私とベルギー
(豊田先生が)半分ぐらい話してくれちゃったかな。どうでもいいような気がしないでもないんですけれど。僕は別に研究報告をするわけでもないし、老人の昔話なんて聞いたってしょうがないという方もおられるでしょう。僕だって聞きたかないんですよ。でも、今ちょっと豊田先生が話してくれたように、昔はね、11月の史学大会の時には卒業生がわんさか来たんですよ。だから大会が終わってから後の懇親会はまるで同窓会みたいに賑やかだった。それがもう今はないなという、それがちょっと僕の懸念でもあるんです。
しかし、だからといって、それじゃあ昔話だけしていいのかというと、題名があるんでね、私の話に。「私とベルギー」ね。それじゃあ、やっぱり、そこから入らなきゃならないね。
どこから始めようか。ベルギー。ベルギーなんて、本当に知らなかったですよ。皆さんがどれくらい知っているか分からないけれど、南半分がフランス語で、北半分がネーデルランド、ま、オランダ語という、フラマン語なわけで、そんなことももちろん知らなかった。なのに、何でベルギーへ行ったのかという。もとよりそれは自分の意志じゃないのですね。
その当時の上智大学はすごく学生も少ないし[1953年度史学科卒業生3名]、先生も少ないが、それでも、まあ先生は学生の割には多かったと思う。たとえば私は史学科なんだけれど、史学科以外の先生と随分付き合った。理工学部の先生。理工学部はずいぶん後になったできたんだけれど。
僕は少しフランス語ができた。フランス語の話をしたら長くなるから止めますが、ただ何でフランス語なんかやったのかというと、これまた自分の意志では全くないわけです。では、なぜやったのか、これはまたちょっと別な話になった、少し長くなります。
皆さん、フランス語の「カデ」cadetという言葉を知っていますか。カデというのは幼年のこと。幼い子供のことをカデって言うんです。だからフランスにはエコール・ド・カデ [École de Cadet]、カデの学校というのがあるんです。ナポレオンはそこにいたんですよ。ドイツではカデッテン・シューレ[Kadettenschule]というんですけれど、日本にもあったんです。言葉通り訳して幼年学校と称したんです。これは陸軍の学校です。将校を養成するための。
当時の中学は、今と全然違って5年でした。その1年か2年が終わった時に受験するんです。当時の難関だった。それがどうしたわけか合格したんですね。学校は6つあって、一時軍縮で減らされたけれど、またすべて復活したんです。仙台、東京、名古屋、大阪、熊本、あと広島とね。どこの学校に行かされるかなんてことは全くわからない。今でも、警視総監からの合格の電報の電文をおぼえています。「ナゴヤヨウネンニサイヨウヨテイイサイフミスグヘン(名古屋幼年に採用予定、委細文、すぐ返)」。それで名古屋へ行ったんですね*。
そうすると幼年学校では、語学を二つ、教えることが義務であることを知りました。学校によって二か国、いろんな国の言葉がある。名古屋はドイツ語かフランス語だった。これだって、我々が選ぶんじゃないんです。番号をかけて、奇数はドイツ語、偶数はフランス語という、そんな分け方だったんです。これで随分みんなの運命が変わったんですよ。このときドイツ語をやった連中は、戦後、大学を出てドイツ語の先生になったり、医者になったりしたのです。フランス語をやった者もそれに関係した仕事をやった。とにかく将来に大きな影響があったんです。それだから、英語を中学で一年しかやってないわけで、[戦後に4年として]中学に戻って本当に困りましたね。
それでも、とにかく少しフランス語の基礎があったということで、上智の史学科で何の勉強をしようか、かえって大いに迷ったわけです。初めはね。これも話をすると長くなってしまうんだけど、初めはね、僕はキリシタン史をやろうかと思ったんです。当時、日本史の先生でね、日本仏教史の大家がおられたんです。辻善之助[1877-1955年]という偉い先生です。
この先生があるとき、夏休みの宿題を出したんですよ。なんでもいいからレポートを一つ書け、という。何書いていいか、分かんないですよね。日本史なんて全然やってないしね。どういうわけか知らないけれど、この時に選んだのが、元和九[1623]年に江戸で、四十何人というキリシタンが処刑された。その処刑場。これは上智のキリシタン文庫なんか行くと分かるけれど、明治以降ね、ほとんどがこれが鈴ヶ森であるという説が強かったんです。それに異議を唱えたんですね。なぜだったかよく分からない。誰かの論文を読んだのか、とにかく、どうもそうじゃないんじゃないか、と。
