3年ぶりのコロンビア訪問 —「豊かに生きる」とは
イスパニア語圏では、よく何か行動を起こす際に迷ったあげく決めるときに、「2度考える」と言ますが、今回8月のコロンビア行きは、4回以上「行くべきか」「行けるか」悩んだ末に、決めました。まだ日本帰国便搭乗前のPCR検査が義務付けられていた時期でした。足止めになったら周囲に迷惑がかかるし、原油高騰のあおりでチケットは高いし、などなどひるむ要素はたくさんありましたが、それでも「行くべし」と決断したのは、コロンビアの友人知人がいずれも「是非来て!」と言ってくれたことだけでなく、この国で史上初の左派政権が誕生するという、歴史的変化の幕開けの日を、現場で、膚で感じたいと思ったからでした。少し大げさかもしれませんが、久しぶりにフィールドワーカーの血が騒いだ、というような感覚がありました。
37度の東京を8月5日に出発し、高度2600メートル、気温6度の首都ボゴタに着いたのは8月6日の早朝でした。翌8月7日が新政権G・ペトロ大統領の就任式でしたが、朝早くから、会場の中央広場(ボリバル広場)を目指して多くの人波が目抜き通りの7番街を歩いていました(写真右)。8月7日はコロンビアにとって第二の独立記念日とも称される、「ボヤカの戦い」で勝利し、スペインからの独立を決定づけた日であり、伝統的に大統領の就任式は必ずこの日に挙行されるのです。
就任式の詳細については別の記事に書きましたのでここでは省きますが、私も友人と ボリバル広場に続くダウンタウンの道を途中まで歩いてみました。想像をはるかに超えた「民衆の祭典」の雰囲気に町全体があふれていました。過去にも大統領交代のタイミングに遭遇したことは何度かありましたが、中央広場に足を運ぶという発想すらありませんでした。それだけ警護がものものしく、その日はダウンタウンには寄り付かない、というのが定石だったからです。あまりの人混みに、就任式のあらましや新大統領の演説をきちんと聴くには、「やはり家でテレビね」ということになり、途中で引き返したものの、これまでとは全く違う、民衆とともにある就任式、という光景を目にしました。
他方で、COVID-19危機でこの地を訪れることができなかった2年間に起こった事柄は、ネット情報や遠隔セミナーで知り得たと思った事実をはるかに超えた内容でした。「見ると聞くとでは大違い」とは昔からよく言われることですが、コロンビアで、様々なことが起き、それを事後現地での語りから想像することの難しさやもどかしさを感じました。
COVID-19を原因とするだけでなく、過去に何度もインタビューに応じてくれた人権活動家や、長年の交流を続けてきたある友人も1年前に亡くなっていました。日本でもそうですが、コロンビアでも「この2年間に私たちは行動制限やパンデミック感染対策のためにずいぶんと友人、家族を含め疎遠になってしまった」、「でもこの状況は今後も続くから、関係性を回復し、お互い寄り添って生きてゆかねばならないし、そうしたい」、という発言はあちこちで耳にしました。
思えば2019年8月に、「じゃぁまた来年の今ころ、今度はもっと具体的にテーマをしぼって本調査に来ますね」と言ってそれきりになってしまったフィールドサイト。この間バーチャルで交流の機会や、SNSでのチャットのやりとりは続けてきましたが、今回地方のフィールドにも足を運ぶことができたのは本当に幸いなことでした。
左の写真はアトラト川(Río Atrato)といって、コロンビアで最も水量の豊かな川です。この中流域一体にはスペイン植民地時代に奴隷貿易によってアフリカから連れてこられた黒人の末裔が、今もアフロ系コロンビア人集落として広がっています。彼らが置かれた生活環境は国内で最貧水準にあり、独立後も、長年国家・行政サービスからは見捨てられた地域でした。近年では国内に残る武装勢力からの脅威にもさらされています。この地域を含む、コロンビアの太平洋岸地域全体(そこにすむ人々と環境を含めて)が、新政権によって注目されています。これまではひたすら地域の資源採掘への関心が優先されてきましたが、就任式の大統領演説にも、この地域の具体的な地名が読み上げられ、そこに生きる人々の生活について語られたのです。これは過去のエリート政党政治にはあり得ないことでした。副大統領に任命されたのは、この地域出身のアフロ系女性のフランシア・マルケスさんで、彼女の存在には、今後先住民やアフロ系コミュニティ、女性といった、これまで社会的排除の対象となってきた弱者集団から大きな期待が集まっています。
フランシアがキャッチフレーズとして選挙戦で使ってきたのが、アフロ系住民がよく言う「Vivir sabroso」(豊かに生きる)という言葉です。スペイン語で直訳するとSabroso(おいしい)とVivir (生きる)、つまり「美味しく食べて楽しく生きる」となってしまいますが、これは、贅沢を極めるという意味ではありません。自然の恵みを必要なだけいただき、あくせくお金のため(資本蓄積のため)だけに働くのではなく、人との関係も大切にし、お互いの尊厳を尊重し、友愛をもって豊かに生きる、そうすることで精神的にも心配事や不安がなく、また日常生活にも不足はない、豊かな気持ちで幸せに生きられるのだ、という意味がこめられています。
アトラト川を擁するチョコ県の首府キブドー市で、今年もコミュニティ支援活動を続けているNGOの宿舎で5日間を過ごしました。彼女たちとの協働生活に交ぜてもらい、質素だけれども毎日栄養バランスを考えた温かい食事をいただき、仕事のことも個々の家族やプライベートなこともおしゃべりしたあの時間に、少しだけ「Vivir sabroso」の意味が等身大でわかったような気がします。それはどんな豪華なホテルに泊まっても、得られることができない尊い時間でした。 (9月12日)