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シンポジウム「ジャウィ文書研究の可能性窶舶ヌとしてのジャウィ,橋としてのジャウィ」要旨

1. 見えない仕切りを開けて窶買Wャウィ文書研究の意義と課題窶煤@川島 緑(上智大学)

本報告の目的は,このシンポジウムの基調報告として,東南アジア研究にとってのジャウィ文書の重要性を検討し,それを研究に利用する際の問題点を指摘しつつ,今後の研究の方向性を示すことである(「趣旨説明」も参照されたい).

東南アジア研究において,ジャウィ文書の利用は次の3つの点で重要である.第一は,東南アジア各地の個別の地域社会を,より多面的に検討し,より深く理解するための資料として,第二は,地域社会相互のつながりを明らかにする資料として,第三は,東南アジアと中東,南アジアなどとのつながりを研究するための資料として,である.

ジャウィ資料を用いた研究はマレー語圏の歴史,文学の分野に集中しており,他の時代や分野,および,非マレー語圏に関する研究は概して不十分である.ジャウィ文書には,(1) ローマ字など他の文字表記を知らなかった人が書いた文書,(2) 他の文字表記を知っていた人が,ジャウィしか読めない人に向けて書いた文書,(3) 他の文字表記を知っていたにもかかわらず,自分たちの文化の独自性を主張するためにジャウィで書いた文書がある.ジャウィ文書は,これらの人々が何を考え,どのように世界を見ていたかを検討するために不可欠な一次資料である.別の言い方をすれば,ジャウィ文書を除外した研究は,これらの人々を無視,あるいは,軽視した研究といえる.したがって,他の資料とともにジャウィ文書を積極的に利用することにより,東南アジア研究の様々な分野において,これまでの研究の歪みを正し,新たな展望を開くことが期待できる.特に実り多い成果が期待できる研究テーマとしては,イスラーム思想,イスラーム運動,民衆イスラーム,政治思想,ナショナリズム,政治的アイデンティティなどをあげることができる.

ジャウィ文書の利用が進まない最大の要因は,研究者の関心の不足にある.欧米,日本,東南アジアにおける社会科学研究は,概して西洋近代への志向性が強く,ジャウィ文書が伝える思想やその背後にある精神世界を後進的なものとみなし,資料的価値を軽視してきた.多くの東南アジア研究者は,特殊な分野を除けば,ジャウィ文書は苦労して文字を学んでまで読むに値せず,せいぜい骨董趣味的な関心の対象でしかないとみてきたのではなかろうか.第二の要因は研究基盤が整備されていない点である.研究工具類に関する体系的な情報入手が困難で,個別に手探りで研究を行わざるを得ず,ジャウィ資料を読みこなせる研究者の数も非常に少ない.国や専門分野をこえた研究者間の協力体制も不十分である.従って,今後ジャウィ文書研究を大きく発展させるためには,東南アジア研究者の間で国別,分野別の「仕切り」をこえた研究協力体制を確立し,さらに,中東や南アジアなど,他地域の研究者とも協力関係を築き,同時に研究基盤を整備する必要がある.

だが,それだけでは十分ではない.ジャウィ資料の利用にあたってもっとも重要なのは,その用い方である.当該社会におけるジャウィ文書の位置づけやジャウィ使用の意味を明らかにせず,やみくもにジャウィ文書を収集し「解読」してもあまり意味はない. ジャウィ文書は外部の権力による破壊,強奪の対象となった.先祖からジャウィ文書を継承し保存する現地社会の人々が,ジャウィ文書を収集し利用しようとする外部の人間に対し,警戒心や不信感を抱く場合も少なくない.研究の倫理性や,現地の人々との信頼関係,現地研究者との協力体制が重要であることは,あらゆる研究について指摘できることだが,上記の経緯を考慮すると,ジャウィ文書研究においては特に,これらの点に関して自覚を持って振舞う必要がある.

東南アジアの様々な時代や地域に生きる人々にとって,ジャウィはどんな意味を持つのだろうか.何かとの関係を隔てる「壁」なのか,それとも何かとつながる「橋」なのか.隔てられる「何か」,つながろうとする「何か」とは何か.他の報告者や参加者とともに考えてみたい.