それでその夏、ひと夏使ってね、品川に善福寺という、今でもあるお寺に毎日通ったんですよ。そのお寺の縁起を読んだ。これはね、学生にとっては辛いですよ。活字じゃありません。縁起だからね。筆で書いてあるんですよ。読み取るのは大変だったけれど、とにかく一夏使って調べてみたら、このお寺は、もと別な処にあったのが、なにか公儀の必要で取り上げられることになった。そこで移転先を探していたら、品川あたりに住む喜安という男が、品川に良い土地があります、そこに移転したらどうですか、と勧めた。あとに続く喜安の言葉はこうです。「ただし、その土地はもと刑罰の地にして他の用に用うべきにあらず」。お寺に使うのが最も相応しい、というのです。とにかく、そこが刑罰の地であることが分かったんです。その後、どういう風にそのお寺が変化したかを調べてレポートにしました。初めて僕が書いた文章が活字になったのが、「カトリック新聞」という新聞に「品川の殉教地」という題の記事です。で、これを後にチースリック[Hubert Cieslik SJ:1914-1998年]という神父、キリシタンの専門家ですが、この神父が論文の中で、引用してくれたんです。磯見氏のいうことは正しい、と。学生ですよ、磯見氏なんて言われたって、全然ピンとこないんだけど。それで随分薦められました。キリシタンをやらないか、ってね。でも、キリシタンについての業績はそれしかなくて、後はもう勝手なことをやってました。
で、やっぱりフランス語をやってたから、フランス史で橋口倫介先生[1921-2002年]のもとで指導を受けました。大学を出て[1953-61年横浜雙葉学園に]就職したけど、大学院はそのまま続けていて、その修士論文はフランス、18世紀初めに出たアベ・ド・サンピエール[Abbe de Saint-Pierre:1658-1743年]という人の書いた『恒久平和論』 (Projet pour rendre la paix perpetuelle en Europe, Utrecht, A. Schouten, 1713)について。これは『ソフィア』に載っていると思いますけれど[「近代における平和論の萌芽:アベ・ド・サン・ピエールについて」『ソフィア』9-4,1960/12;「アベ・ド・サン・ピエールの平和論」『上智史学』2, 1957 ]。
さて、じゃあベルギーはどうなっているのか。ベルギーは全く関係ない。大学の先生になってからね、やっぱりどこかに留学した方がいいんじゃないか、と思い始めたんですね。そのころ、ちゃんと研究費がでたんですね。留学する場合にはね。まあ、今も出るんでしょうけれど。どこへ行こうかって、もちろん僕はフランスへ行きたかった。ところがフランスの留学試験って難しいんです。希望者が多いし、フランス語がすごくできるのが受けるんです。
そしたらね、その当時、上智にはベルギー人神父が随分いた。その神父たちが、そんなことならベルギーへ行けよ、パリに行きたければ2時間で行けちゃうんだからって言うんですよ。ベルギーなんて僕はブリュッセルが首都だってことさえ知らなかったからね。そしたら、日本で活動していたベルギーの修道会のスクート会と関係ができた。これはオランダ語系の会で、今は関西の方で淳心学院を経営している。それが松原教会[世田谷区]を受け持っている。そこにすごい神父がいてね、スパーっていう[Joseph Spa:1913-1989年]。そこで仕事を頼まれたりしているうちに、何か周りにベルギーの世界ができたような気がしてきました。それで、ベルギー大使館に申し込んだわけ。ベルギー留学試験を受けますと。そしたらね、上智のベルギー人神父が何かやってくれたらしいんですよ。スクート会の神父を含めて、大勢のベルギー人神父にいわれたら、ベルギー大使館だってどうしようもないわけ。で、結局合格しちゃんたんですね。7人合格したのかな。それでベルギーへ行くことになった。これが、そもそものベルギーとの関わりなんです。
しかし、ちょっとショックなこともあった。ベルギー大使館が送別会を開いてくれたんです。ところがね、僕がずっと世話になっていたスクート会の神父がだれも来てくれなかった。あとで、どうして来なかったのかって聞いたら、あの招待状がフランス語で書かれていたから、だって。これは大変な所へ行くことになるぞ、って思いましたね。神父ともあろうものが、フランス語だってオランダ語だっていいじゃないか、ってね。でも、そういう世界に行くんだ、って覚悟もしましたね。
