外国語教育からみた安保法制論議の落とし穴

木村護郎クリストフ

この表題をみて、外国語教育と安全保障って何の関係があるの?と思われたにちがいありません。でも、実は意外と深い関係があるんだ、ということを考えてみたいと思います。

周知のとおり、国会で審議が行われている安全保障関連法案をめぐって、さまざまな議論がみられます。賛成派がこれらの法案を「平和安全法制」と呼ぶのに対して、反対派は「戦争法案」と呼んでいます。そして賛成派が、反対する人たちは平和ボケしていると批判すれば、反対派は、この法案は日本を戦争に巻き込むものだと反論しています。

どちら側も本気になって論争しているのですが、これらの論戦を聞いていていると、じれったさを感じてしまいます。議論がかみ合っていないことが多いからです。議論がかみあわないことは論争ではよくあることです。でもこの件で、外国語学部に務める教員としてとりわけ歯がゆさを感じるのは、このかみあわなさが日本の言語事情、とりわけ外国語教育のあり方と関係していると思えてならないからです。

賛成派は、新しい安保法制が必要な理由として安全保障をめぐる国際情勢の変化をあげ、その際、イランや中国、ロシアなどの近年の動きを主に念頭においているとのことです(北朝鮮もあがっていますが、この国が「常識外れ」なのは新しいことではありません)。そしてこういった「脅威」に対抗するためにはアメリカとの連携を強化する、というのが基本的な発想となっています。

ここにみられる、「(仮想)敵」と「味方」の単純な二分法は、見事に言語と対応しています。つまり、英語国アメリカ(やオーストラリア)は、何を考えているかわかる、透明で安心できる存在にみえるのに対して、理解できない言語を話すイランや中国、ロシアなどは何を考えているからわからない、正体不明のブラックボックスにしかみえない。だからひたすらこわい。何がなんでもアメリカにくっつきたがり、それ以外の可能性がおもいもよらないのは、言語能力の限界に裏打ちされているようにみえます。イランの核開発や中国の海洋進出、またロシアのクリミア併合は確かに国際社会の秩序をふみはず(そうと)しているように思えます。しかしそもそもこれまでの政治や経済の国際秩序はアメリカ主導で形成されてきた側面が否めません。イランや中国、ロシアなどの指導部にとっては、覇権を独占しようとするアメリカ中心の国際秩序こそ脅威にみえてきたにちがいありません。

日本やアメリカからみて異なる価値観で動いているようにみえる国の国情や政治的・社会的背景に関する理解を深めて、利害関係の妥結点を探っていく可能性を追究することが持続的な安全保障の前提ではないでしょうか。そういう努力をおろそかにして、言語文化をとおしても慣れ親しんだ、「価値観を共有」するお友達国とつるんでいれば安全だというほど、国際社会は甘くないでしょう。ただ対立をあおるようにみえる法案が「戦争法案」と批判されるのは当然です。

一方、憲法9条擁護を訴えて、「日本を戦争に参加させない」などと言っている人は、日本が戦後、朝鮮戦争をはじめいろいろな紛争に直接間接にかかわってきたことにむとんちゃくなようにもみえます。また隣国の大国化を脅威と感じたり、テロの恐れを感じたりしている人々の不安に正面から答えているようにはみえません。世界の諸問題に目をつぶって、自分たちが9条を掲げていれば安心だというのは、ドイツ語でよく使う表現で言うと、あたかも首を砂につっこんで、これで敵にやられないと思うダチョウのようにみえます。これでは、国際情勢をみていないといわれても仕方ありません。

 これは、言語的にみれば、いわば「日本語世界」にのみ生きているとみることができます。世界の平和構築にどのように寄与するのかを具体的に示さないで、日本が戦争にまきこまれないことをもっぱら主張するのであれば、ご都合主義的な一国平和主義と言われても仕方ないでしょう。

このように、安保法制をめぐる論点のかみあわなさは、「英語のみ」と「日本語のみ」という、日本社会を支配する「二重の単一言語主義」が背景にあると考えると、すっきり理解されます。といっても、英語が得意な人は今回の安保関連法案に賛成で、苦手な人は反対だというようなことが言いたいわけではありません。個々人の言語能力自体の問題というよりは、このような単一言語主義的な言説がそれぞれ、それなりの説得力をもって広がってしまうという構造的な問題があるのでは、ということです。つまり、この不毛な論争の構図は、まさに日本の外国語教育の貧困を反映していると考えることができるのです。

となると、日本語と英語以外の言語世界に目を向けることに、不毛な非難合戦から脱却して建設的な安全保障論議をする糸口があると考えられます。もちろん外国語を学べば必然的に視野が広がるというほどことは単純ではありません。しかし、隣国をはじめとする世界の言語を広く学び、理解を深めていくことこそ、まわりみちにみえて、安全保障の必要不可欠な基盤ではないでしょうか。その点、言語社会学者の鈴木孝夫の次の指摘は鋭いところをついています。

 「どうも現在の日本は、自国をとりまく外の世界から必要な情報を、偏りなく充分に蒐集する能力に欠けるところがあると言わざるを得ないのではないか。日本の対外情報蒐集の社会的なしくみのどこかに、構造的な欠陥がある。」(鈴木 1985、16頁)

鈴木はさらに、「防衛が軍事力によってのみ行われると考える所に、いまの日本の盲点があるのだ。」(同上、25頁)と述べています。

この提言がなされて30年たちますが、未だ何もかわっていないことに愕然とします。安保法制の賛成派も反対派も、日本の安全保障上のリスクを低くすることを主張しているのですが、国民の大多数が日本語のみの世界を生き、外国語教育といったらほぼ英語だけ、という現状こそがきわめてハイリスクなのです。

我田引水になりますが、上智大学外国語学部では、2012年より、「3言語×3視座によるグローバル・コンピテンシーの育成」を掲げ、「3言語(日本語、専攻語(英語学科は第2外国語)、英語)×3視座(日本発信力、地域多様性理解力、地球課題発見解決力)」を学生に習得させるプログラムを開発してきました。外国語学部の学生は、高度な外国語能力に加え、政治・経済・宗教・文化背景等に関する深い理解に裏打ちされたコミュニケーション能力を身につけて、日本語や国際語としての英語によるだけではなく、(地域言語としての英語を含む)専攻語や専攻語の通用する地域の視点から世界を展望することによって形成される「地球課題発見解決力」を備えることが求められます。安全保障も、そのような課題の一つです。

ドイツ語学科の場合、主にヨーロッパに分布するドイツ語圏は日本の安全保障と直接関係ないように見えますが、第二次世界大戦後、同じく敗戦国として出発したドイツが、隣国関係や集団安全保障や海外派兵とどのように向き合ってきたかは、日本の対処を考えるうえでおさえておきたいことの一つです。実際、これまでもゼミなどのほか、卒論、修論のテーマとしても取りあげられてきました。

外国語教育というと、安全保障とは関係ないように思えますが、そういう考え方こそが議論を袋小路に追い込んでいることを自覚し、外国語学部ならではの教育の可能性を模索したいと思います。

図:3言語×3視座
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出典:グローバル人材育成推進事業 タイプB「上智大学3言語×3視座によるグローバル・コンピテンシーの育成」
http://www.sophia.ac.jp/jpn/global/global/g_jinzai

参考
鈴木孝夫(1985)『武器としてのことば―茶の間の国際情報学』新潮選書
[『新・武器としてのことば―日本の「言語戦略」を考える』アートデイズ2008]

※この文章はいうまでもなく筆者個人の見解であり、上智大学や外国語学部、ドイツ語学科を代表するものではありません。

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