small header

シンポジウム「ジャウィ文書研究の可能性窶舶ヌとしてのジャウィ,橋としてのジャウィ窶煤v報告

日時:2002年12月1日 (日) 9:30-12:30
場所:岡山大学文学部(津島キャンパス)文・法・経1号館3F文学部会議室

東南アジア史学会第68回研究大会・自由企画シンポジウム
ジャウィ文書研究の可能性窶舶ヌとしてのジャウィ,橋としてのジャウィ窶・

2002年12月1日,岡山大学において,東南アジア史学会第68回研究大会の自由企画シンポジウムとして,「ジャウィ文書研究の可能性:壁としてのジャウィ,橋としてのジャウィ」が行われた.2001年から活動を開始したジャウィ文書研究会にとってはこれまでの成果をまとめた中間報告ともいえるシンポジウムであった.会場となった部屋は追加の椅子を必要とするほどの盛況ぶりであった.また,報告だけでなく,これまでのニューズレターの充実ぶりにも好評を受けた.

シンポジウムでは,川島緑の「見えない仕切りを開けて:ジャウィ文書研究の意義と課題」を皮切りに,西尾寛治「マレー語圏におけるジャウィの概念」,国谷徹「植民地支配下のジャウィ研究:蘭領東インドおよび英領マラヤを事例として」,服部美奈「西スマトラのジャウィ文書:20世紀前半のイスラーム関連出版物から」,菅原由美「ジャワ社会におけるペゴン使用の意味」,山本博之「ジャウィ誌『カラム』から見た1950年代のマレー・イスラム圏」の計6本の報告が行われた.これらの報告は,いずれも各報告者が自らの専門に即して行ったものだが,期せずして,ジャウィ文書の社会における位置づけやジャウィのある社会の特質,ジャウィがあったことの意味などが,時代ごとに描かれ,全体としてよく構成されていた.

以下に,各報告の内容を順に紹介しながら,そこに示されたジャウィ文書研究の意義と可能性を見ていきたい.

まず,川島緑が趣旨説明をかね,ジャウィをめぐる研究状況について簡単な説明を行った.これまでジャウィ文書はもっぱらマレー王朝やマレー文学を扱う前近代史研究の資料として利用されてきた.しかし,ジャウィは,マレー語,さらにそのほかの現地語の表記方法の一つとして現在にいたるまで東南アジア海域世界の人々に使われてきたもので,前近代の他の分野や,近現代史研究においても重要な資料である.ジャウィがなぜ関心を向けられなかったのかという問題は,ジャウィがアラビア文字であることからジャウィ文書がともすれば宗教と密接な関係にあると見なされてきたことと関連性があるという指摘は,普遍原理の探求や近代化の過程に研究者の関心が集中し,宗教に関する議論,特にイスラム教に関する議論への関心が低い近現代史研究の問題点をも指摘したものといえるだろう.また,ジャウィをアラビア文字という外来の文字を用いた表記方法として理解するのではなく,東南アジア海域世界に固有の表記方法であるとする考え方は,外来の文物・思想の移入を,起源からではなく実際の用いられ方から理解しようとする考え方に通じるものである.

西尾は,ジャウィを通じて書き言葉としてのマレー語が確立されたことがマレー世界の形成と発展を促した側面を指摘した.アラビア文字を応用して作られたジャウィは,母音をほとんど表記せずに子音によって表記する.このため,話し言葉では母音の違いとして現われるマレー語の方言差が,ジャウィ表記のマレー語では表面化しない.これは,話し言葉のマレー語を共有しない人々のあいだでマレー語を共有することが可能であることを意味する.ジャウィのこのような特質は,ジャウィ文書研究会の各参加者によって収集されたジャウィ表記の事例をもとに奥島美夏氏がまとめたシンポジウム参考資料「東南アジア諸言語のジャウィ表記の比較」からも見て取ることができる.また,西尾は,東南アジアにジャウィをもたらした人々としてアラブ・中東地域やインド出身のムスリム商人や宗教学者の存在に注目した.アラビア語とマレー語の双方を駆使するこうした人々の存在が,インドやアラブ・中東地域とマレー世界を媒介すると同時に,マレー世界の人々を互いに結びつける役割も果たした.