留学にあたっては、何を研究するかというテーマを提示しなければならないわけ。で、「16世紀におけるネーデルランドの宗教騒乱」をテーマにした。何も知らないんですよ。知らないのにそういうテーマにした。そうしたらベルギー大使館が先生を紹介してくれた。それがベルギーにあるルーヴァン・カトリック大学の先生で、エミール・ルース[Émile Lousse:1905-1986年]という先生。
当時は[1965年]海外旅行が大変だった。飛行機でぱあ?って行けないんですよ。僕は横浜から船でナホトカへ行って、ナホトカから汽車でハバロフスクへ行き、そこから初めて飛行機でモスクワに行き、そこからは全部汽車、結局、1週間くらいかかったかな、ルーヴァンの町に着くのにね。何もわからないから、とにかく駅前にあるホテルに入った。そこからルース先生に電話を掛けたら、先生はすぐに来てくださった。どうしてこんな高いホテルに泊まっているんだ、なんて言われてね。よく分からなかったけど、その翌日に迎えに来てくれて、学生寮みたいな所に入れてくれてね。それから長い付き合いが始まった。
そのエミール・ルース先生の影響っていうのがすごく大きくて、まず、第一にこの話をしようか、と思ったんです。ルース先生がいきなり何を言ったかというと、マチアスを勉強しろと。マチアスって何ですか、分からない、何が何だか。どなたか、わかります? 誰も分かりませんよね。マチアスというのは、ハプスブルグ家、ウィーンにいたハプスブルグ家の王子なんです[Matthias:1557-1619年;神聖ローマ皇帝1612-1619年]。
それで、さっきお話した宗教騒乱が起こります。宗教騒乱が起こる前、カルヴァン派がだんだんとネーデルランドに入ってくる。ここはもちろんスペイン領ですよね、フェリペ2世[1527-1598年;在位1556-]の、ものすごい圧政があったんですよ。ネーデルランドの人たちに重い税金を課したりね。まあ、いろんなことがあった。だから、それに対する抵抗があった。最初のうちはカトリックとプロテスタントのカルヴァン派が一緒になって反スペインの運動をやってるんです。その時にね、誰かやっぱり地位の高い偉い人を連れてこなくちゃあだめだ、と考えた人がいた。それでスペインがハプスブルグだから、ハプスブルグの中に適当な人間がいないかって探したんです。そこで、このネーデルランドの議会の代表であった貴族、アルシュコット[Aerschot]なんて人が、密かにね、ウィーンの宮廷にいる皇帝の弟、マチアスという男を招聘するんですよ、密かにね。そのマチアスは夜中、密かにウィーンを抜け出します。ほとんで家来を連れずにね。それから、もちろん歩いて、ずっと旅を続けてネーデルランドまでやってくるんですよ。その旅行記が残っていて、面白い記録があるんです。とにかく着いた。ところがその難しい状況の中で、この若い男に、そんな大きな働きができるわけがない。結局、そこに数年いて、いろんなことをやるんだけれど、大した成果がないまま戻るんです。でも、ウィーンが入れてくれなくて、インスブルックというところに20年滞在する。
そんなマチアスという男の何を調べたらいいのか。結局、何もしなかったじゃないか、という感じがしたんです。それでも、当時、スペインがネーデルランドを攻めていたときの記録がいろいろあって、それが面白かった。スペイン遠征軍の指揮官がフェリペ2世にあてた手紙があるんですね。どんな状況で、どこを攻めていたか、どうしてうまくいかなかったか、愚痴っぽい文が面白かった。そこへマチアスがやって来たときの戸惑いも書かれています。それにしても結局は駄目だったこのマチアスという青年の何を調べるのか。
彼は色々なことをやっているんです。例えば、カルヴァン派の指導者とわりに親しくして、最初のうちは、コンコルダートというか、共同戦線を張るんですね。何を一体望んでいるのか。それについてね、僕にも少し経って分かってきた。ルース先生の示唆があってのことだけれどね。先生は、彼の行動はヒューマニズムの表れなんだ、そのことを証明してみろ、って言うんですよ。