2. マレー語圏におけるジャウィの概念:表記法としてのジャウィ,人のカテゴリー としてのジャウィ 西尾 寛治(東京女子大学)

「ジャウィ」(Jawi)の語源については諸説ある.例えば,「混合」説(T. S. ラッフルズ),「スマトラ」説(G. H. ウェルンドリ,W. マルスデン),「東南アジア出身のムスリム巡礼者」説(W. ロビンソン)などの説がイギリス人やオランダ人によって提出されている.しかし,近世以降の東南アジア史のコンテキストでもっとも注目されるのは,この語が,「アラビア文字を応用したマレー(ムラユ)語の表記法」を意味したこと,また「東南アジア在住のムスリムあるいはその一部」の呼称として用いられたことであろう.バハサ・ジャウィは前者の用例である.他方,後者の用例としては,マスッ(ク)・ジャウィ(ジャウィになる),ジャウィ・プカン(町のジャウィ),ジャウィ・プラナカン(混血のジャウィ)などが挙げられる.

この報告の目的は,そうした2つのジャウィの用法窶披€煤u表記法としてのジャウィ」と「人のカテゴリーとしてのジャウィ」窶披€狽ノ注目し,近世から近代にかけての東南アジア島嶼部の歴史の展開を論じることにある.そのうち,「表記法としてのジャウィ」については,近世を主な考察対象とする.そして,マレー語が交易のみならず外交及び宗教上の共通語として機能していたことを指摘したい.また,ジャウィが地域世界の形成に重要な役割を果たしていたことを示したい.一方,「人のカテゴリーとしてのジャウィ」については,近世から近代までを考察対象とし,この間に人のカテゴリーとしてのジャウィの概念に変容が生じたことを明らかにしたい.このジャウィ概念の変容とは,次の2つの点をさす.すなわち,第1点はジャウィがマレー人に置き換わったことであり,第2点はジャウィが在地民から外来の移住者をさす民族的なカテゴリーへと変化したことである.以上を明らかにした上で,外来の移住者としてのジャウィが,表記法としてのジャウィや地域世界とどのように関わっていたのかという点についても検討してみたい.

なお,報告では,ジャウィの異なるものを結びつける役割,つまりジャウィの橋としての側面を主に論じることになろう.

3. 植民地支配下のジャウィ研究窶迫沫フ東インドおよび英領マラヤを事例として 國谷 徹(東京大学大学院)

イギリスおよびオランダによる植民地支配は,東南アジア島嶼部における文字使用状況に大きな変化をもたらした.植民地時代以後のローマ字表記の普及については多くの研究がある一方で,植民地支配者たちがジャウィについてどのような扱いをしていたのかは良く分かっていない.本報告では,イギリス・オランダのオリエンタリストたちの幾つかの著作を取り上げ,彼らがジャウィについてどのような認識を持っていたのかを分析してみたい.報告の目的はあくまで植民地支配者側のジャウィに対する認識を分析することであり,実際の社会における文字使用状況についての考察は本報告では行わない.

オリエンタリストたちが行ったこととして,まずジャウィで書かれた様々な文書の分類・カテゴリー化が挙げられる.ジャウィ文書は,歴史書,文学作品,民間伝承,慣習法といった諸カテゴリーに分類された上で研究の対象とされた.これらの諸カテゴリーは基本的に西洋の学問的基準に基づいたものであり,しかも,分類はしばしば,個々のジャウィ文書が現地社会において本来どのようなものとして認識されていたのか,という問題を考慮することなしに行われた.例えば,オリエンタリストたちは様々な詩の形式を収集し分類したが,それらのテクスト群を詩というカテゴリーにまとめてしまうことの妥当性については,しばしば論じられないままであった.

一方で,実際に現地社会で使用されていたジャウィ(主としてイスラーム教育における使用と,植民地の末端行政における使用とが考えられる)に対しては,オリエンタリストたちは相対的にわずかな関心しか向けていない.1878年にイギリス海峡植民地政府が行政上の必要からジャウィをローマ字に転写するための規則を制定したとき,W.E.Maxwellはこの転写規則をRoyal Asiatic Societyにおいても採用するという提案に反対し,転写規則は「マレーの文字の綴りを正確に再現し」かつ「英語話者をして発音の正確な再現を可能ならしめる」ものでなければならない,と主張した.ここでは,現地社会におけるジャウィの綴り方がそもそも統一されていないという事実,ジャウィの綴り方が状況に適応して時とともに変化していく可能性,といった問題は初めから考慮の外に置かれている.

本報告はオリエンタリスト的言説の中でのジャウィの位置付けに関するごく基礎的な分析を試みたものであり,もとより明確な結論を出し得るものではない.しかし,以上に述べたようなオリエンタリストたちによるジャウィ文書の分類・カテゴリー化=対象化・固定化は,現在の東南アジア研究者のジャウィ文書に対する認識にも様々な影響を与えているように思われる.それらの見直しを行うことは,ジャウィ研究における重要な問題ではないだろうか.

