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第15回研究会報告

日時:2002年11月9日 (土) 11:00-21:30
場所:上智大学四ッ谷キャンパス図書館9階911号室
出席者:13名

1. ジャウィ誌「カラム」記事講読

テキスト提供者:山本博之 (東京大学),レジュメ作成担当者:西 芳実 (東京大学大学院)

ジャウィ誌「カラム」1955年2月号に掲載された記事をとりあげた.この記事は,西スマトラのイスラーム知識人,ハムカの文章を引用しながら,1920年代末にエジプトで結成された「ムスリム同胞団」の理念が世界各地のムスリムに影響を与えていると論じている.インドネシアのイスラーム政党について言及すると同時に,タイ,フィリピン,ビルマにおけるムスリム指導者にも言及し,彼らを「ムスリム同胞団」の理念の継承者として位置づけている.東南アジアのムスリム指導者が,どのように各地のイスラーム運動についての情報を得,解釈していたかを示す貴重な資料である.<川島 緑>

2. 植民地支配下のジャウィ研究窶迫沫フ東インドおよび英領マラヤを事例として窶爆谷 徹 (東京大学大学院)

(本報告の要旨はシンポジウム要旨を参照)

3. ジャワ社会におけるペゴン使用の意味 菅原由美 (東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所共同研究員)

本報告では,ジャワ社会におけるペゴン使用の意味について,ペゴン使用の歴史的変遷と,ペゴンによって書かれた作品の分類と内容を分析することを通して考察がなされた.発表者からはまず,ペゴン (pegon) は元来,「純粋なジャワ方式ではない」あるいは「ねじれた,斜めの」という意味をもつが,現在はジャワ語のアラビア文字表記という意味で使用されることについて説明があった.

発表では第一に,ペゴンが王宮とイスラームの関係を軸にしたジャワ社会の歴史的変遷のなかでどのように使用されてきたかについて分析がなされた.ペゴンは16世紀のジャワ社会へのイスラームの浸透により使用されるようになったが,アラビア文字がジャワ文字を完全に排除したわけではなく,結果的に王宮とプサントレンでは文字の使い分けがみられた.その後,17~18世紀にパシシル文化が隆盛したが,18~19世紀にはスラカルタ・ルネッサンスによってジャワ文字が復興した.しかし,ジャワ文字の復興によってペゴンの使用が衰退したのではなく,逆にペゴンを用いた作品が増加する現象がみられた.ペゴンを用いた作品の増加は,①ジャワ文字で書かれていた作品がペゴンでも書かれるようになったこと,②プサントレンの増加と宗教運動の隆盛,を背景としている.

次に,ペゴンによって書かれた作品の分類について説明がなされた.発表者は,ペゴンによって書かれた作品を,①アラビア語文献のジャワ語翻訳・行間の逐語訳・解説,②スルック (Suluk),③プリンボン (Primbon),④タレカットの知識,⑤宗教書・韻文,⑥宗教文学・プサントレン文学,⑦訓告・道徳,⑧地方の歴史・発祥伝説,の8種類に分類し,そのそれぞれについて解説が加えられた.特に,⑥宗教文学・プサントレン文学は,アラブ起源の文学がマレー語版に翻訳されたのち,ジャワ独自のストーリーが付与されジャワ語版の韻文として発達したものであるが,19世紀にジャワ文字版がさらにアラビア文字版でも書かれる現象がみられた.発表者は,ジャワ文字で書かれた作品がペゴンに書き直された理由として,ウッドワードの仮説に依拠しつつ,①王宮はイスラームを排除しようとしたのではなく統合しようとし,ペゴンがイスラーム性を強調する文字として適用されたのではないか,つまり,王宮も自らがイスラームであるという主張をする必要があったのではないか,②オランダの関与があったのではないか,と推測した.

出席者からは,ジャワ文字で書かれたものがペゴンで書き直された理由として,イスラーム化というより,むしろ大衆化にアラビア文字が一定の役割を果たしたのではないか,ジャワ文字を知る人は限定されていたため文字を学ぶのであればペゴンしかなかったのではないか,などの意見が出された.また,ジャワ文字とペゴンを誰が使用していたのか,つまり文字を使っている人の文化的背景がわかればジャワ社会におけるペゴン使用の意味がより明確になるのではないか,などの意見が出された.<服部美奈>

4. Devastation and Revitalization of Tanah Tidung, or Coastal Northeast Borneo (19-20C): An Ethno-historical Reconstruction from Written and Oral Resources of East Kalimantan and Sabah (ボルネオ北東岸の無人化と再移住) 奥島美夏 (神田外語大学)