確かにマチアスは、後に、皆さんのよく知っている17世紀の有名な三十年戦争[1618-1648年]のときの神聖ローマ皇帝です。そのマチアスは異教徒と手を結んだり、いろんなことをやっているんです。それまでのマチアスという人間に対する評価は、まわりの状況に左右される何の見識ももたない男というものだった。それをうちの先生は何とか訂正しようと思ったんですね。私にそれができたかどうか分からないけれど、二、三、マチアスについて書いたものがある。『歴史読本』とか、他の本にも少し書きました[「マチアスの招聘:ペイ・バ身分制議会による」『上智史学』13,1968年:「なぜウィーン宮廷を脱出したのか?:マチアス」『歴史読本ワールド』1994年4月号]。彼の名を皆に知ってもらうほどのことはできなかったけれども、まあ、結構勉強したと思っています。これがルース先生から得たことのひとつです。
もうひとつ大事なことは、その頃、ルース先生は、少し前に発足したある学会の会長だったことです。その学会は、もちろん今もあるんですけれども、議会制度史学会、議会制度史国際委員会というものなんです。そう言っちゃえば皆分かりますよね。議会制度研究の歴史家の集まりだと。でも、英語とフランス語では表記が違うんです。英語では、いいですか、International Commission for the History of Representative and Parliament Institutions。分かりますね。代表制、議会制の諸制度の歴史のための国際委員会。ではフランス語では何て言うか。La Commission Internationale pour l’Histoire des Assemblées d’États。フランスには代表制の議会がないんです。身分制議会の歴史しかないわけです。
今日、ここに古ぼけたカバンをもってきました。ここに年号の「60」と書いてあって、ICHRBI と続いています。これは英語表記の頭文字です。ちなみにこの袋はポルトガルでの学会でもらったものです。コインブラ。
とにかく、先生がこの学会の会長であったということで、私は大きな影響を受けました。留学したその年の暮れ、一緒にウィーンへ行こうと誘われたのです、先生に。その年、1965年、[第12回]国際歴史学会がウィーンで開催されました。国際制度史学会は毎年開かれるのですが、国際歴史学会があるときはそれに合流するのです。どうやってウィーンまで行くのかな、と思っていたら、大学院の女子学生が運転する自動車に、僕と先生と二人が乗って、何とベルギーからウィーンまで送ってもらったんですよ。キレイな大学院生でね。この旅は今でもよく覚えています。途中、ウルムなんてところで一泊したりしてね。とにかくウィーンに着いたら、日本人の参加者がかなりいましたね。学習院大学の金澤誠先生[1917-1991 年]もいらっしゃっていましたね。そこで初めて僕は、歴史学会と制度史学会がいつも一緒にやるんだなということがわかりました。
何でこんな話をするのかと言うと、井上[茂子]先生からお話があったように、今年は国際歴史学会が中国であります[第22回:2015/8/22-29、山東省済南市]。東洋では初めてでしょう。随分、昔は日本でやらないかという誘いがあったけれど、やったら大変なんですよ、これ。世界各国からの参加者の受け入れ、語学力のあるスタッフの準備、ああ、これを引き受けたら誰かが死ぬな、って言うくらいでした。今年の中国、僕は行かないでしょうけど。
勿論、だから国際議会制度史学会もある。ところがね、この学会、中国でやるのは初めてじゃあないんです。今から何年前だろう。10何年か前・・・ああ、2002年だ。あるとき、僕のメールに英語で知らない人から通知があったんです。私は南京大学で教えている者だけれど、あなたが属している国際議会制度史学会を南京で開いてくれないかっていう内容なんです。その人の名前、忘れっちゃったけど、漢字で書いてあったから、なおさら分からない。それで僕はしょうがないから、あ、そうそう、さっきウィーンへ行ったって話したね。ウィーンでは各国からいろんな先生が来ていたけど、その中にイタリアの先生がいた。女子学生を連れて来てたんです。すごい美人の女子学生を三人ぐらい連れて来ていた。そのうちの一人でマリア・ソフィア[Maria Sofia Corciulo;ローマ大学サピエンツァ教授]という人がいた。それが今の会長なんですよ、この議会制度史学会の。だから学生時代からの知り合いなんです。