4. 西スマトラのジャウィ文書-20世紀前半のイスラーム関連出版物から 服部美奈(岐阜聖徳学園大学)

本報告は,20世紀初頭に始まるイスラーム改革運動のなかで新しいメディアとして現われたイスラーム雑誌とその運動を担ったウラマーの著作を分析することを通して,蘭領東インド期の西スマトラにおいてジャウィがどのような形で使用され,またなぜジャウィが文字表記として適用されたのかを考察することを目的としている.20世紀前半という時期の設定は,西スマトラでジャウィ表記からローマ字表記への転換がこの時期に起こり,ジャウィ表記とローマ字表記が混在する時期を経て,のちにジャウィ表記の使用が西スマトラにおいて衰退したためである.

分析の対象は,第一に1911年から1940年までに出版されたイスラーム雑誌36誌であるが,その発行時期により前期(1911~1920年)と後期(1921~1940年)に分け,それぞれの時期における文字の使用状況および教育普及・識字の状況を背景に踏まえつつ,両時期のイスラーム雑誌の内容とジャウィ表記使用の傾向を考察する.第二にイスラーム改革運動の主要な担い手の一人であったアブドゥル・カリム・アムルッラー(Abdul Karim Amrullah: 1879-1945)が残したジャウィによる著作を考察する.なお西スマトラでは,特にアラビア文字表記マレー語あるいはアラビア文字表記ミナンカバウ語を「ジャウィ(Jawi)」と呼ばず,その表記方法を指して「アラブ・ムラユ(Arab-Melayu)」といわれるのが一般的であるが,ここではジャウィあるいはジャウィ表記とする.

イスラーム雑誌発行の初期段階である1911年から1920年には,1911年発行の『アル・ムニール』をはじめ,9誌のイスラーム雑誌が発行されたが,どの雑誌もジャウィ表記が用いられており,うち8誌は20世紀に入って設立された近代的イスラーム学校を基盤にしている.書き手と読み手の教育的背景からジャウィ表記使用の意味を考えると,1911年から1920年に出版された雑誌の編者たちは,19世紀後半にミナンカバウで教育を受け,その後メッカでイスラーム学の研鑚に励んだ世代であり,ミナンカバウでは伝統的なスラウでのみ教育を受けている人が大勢を占める.また啓蒙を目的とした雑誌の読み手は,若い世代だけではなく中堅世代,特に批判の対象とされた伝統的スラウのウラマーたちを対象にしていた.これらの雑誌は,タレカット批判や慣習批判と共にイスラーム改革思想の普及と啓蒙を目的としており,より広い読者層の獲得のためジャウィを使用したと考えられる.またイスラームを論ずる場合,特に留学を経験したウラマーにとってアラビア語を翻訳・注釈する際にジャウィ表記を使用する利便性が高かった.たとえば,アブドゥル・カリム・アムルッラーの著作の大半はジャウィ表記が用いられている.一方,1921年から1940年に発行された27誌のイスラーム雑誌のうち,明らかにジャウィ表記が用いられているものは3誌にとどまり,他1誌はアラビア語によって書かれている.つまり,この時期にはイスラーム雑誌においてもローマ字表記の使用がジャウィ表記を陵駕し始める.1921年以降に発行された雑誌の編者たちは,近代的イスラーム学校で学んだ世代を含むようになっており,彼らが基盤とする近代的イスラーム学校では宗教科目に加え一般科目の教授およびローマ字の導入が始まったこと,さらに特に倫理政策以降の村落学校の普及によるローマ字表記の浸透がイスラーム雑誌におけるローマ字表記増加の背景として考えられる.

5. ジャワ社会におけるペゴン使用の意味 菅原由美(東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所 共同研究員)

ペゴン(pegon)とは,アラビア文字表記のジャワ語を指す.ジャワでは,アラビア文字流入前に,インド起源のジャワ文字の伝統が存在し,ジャワ文字が王宮を中心に非常に長い間,用いられてきたために,16世紀頃,イスラームの浸透とともに,アラビア文字が流入した後も,アラビア文字がジャワ文字を駆逐することなく,王宮ではジャワ文字が主に使用され,プサントレン(イスラーム寄宿塾)ではアラビア文字が使用されるという並列状態が続いた.17-18世紀には,ジャワ北海岸でパシシル文化が隆盛し,マレーから伝わった預言者や聖人の物語等がペゴンで記述された.しかし,ピジョー(Pigeaud)によれば,19世紀のスラカルタ・ルネッサンスによって,ジャワ文字を用いたジャワ文学が復興したために,アラビア文字の利用は減少したとされており,また,20世紀初頭には,イスラーム改革運動の時流により,アラビア文字の再評価がなされながらも,同時に,植民地政府による,初等教育を通して,ラテン文字(ローマ字)表記がインドネシアを席巻し始めたため,アラビア文字はジャワにおいて,主要な表記とはなり得なかった.