ボルネオ (カリマンタン) 島北東部窶伯サマレシ-ア・サバ州東部の,特にキナバタンガン流域以南から,パシール,クタイ王国以北のインドネシア・東カリマンタン州窶狽ェ,地域を統括する強大政権をもたない政治的緩衝地帯であったことは,その宗主権を主張していた周辺諸スルタネイト (ブルネイ,スールー,バンジャルマシン),またそれらのスルタネイトからそれぞれこの地域を割譲されたオランダ・イギリス植民地政府の争いなどによってしられている (Irwin 1955; Black 1985).実際のところ,この地域には外島マレー民や西欧勢にも注目された現地の主要グループがいくつかあった.なかでもスールーやスペインに恐れられたティルンTirun (現地ではティドンTidung, Tidong) や,オランダのみでなくイギリス領でも首狩と戦闘能力で知られたセガイSegai (Kayan, Modang, Ga'ai etc.) などは,周辺民にも影響力をもち,交易品となる林産資源の採集や集荷を掌握していた (Majul 1973; Loyre 1997; Belcher 1848; Spaan 1902; Warchlen 1907; Tromp 1897; Warren 1985).だが,彼らの大半はイスラム教徒でなく「スルタン」の称号も持たなかったために,通商条約を結ぶ相手とはみなされず,したがってブラウ,ブルンガンなどのスルタンから請け負う形でスールー,ブギスなどが対外交易を掌握していた.この構造は,19世紀以降激化したセガイの首狩・林産物略奪などによってボルネオ北東岸のいくつかの地域が過疎化し,マレー商人の活動が下火になるまで続いた (Warren 1985).

この過疎化と民族勢力再編の時代について書かれたジャウィ文書がある.15枚からなるこの手稿は1918年ごろ,現東カリマンタン州スブク流域のティドンの指導者Pengeran Anumによって語られ,弟の孫にあたるAbdul Karimが筆記したものである.もともとボルネオ北東部では地域の紛争調停の際に民族移動史や戦争にまつわる口頭伝承を参照し,誰がどのような正当性を持つかを確認することが多く,特にオランダ領では植民地時代以降にも,伝承をジャウィまたはアルファベットで成文化して政府の承認印を受け,そのまま土地や林産物採集の権利書・許可書 (surat keturangan, surat peringatan etc.) として用いていた.Pengeran Anumによる文書窶狽アこでは仮にスブク文書とする窶狽焉C今日文書を保管している子孫たちによれば,先祖から受け継いだ燕巣の洞窟の権利を確保するために作成されたといわれ,1953年にはヌヌカン島の市役所印を受けている.内容は,まずPengeran Anumのもつ燕巣採集権の正当性,すなわち代々スブクの貴族であった先祖の系譜と,セガイの攻撃によるスブク・ティドンの四散からはじまる.語り手の祖父の一族は親族関係のあるタラカン島のスルタンのもとへ移住した.そして約50年後のヒジュラ暦1265年 (西暦1848-49年) に,Pengeran Anumが一族を率いてすでにブルンガン・スルタネイト下にはいった故郷へ戻り,多大な努力と代償を払って内陸の交易網を再建してゆく経緯が語られる.この当時までにすでにイスラム化していたティドンがスルタンや内陸の非イスラム民との同盟や取引をまとめたり,他のティドンの一派と採集権の正当性をめぐって争うプロセスも描かれており,貴重な資料となっている.

しかし,スブク文書はいくつかのより重要な点を示唆している.まず,ボルネオ北東岸の過疎化の背景には,セガイの無差別攻撃のみでなく,その軍隊を指揮するブルンガンのスルタンの存在があった.また,セガイに攻められる以前のスブク各地のティドン村落はそれぞれの首長(王)を冠し,各村が管理する燕巣洞窟は元来ブルンガン・スルタンではなくその首長たちが直接所有していた.これらのくだりから,西欧の記録では18世紀後半から台頭したといわれるブルンガン・スルタネイトが,この時期に周辺地域に勢力を広げつつあったことがうかがわれる.特に過疎化が著しかったキナバタンガン,スブク,スカタッなどの河川流域は,こうした新興スルタネイトや植民地政府の脅威であったために討伐された可能性も考えられる.

さらに,この文書を同じ地域内の口頭伝承 (筆者自身の現地調査データを含む)や西欧側の記録とクロス・チェックしてゆくと興味深い結果が得られる.1848年から派遣されたオランダ視察団によれば,おそらくスブク文書の当事者たちと思われるタラカン島からの移住者たちが1849年にスブク河口に仮村を建てたが,その後ブルンガンのスルタンが他の場所へ移したという (Dewall 1855).この当時,スルタンは交易活性化のために,海賊行為を働いたり外島商人の邪魔になりそうなティドンの下位グループのいくつかを掃討している (ibid.).また,タラカンは農業によって地力が低下しており,スブク以外の地域にも多くの島民が移住していたという (ibid.).したがって,過疎化地域の再建は19世紀半ばに一部はじまっていたが,首狩・海賊行為の鎮圧によって住民たちが帰郷するという単純ないきさつばかりではなかったことがわかる.