一口にマレー世界と言っても,その内実は多様な地域から構成される.マレー語を通して外部の世界と関係を結びつつ,地域社会の中では別の言語が用いられている場合も多い.そうした社会では,言語や文字が多重的に存在することになる.菅原は,19世紀のジャワを例にとり,複数の文字や言語がある種の序列をもって並存している状況を明らかにした.ジャワでは,アラビア語,マレー語,ジャワ語という3つの言語と,アラビア文字,ジャワ文字という2つの文字が状況に応じて使い分けられていた.菅原は,こうした言語状況の中で起こった2つの動きに注目した.第一は,アラビア語の宗教書をアラビア文字のジャワ語に翻訳する一部のプサントレンの動きである.第二は,ジャワ文字表記のジャワ語で記録された宮廷文学を,アラビア文字表記のジャワ語に翻訳する宮廷詩人の動きである.アラビア文字表記のアラビア語文書,ジャワ文字表記のジャワ語文書は,それぞれイスラム教とジャワの宮廷という権威を担った文書である.菅原は,19世紀になってこうした文書の書き換えが進んだことについて,ジャワ社会のイスラム化の進展に対応して行われたものと解釈した.

こうした多重言語・多重文字状況は,20世紀に入っていっそう複雑なものになった.植民地統治にともなって新たにローマ字表記が導入されたためである.これと関連して服部は,20世紀初めに見られた2つの動きを西スマトラの事例から明らかにした.第一は,イスラム教による近代化運動である.西スマトラでは,中東のイスラム改革思想の影響を受け,20世紀初頭からイスラム教育の近代化がはかられた.教育の対象を拡大し,アラビア語でなくジャウィによる定期刊行物が発行されるようになった.これにはイスラム教に対する理解をより広範な人々に広めるという側面があった.第二は,植民地政府による公教育の開始である.植民地政府はマレー語をローマ字表記し,辞書を編纂して言語の標準化を行った.ローマ字表記のマレー語が官製の教育機関で教えられ,公文書にも用いられるようになったことにより,ローマ字表記のマレー語を読み書きできる人々はしだいに増えていった.マレー語がローマ字表記されることで,ジャウィ表記ではあいまいにされていた方言差が明確になり,ミナンカバウ語のように,その一部はマレー語と異なる地方語として見なされる結果となった.また,ローマ字表記のマレー語の普及により,オランダ領東インドではイスラム定期刊行物もローマ字で発行されるようになった.

では,なぜ植民地政府はジャウィを公文書や公教育の言語として採用しなかったのか.國谷は,植民地政府がジャウィを近代教育にふさわしくないと認識していた可能性を指摘した.第一は,ジャウィはマレー文学やその他の伝統文学を記述するものであるという考え,第二は,ジャウィが植民地統治にとって脅威となるイスラム教について記述するものだという考えである.國谷は,ジャウィに対するこのような見方が植民地主義者だけでなく研究者にも影響を与えてきたのではないかと結んだ.

ジャウィ文書の社会における位置づけやその変遷について扱ったこうした報告のほかに,ジャウィ文書の内容の分析を行ったのが山本の報告である.ここでは,ジャウィ文書が宗教や伝統文学に限定されない主題を扱っていることが明らかにされた.1950年代にシンガポールで発行されたジャウィ誌『カラム』を分析した山本は,シンガポールのムスリムがインドネシアの情勢を見ながらシンガポールやマラヤにおける自らのあり方を模索する場として『カラム』があったことを明らかにした.また,ローマ字表記が普及した現代においてもジャウィというメディアは非ムスリムの介入しない議論の場をムスリムが確保するという機能を持ちうることを指摘した.

会場からは,ジャウィという言葉の起源をめぐる質問から,植民地官僚のオリエンタリストとしてのあり方に関連した質問まで,幅広い質問が行われた.必ずしもすべての質問に質問者が納得のいく回答をできなかったものもあったが,会場で十分な回答をすることができなかった質問もあったが,ジャウィ文書研究の意義と可能性を,ジャウィ文書について知識や関心を共有していない人々に伝えるという目的は,ある程度,達成されたのではないかと思われる.

<文責:西 芳実>