このような機会を頂いて、いかにドイツ語と関わってきたかを改めて思いなおす良いきっかけになりました。父の仕事の関係で、2歳から4歳までの幼少期をハノーファーで過ごしました。ドイツ語は全く覚えていなかったのですが、私にとっての記憶が始まったのはドイツで、記憶の開始とドイツの風景は切っても切り離せないものとなりました。ドイツ語を学びたいという願いには、原風景を取り戻したいという願望があったのかもしれません。
1. きっかけ
ドイツ語学科入学の夢がかなった途端、学習意欲はガタ落ち、インド一人旅を皮切りに、旅行ばかりしていました。しかしその旅行がドイツ語の世界へ再び私を引き入れてくれるきっかけとなりました。学部3年の春休みにヨーロッパへ一人旅をし、イタリアからの夜行列車で早朝のウィーンに着きました。ウィーンの街はまだ眠っていたので、身軽にハンガリーへ行こうとした時に人生を変える事件が起こりました。脚の間に貴重品を入れたバックを挟んで、スーツケースをコインロッカーに入れようとしたその時、脚の間からバックが抜き取られ、若者たちがラグビーボールのように私のバックをパスしながら逃げていったのです。以後の記憶がないのですが、パスポートも帰りのチケットも失った無一文の私は、雪降る中、日本大使館の前で開館を待っていました。幸い上智大学の先輩が大使館に務めており、パスポートが再発行されるまでの当座の資金を借りることができました。その間、ウィーンで一番安い教会の塔の窓のない暗い宿泊施設に泊まったのですが、寒空の中、熱を出してしまいました。夜中ミシミシ音を立てる木製の二段ベッドの上段でうなされていると、下のベッドから心地よい朗読が聞こえ、その波打つようなメロディーに夢うつつとなりました。熱が引いて声の持ち主に何を朗読していたのか尋ねたところ、インゲボルク・バッハマンの詩だと教えてくれました。いつか音楽のようなこの言語の詩を理解したいという願いは、無事にパスポートとチケットを得て、帰国した後も消えることはありませんでした。そしてその3ヶ月後の夏休み、大学を休学し、ドイツへ行くことを決心しました。コピー室で、菅野カーリン先生に、勉強をするにはもう遅いかとおずおずと(劣等生という意識がありました)尋ねました。勉強するのに遅いも早いもないという先生の答えが私を後押ししてくれました。
2. ミュンヘン大学
何の下準備もせず、スーツケース一つでミュンヘンへ飛び、ユースホステルに宿泊しながら、大学の事務へ行き、大学で勉強したいと告げると、当然ながらまずはドイツ語を勉強し、入学試験を受けるべきであると、ミュンヘン大学付属の語学学校を紹介されました。そこで半年間ドイツ語を学び直し、無事に大学に入学することができました。いつまでもユースに泊まっている訳にはいかないので、大学前の電話ボックスで片端から電話帳をひき、カトリックのシスターの寮に空き部屋を見つけることができました。入学後の基礎ゼミでルターとアリストテレスを読まされ、ヴィトゲンシュタインの授業に苦労したことを覚えています。休学期間は2年だったので、その後帰国して上智大学のドイツ文学科の大学院へ進学しました。小泉進先生のゼミに入り、アドルノの『啓蒙の弁証法』をゼミ仲間たちと議論しながら訳したことは良い思い出になっています。
3. グラーツ大学
大学院に在籍中、オーストリア政府奨学金を得ることができました。このおかげでオーストリア第二の都市グラーツの大学で、独文を志すきっかけとなったバッハマンに関する博士論文を書き、博士号を取得することができました。30歳を越えて、色々な国からやってきた学生たちと寮生活を送るのは良い経験でした。ユーゴ内戦を経験した学生たちやイランからやって来た人々と世界情勢について議論するのは日本ではできない経験でした。大学では現代オーストリア文学の専門家バルチュ教授のゼミに入り、ゼミ仲間たちと劇を観に行ったり、山小屋で合宿をしたり、とても楽しい時を過ごしました。しかし博士号を取得するまでの6年間は、今までの人生の中でも一番大変な時期でした。ドイツ語で博論を書くなんて無謀ではないかという疑念に襲われましたし、腎臓結石を患い、入院生活も送りました。中途半端に帰国する訳にもいかず、日本語から隔絶され、孤独に苛まれ、日本はどんどん遠くなって行きました。しかしこの時が止まったかのような困難な凪の時期は、最も深く、奥底へと沈み込み、同時に外の世界へと一番開かれた、人生の中でも最も貴重な時期であり、今でも私の人生の宝となっています。博士号取得後、帰国を控えて、このトランジットのような時期に終止符を打つために、出発点となったウィーンの教会の塔に15年ぶりに泊まりました。あの時にバッグが盗まれなかったら、あの時にバッハマンの詩の朗読を聞かなかったら、どんな人生を歩んでいたのだろうかと今でも考えます。
4. 近畿大学
帰国後、上智大学で非常勤講師として1年間教壇に立つことができました。その後大阪の近畿大学に勤めることになり、今年で10年目です。ドイツ語学科やドイツ文学科はないものの、所属する文芸学部は色々な芸術を学ぶ学生や様々な分野の専門家がいて、刺激的な日々を送っています。無一文になったことから開かれた独文の世界では、いまでも現代オーストリア文学を中心に研究を続けています。