タラカンを海賊の巣窟と記述するオランダの資料と対照的に,ボルネオ北東沿岸部のティドンは全般にタラカンを過去における政治的・文化的中心地のひとつとみなしている.タラカン・スルタネイトの伝承によると,ブルンガン・スルタネイトの始祖はブルンガン (現カヤン) 河流域に進出したタラカン王族であったが,当地のコロニーでセガイなど他の現地民やスールー貴族との通婚が進むにつれ,ティドンではなくブルンガン族としてのアイデンティティを主張するようになり,やがて独立を宣言する.その後しばらく両スルタネイトの間では戦争が続くが,次第に林産資源と内陸民の労働力を後背地にかかえたブルンガンが優勢となった.このブルンガン王族の系譜には,隣国ブラウのスルタンとの血縁を通じてセガイを動かしスブクを含むタラカン-スンポルナ間の広範囲にわたる地域を荒廃させた,上述のスルタンの名前もみられる (Amir Hamzah 1998).その他の地域のティドンたちによる口頭伝承からも,この当時いくつかの主要ティドン勢力の間で覇権争いがくり返されていたことがわかる (Okushima 1998; Sellato 2001).すなわち,ボルネオ北東岸の過疎化と再建は,地方政権の移行にともなう民族分布図の塗り替えという,より大きな流れの中でおこっていたのだ.

植民地政府その他によるタラカンの弾圧と衰退は,ボルネオ北東岸に広く分布していたティドンの一部に「ブルンガン」「ブラウ」といった新たなアイデンティティを創出させる一因となったと思われる.ブルンガン・スルタンの子孫たちはタラカン伝承のように,ティドンではなくセガイ (カヤン系言語族) の系譜や起源神話をルーツとして記憶しており (Okushima 1998; Beech 1908,Akbarsyah 1997も参照のこと),またブルンガンのカヤン系民も他のダヤク諸グループよりステイタスが高いとされる.内陸部での戦争の鎮圧や交易品の採集にももっぱらカヤン系民が活躍したと語られている.ただし,スルタネイトの母体とみなされる諸民族の中には,カヤン系民より古くからの地元民であるティドンなども含まれており,ブルンガン・マレー語も圧倒的にティドン語に近い.また,スルタンの末裔もカヤン系民も,スールー (タオスグ) とバジャウ (サマ) の連合軍がボルネオ北東部を悩ませた時代には,各地のカヤン系民は潮の干満などの海洋知識がないために苦戦し,海戦の得意なティドンや他のイスラム教徒の軍を頼ったことを認めている (Kaskija 1992; Okushima 1998).

ブルンガンよりはるかに古いブラウ・スルタネイトの名が,かつてボルネオ北東岸全体を漠然と指す名称であったらしいことは西欧にも知られている (Hageman 1855; Dewall 1855; Irwin 1955).タラカン伝承によれば,ブラウはティドンの伝説的王ブラユッ (またはブナユッ)に由来する.北東岸の大半のティドンに知られたこの王は,現在のブラウ河ではなくスブク河口に住んでおり,タラカン王族の始祖の5世代上にあたる.タラカン王族がイスラム化するはるか以前の時代,ブラユッ王国はクタイ王国まで勢力範囲を広げ,滅びたのちも子孫がタラカン,ブラウ,ブルンガンなど各地に新たな王国を作ったという (Amir Hamzah 1998).他方,ブラウ王族の伝承では名の由来は不詳だが,やはり古名はブラユともいい,スルタネイトの母体となった7つの民族の1つはブラウ沿岸部からキナバタンガン流域までをテリトリーとしていたという (Noor 1991, 1996).7つの民族にティドンが含まれているどうかは不明で,これらの民族が統合された際に選ばれた新王は内陸の狩猟採集民の出身であったとされる.しかし,西欧の記録にはブラウの住民をTedongと記したものもあり (Forrest 1779; Leyden 1814),少なくともティドンがブラウ,ブルンガンにかけて広く散在していた時代があり,彼らの祖先であるブラユないしブラユッが彼らの居住区域を指す代名詞として用いられた可能性を裏付けている.またその動機としては,ブラウ王国の母体が統合された際に,由緒ある王の子孫であることを記念してその名を新たな国または民族名としたか,タラカンその他の同族との競合過程で自らの王権の正統性を強調するために用いた可能性などが考えられる.その後スルタネイトが外島マレー貴族との通婚などによって二分立すると,遷都ごとに両スルタネイトは移住先の地名でも呼ばれるようになり,ブラウはもっぱらブラウ流域をさす名称となる.

以上のジャウィ文書その他の現地データから,ボルネオ北東岸の過疎化とそれらの地域への再移住は,競合する外島勢力の進出に対する,現地の民族勢力圏再編というレスポンスの一環であったことがわかる.スルタンを名乗り植民地政府を受け入れたことでブルンガンやブラウは地方の支配者となり,イスラム化しなかった同族たちや,林産資源を採集する後背地を確保できなかったタラカン,その他の沿岸島嶼部の小王国は,野蛮な内陸民ダヤクとして次第にスルタネイト内部に組み込まれ,あるいは海賊として一掃されていった.この他にもまだ,研究者によって「発見」されていないジャウィ文書がいくつか土地の継承者や郷土史家のもとに保管されており,未収録のおびただしい口頭伝承とともに解読・分析される機会を待っている.外島勢力による記録のみからはわかりえない,さまざまなレベルでの現地勢力による「弱いヴァージョン」の地方史観をも解明することによって,東南アジア島嶼部の特に文字資料の少ない地域にさらなる研究の可能性がもたされることを願いたい.<奥島美夏>