さて、そのマリア・ソフィアに電話して、こういう話があるんだけどって言ったら、無理だって。その年はもう、トロントかどこかで学会をやることが決まっているからダメだって。でも、あまりにも熱心に言ってくるんで、それじゃあ、集まれる者だけ集まってやるか、ということになって、そして実際に開いたんですよ。僕は夫婦でこれに参加しました。なぜ南京大学の先生がこの学会を開こうとしたのか。彼は専門がイギリス議会史なんです。ところが中国ではイギリスの議会史なんて全く受けない。留学もできないし、すごく環境が悪いんだそうですよ。それで、せめてここで学会でも開きたい、というわけです。ところがね、その学会に、誰か国会議員を連れてこいっていうんですよ。それで僕はしょうがなくて、初めて国会、議員会館なんてとこへ行ってね、誰か来てくれないかと思って随分運動したんですよ。実はちょっと可能性はあったんです。一人は上智の出身者で名古屋の方の人だった。ところがね、肝心の南京側がね、日程を平気でどんどん変更しちゃうんですよ。日本の国会議員なんて忙しくてね、結局、誰も行かなかった。でも、こっちはしょうがないから夫婦で出かけましたよ。そうしたら、マリア・ソフィアとあと数人がこれに加わってくれたんです。まあ、何とか形になった。これがその時の写真です。ちょっと立派なものでしょう。(何人くらい集まったんですか?) これを見てください。勿論この他に学生なんか大勢いましたね。かなり行きあたりばったりでね、急に、先生、英語で挨拶してくれないか、なんて言われてね、まあ、何とかごまかしたけど。正規じゃあなかったけど、中国でのこの学会は二度目ということになるわけです。
さて、何の話をしているか、というと、ベルギーのことですよね。あ、大事な話があるんだ。留学後も僕は随分ベルギーへ行ったんです。或る時、フランソワという男に会ってね、そうフランソワ・ドゥ・バッソンピエールという人だった[François de Bassompierre]。そのフランソワがね言うんです。実は私の父はもと日本で大使をやっていました[Albert de Bassompierreアルベール・ドゥ・バッソンピエール:1873-1956年;1920-39年大使として在職]。
それでその父が書いたメモワールがあるので[Dix-huit ans d’ambassade au Japon,SI.Libres, 1943]、それを日本語に訳してもらえないか、という話だった。それで僕はいいですよと言って引き受けちゃって、わりに早い期間に全部それを翻訳しました。バッソンピエールは大正8年に赴任した。その時、同時にベルギーにいた日本人の公使がやっぱり大使に昇格した。安達峰一郎、知っていますか。四ツ谷駅の向こう側、若葉町というところに安達峰一郎記念館があります[現在は、新宿区四谷1-13に移転]。記念館そのものは、あまり手入れがよくないが、安達峰一郎は国際法の権威で、今でも国際法研究の最高の賞状に、安達峰一郎記念賞というのがあります。彼が最初のベルギー駐在日本大使になったわけです[1869-1934年:1917年ベルギー公使、1921年ベルギー大使、1927フランス大使、1929年国際連盟理事会議長、1930年常設国際司法裁判所判事、1931年同裁判所所長]。***
バッソンピエールは大使で、また大使団の主席としてずっと在日していたんですね。その人のメモワールなんです。これはなかなか面白い。難しいことは書かない。ただ色々な思い出話を書くという方針でね。そのなかでね、一番注目を多分集めるのじゃないかと思うのは、関東大震災の体験談です。ちょうど避暑で葉山にいた。その時、彼のところに遊びに来ていた女の子がいるんです。それは当時のフランス大使、文学者として有名なポール・クローデル[Paul Louis Charles Claudel:1868-1955、1921-1927年日本大使;姉は彫刻家カミーユ]の娘なんです。そのマリという娘と二人で逗子の海岸を散歩していたときに津波に遭った。だから本当に生々しい記録なんですよ。だから現在、そのメモワールが注目されるとすれば、そんな点じゃないか、と思われるんです。
さて、訳したのはいいけれど、どこから本を出すか。その時、ああ、これもお話しとかなくちゃあいけなかったけど、日本には日本ベルギー協会という友好団体ができて、僕は最初からの理事だった。その時の会長が帝人っていう会社の社長で大屋晋三[1894-1980年]っていう人だった。その奥さんが政子[1920-1999年]というすごい人で、僕も何度か叱られた。その大屋会長が出版社を紹介してくれたわけ。でも大屋さんだって出版に詳しいわけじゃない。結局、どこから出たかっていうと、大屋さんの知り合いの鹿島建設がやっている鹿島出版会というところに話をつけてくれた。それで本になった。それがこれなんです[『在日十八年:バッソンピエール大使回想録』鹿島研究所出版会,1972年]。
