁するカメルーンは、開幕戦で前回優勝国、ディエゴ・マラドーナのアルゼンチンを破ったあと、ワールド・カップ本選の準々決勝にまで進出した初のアフリカ国となった。
間大陸的にしてコスモポリティカリー・インコレクトなワールド・カップに
すべての偏流や、この新たな「人民の阿片」が生み出す錯乱(時には贔屓のチームが早期に敗退したためにサポーターが自殺する事態にまで至る錯乱 —-2014年の前回ワールド・カップで、ブラジルがドイツに敗北するという屈辱を喫した際に、それは実際に起きたことだ)にも関わらず、国ではなく、地球の六(または七)大陸が平和裡に競い合う、超国家的サッカー大競技を夢見たい。同じチームに異なる国の選手が属する(例えば、アジア・チームには、日本、中国、韓国、北朝鮮の選手がいる)その競技なら、現在不調で、ナショナリズムが「おぞましい獣の皮をかぶり、元気を取り戻している*2」ヨーロッパにも真の活力を再び与え得るだろう。
感情の両義性ゆえに、サッカー愛好家は最良のことも最悪のこともなしうるから、アイデンティティーをめぐる偽りの議論を、穴があいたボールのようにしぼませるため、興ざめな煽動者ばかりが観覧席/論壇を占めないようにするためには、混成チーム、歓喜するファンの混色以上に有効なものは存在しないのだ。 1998年、ジダンの「ブラック・ブラン・ブール(黒人・白人・アラブ系)」(訳注2)フランス代表チームの優勝を歓迎したあの群衆のように。
サッカー非愛好家向けの(主観的)用語集
* Un coiffeur(理髪師) : (昔は “coupeur de citrons”(レモン・カッター)と言われていたが、50歳以下の人はこの表現を聞いたことがないだろう。)控え選手。
* Un taulier(ホテル・食堂等の主人) : 代表歴が長く、ある種のオーラのあるスタメン選手。
* Une bicyclette (自転車) (または “retourné acrobatique”(アクロバティック・オーバーヘッド・キック) : 体操の後方転回(バック転)に少し似た派手な動作で、空中でボールを蹴る技のこと。
* Un petit pont (小さな橋): 対戦相手チーム選手の両脚の間に、ボールを通らせるゲーム局面。
* La lucarne(天窓) : 実際には2つある。ゴールポストとクロスバーが形成する二つの角、上隅。
* Le groupe de la mort(死のグループ) : 予選あるいは競技で、特にレベルの高いチームが集まっているグループ。
* Avoir les pieds carrés (正方形の足を持っている): ゴールやパスが極めて下手であること。
* Faire une boulette (ミートボールを作る): 重大なへまをやらかす。
* Une aile de pigeon(鳩の翼) : 後ろに上げた足で空中のボールを捉え、靴の外側側面で蹴る技。
* Le coup du sombrero (ソンブレロ・キック): ボールに、他の選手の頭上を通らせるドリブルの動作。
* Une Panenka(パネンカ) : チェコスロバキア代表選手の名前に由来する。クロスバーの内側に当たるように柔らかくペネルティー・キックを蹴り入れる技。
* Le but en or (ゴールデンゴール): match “couperet”(肉切包丁試合すなわちトーナメント戦、つまり予選以外)の延長戦での決定的ゴール。
* “La main de dieu” (「神の手」): (スペイン語 “Mano de Dios”)アルゼンチンのスター選手ディエゴ・マラドーナが、1986年のワールド・カップの際に手で入れたゴールを形容するために使用した表現。
* “GÔÔÔÔÔÔOOOAAALLLLL!!!!!” : 説明不要。
原注
*1 Pierre-Louis Basse, Séville, France-Allemagne, le match du siècle,ピエール=ルイ・バス『セビリア、フランス対ドイツ、世紀の試合』(プリヴェ出版社、2005年)を参照のこと。
*2 1941年に出版されたベルトルト・ブレヒトの戯曲『アルトロ・ウィの抑え得た興隆』のエピローグに登場する表現。この戯曲は、ヒットラーの権力征服を諷刺したものである。
訳注1le Parc des princes 文字通りには「王子たちの公園」という名前のパリのサッカー・スタジアム。ロシアから1938年にフランスに亡命したニコラ・ド・スタールはそこで1952年3月に見たフランス対スウェーデンの試合に感動し、サッカー選手を描く絵画の連作を制作した。
訳注2 前回2014年のワールド・カップの際の伊達先生による教員ブログ「遠くて近い、サッカーと宗教」にも、この優勝への言及がある。ブログの本文はこちらから。