現在,オランダやインドネシアの図書館・文書館に所蔵されているペゴン史料は,数の上から見た場合,ジャワ文字史料に圧倒されており,一般に,ペゴンはコーランやアラビア語テキストに書き添えるジャワ語訳や解説にしか用いられていないと理解されがちである.

しかし,上記のコレクションを見ると,ジャワ文字に圧倒されたとされる19世紀にも,むしろペゴン文書は多く執筆されていることがわかる.これは,一つには,ジャワ各地で,この時期に増加した様々なタイプのイスラーム宗教運動において,運動の指導者によって執筆されたテキストは,ペゴンで記されていたためであった.アフマッド・リファイのように,民衆に教育を与えようとしてイスラームの教科書を書く場合もあれば,神秘主義の教師が予言書を書く場合もあった.また,もう一つの理由としては,ジャワ文字ですでに書かれていたアラビアやペルシャ起源の文学を,中部ジャワの王宮において,ペゴンで書き直す作業が多くなされたためであった.このような二種類の執筆活動から,19世紀にジャワ人が「ペゴンを用いて書いた」ことの意味を考えたい.

6. ジャウィ誌『カラム』から見た1950年代のマレー・イスラム圏 山本博之(東京大学)

1950年代は,マレー・イスラム圏(マレー語とイスラム教が社会に重要な影響を与えている地域)の人々が,日本占領期を経て自治のあり方に大きな関心を寄せた時期であった.それは,1945年に独立を宣言し,オランダとの独立戦争を経て1950年に単一の共和国を樹立したインドネシアだけでなく,1948年に英連邦内の保護国となって独立の道を模索していたマラヤでも同様であった.両地域では1950年代に入ると議会制民主主義への移行が進められ,マラヤでは1955年7月に,インドネシアでは1955年9月にそれぞれ初の総選挙が実施された. 両地域の住民の多数派を占めるムスリム住民は,それぞれ政党を結成してこの総選挙に臨んだ.その結果,マラヤでは,世俗主義的マレー人政党UMNOおよびイスラム政党PASを通じた議会制民主主義の枠内での異議申し立てが制度化され,現在に至っている.これに対しインドネシアでは,四大政党の一角を占めたマシュミ党をはじめとするイスラム諸政党が総選挙で一定の議席を獲得したものの,1956年になると各地で独自の支配圏を打ち立てる動きが起こり,1957年にはこれらの動きが連動して中央政府に対する全国的な反乱に発展した.歴史的に一体の存在としての経験が長く,社会的にも共通の要素が多いにもかかわらず,なぜインドネシアとマラヤのムスリム住民は大きく異なる政治参加の道を辿ったのか.

この問いに答えるにはさまざまな角度からの研究が必要であり,本報告ではその一部を検討することしかできないが,その際に,両地域を比較する視点だけでなく,両地域のムスリム住民が相互に影響を与えていたという視点も重視したい.そこで本報告では,1950年代にシンガポールで発行されていたジャウィ誌『カラム』をとりあげ,同誌がマラヤとインドネシアの総選挙前後の政治過程をどのように見ていたのかを,その創刊者で主筆でもあるアフマド・ルトフィの連載記事をもとに検討する.

『カラム』は,1950年の創刊から1969年に停刊するまでの20年間にわたり,国境や民族を超えてマレー・イスラム圏のムスリム住民に読まれていたジャウィ表記のマレー語月刊誌である.創刊者のアフマド・ルトフィはカリマンタンのバンジャルマシンで生まれ育ったアラブ人ムスリムであり,シンガポールに移民して出版業界に入り,『カラム』誌を創刊した.

アフマド・ルトフィは,インドネシアの総選挙後の政治状況を観察する中で,元来は宗教共同体を指すアラビア語起源の「ウマット」に別の意味を与え,伸縮自在かつ接合分離が可能な人間集団としての独自のウマット概念を作り出した.それは,国民と宗教共同体の特徴を併せ持ち,それぞれの長所を柔軟に発現しうる概念であった.本報告では,アフマド・ルトフィのウマット概念を整理し,それがマラヤ社会を見る際にどのような意味を持ちうるのかを検討したい.また,アフマド・ルトフィがこのようなウマット概念を作り出した背景を検討することを通じて,アフマド・ルトフィが『カラム』に込めていたであろう「壁として」の役割と「橋として」の役割についても考えたい.