ところでね、今、困っているんですよ。もうこれは絶版です。それで、この間、電話したんですよ。まだある、なんて言っちゃあ悪いけど鹿島出版会へね。でも、もう40年前に出た本で、誰も知らないんですよ。それで結局、もしどこか別のところから出す予定があればどうぞ、っていう許可を得たんです。それから少し動き回ってみたのですが、もっと手軽に読める新書版か何かにしたいと思って。そしたら最近、講談社から可能性がある返事をもらい、目下、待機中です。
ところでね。今のベルギー大使館に、バッソンピエールという人がいるんです。最近赴任したベルギー公使です[Christophe de Bassompierre,クリストフ・ドゥ・バッソンピエール]。それで初めて会ったとき、僕はあなたのおじいさんの本を翻訳しましたって言ったの。そうしたら、いいえ、あれは祖父ではありません。曾祖父ですって。そう言われればそうですよね。
それからもう一つ話をすれば、ルース先生と別れる時に、最後に、先生の本を何か訳したいんだけど何がいいでしょうかって。そうしたら彼がポルトガルで講演した時の記録、それが本になってるのがあるんです。『アンシャン・レジームの社会』(Organização e Representacão Corporativas, Lisboa, 1960)っていう本でね、もちろんポルトガル語で書かれています。そうしたら、フランス語の原稿を僕にくれたんです。それで僕は一生懸命になって訳しました。面白かった。アンシャン・レジームって分かりますよね。旧制度。で、創文社という本屋さんから出ることになってた。でも、待てど暮らせど本にならなかった。創文社は広告まで出していたのにね。困ったことに、本になるということを前提に、ルース先生が「日本の読者に宛てて」という原稿をくれちゃったんですよ。そのうち先生は亡くなり、本当に長い間困っていました。そうしたら、割合最近になって、その原稿を載せないかっていう話があった。これがその機関誌、国際議会制度史学会の機関紙なんです。Parliaments, Estates & Representation,vol.22-2, 2002です。これの最初に、Émile Lousse avec une introduction de Tatsunori Isomi, Organisation et représentation de la société d’Ancien Régime en Europeって書いてあります。僕もここで少しフランス語を書いているんですね。
だから、ルース先生のおかげで随分いろんなところを知ったし、組織とも知り合いになれました。僕は今でも、この学会の副会長なの。日本の代表はいま、島根大学の渋谷[聡]教授がやってくれている。日本の会員は12、3人いるかな。もし議会制度史に興味のある方がいれば、いつでも紹介します。ぜひ言って来てください。
で、この話で、もう大体いいかな。質問なんかなくてもいいです。
あ、そうか、もうちょっとだけね。じゃあ、ちょっとだけ。勉強の話だけじゃなくてね。卒業生には色んなのがいるんですよ。ついこの間も電話がかかってきた。もう10年以上も会っていない男なんです。「てい」ですけれどって。誰だろう「てい」なんて。ああ、鄭東輝か、って。これは台湾人で、僕のゼミだった。彼はベルギーに留学したことがある。国府田さんと一緒なんだけど、銀座で一緒に食事をしませんか、って言うんです。国府田さんというのは国府田武[1941年-]という東海大学の先生をやっている史学科の卒業生です。それで新橋で落ち合おうっていうんですよ。こっちもそういう話ならいいやと思ってOKしてね、それで銀座の一流のバーですかね、立派なところへ連れてってもらってね、散々飲んで。
で、この鄭君のことを何で僕がよく知っているかっていうと、この辺にあるはずだけど、中華料理屋で「維新號」っていう店があるんです**。新宿にもある。名古屋にもあるんです。その主人なんです。だから頼めば、そこで何だって出てくる。制度史学会の人で誰か日本に来た時には、たいていその「維新號」に連れて行く。安くあげてもらえるからね。
それからもう一人、築地のほうにね、何て言ったっけ・・・「鶏由宇」[とりゆう]という日本料理屋がある。これを持っている人が駒塚由衣という女性で、僕のゼミだった。芝居が好きでね。多分、卒業論文はモリエールか何かじゃなかったかな。それで、どうしても芝居をやりたいって、劇団四季を受けるって言うんですよ。それで本当にはいちゃったの。劇団四季で随分活動して、劇団の人と結婚したんです。その結婚式は面白かったね、いろんな有名な人が来てね。ところが彼女は離婚しちゃった。それでも今でも演劇活動はやってて、時々、NHKの大河ドラマにも出てきたりしていました。演劇からは離れられないらしいです。その「鶏由宇」っていう日本料理屋の二階で一人芝居をやってます。必ず案内がくるんです。
だから、いろんな人がいるわけですよ。だから、そういう人を上智の史学科とね、全く無縁にしたくないという気がするんです。皆だって、助かりますよ。特別待遇してくれたりしてね。
さて、もう話はないですね。質問なんてあるはずないものね。
(OG林紀美子さん:磯見先生といえば劇団をもっていた)
それは話すの忘れちゃったけど、僕はね、50歳を過ぎてから演劇を始めたんです。そして約30年、全部で大きな公演を26回,大作ばかりですよ[参照、劇団「くるま座」の全軌跡:http://yasuots.ninja-web.net/kurumaza.htm]。これはどこの劇団と比較しても自慢できるものだけれど、ただその割に有名にならなかったけどね。日本の大きな劇団がやりたいような芝居を随分やった。外国の芝居が多かった。日本人のはね、遠藤周作[1923-1996年]と、それと、誰だっけ、そうそう矢代静一[1927-1998年]のものぐらいかな。二人とも死んじゃったけどね。(豊田:遠藤周作に対抗して「くるま座」をつくられたんでしょ)そんなことないよ。遠藤周作の劇団は「樹座」(きざ)っていうね。これはもうめちゃくちゃな芝居なんです。だけど羨ましいのはね、観客が平気でヤジをとばすんです。それに対して、出演者もそれに怒鳴り返すという、つまり活気があるんですよ。その「樹座」っていうのも解散しましたけど、残党がいましてね、今でも時々チャンバラものをやってます。ま、でも遠藤さんの話をすると長くなるからね。
何だっけ、なにか質問されていたっけ。
まあ、いいや。例えばね、皆さんは「青い鳥」って知ってるね。ねえ、みんな知ってるよね、日本人は。でも外人はあんまり知らないんですよ。そんな有名なものじゃない。しかも日本人に紹介されている「青い鳥」って何ですか。チルチルとミチルがいて、いろんなところに幸福の青い鳥を探しに行ったけど、とうとう見つからなくて、家に帰ってきたらそれがいたっていうんでしょ。大ウソですよ。そんなストーリじゃないんですよ。その頃、劇団四季がミュージカルでやってました。僕は自分で翻訳して元通りの形で上演しました。あれは北欧文学の沈鬱な作品です。書いたのはベルギー人です。皆、メーテルリンクっていいますよね。でも本当はマーテルリンクなんです。Maeterlinck と綴ります[Maurice Maeterlinck,1862-1949年]。この人は活動はパリでやってたけど、出身はベルギーのゲント(フランス語でガン)、そこの人たちの発音からすると決してメーテルリンクじゃあない。マーテルリンクなんです。「奇跡」っていう作品があるんです。それを翻訳したのが、かの明治の・・・ああ、やだ、誰だっけ、そうそう森鴎外だ[1862-1922年:戯曲「奇跡」翻訳は1910年『続一幕物』所収]。彼はドイツ語から訳したんだけれど、ちゃんとマアテルリンクと書いているんです。(豊田:先生の当時の学生は劇に出ると単位が出たというのは) 劇には随分出しましたね。単位のことは忘れましたけど。
もう一つ、言わなきゃいけないことがあったんです。日本とベルギーの関係を少し勉強し出した。僕はブリュッセルにあるベルギーの外務省文書館というところに行って、日本関係の資料を見せてくれって言ったんです。そうしたら大きな車4台に、山積みにしてもってきたんです。日本で誰もベルギーの歴史なんて書いてる人いないでしょ。向こうだっていないんだけど。しかし日本に関する資料はだけはものすごくあるんですよ。僕はそこに日参したんです。そして全部記録にとった。そして、外務省文書館だけじゃなくて、王立総合文書館はじめ幾つかの資料館へ行って、日本関係の資料を全部漁って、それをすべて記録にとどめた。
となると、それを何とかまとめたいという気になるわけです。そこで・・・、それはまだ僕がここで教えている時ですよ、もちろんね。幾つくらいの歳だったかな、30代の終りくらいの話か。一念発起して『日本・ベルギー関係史』という本を書こうと思った。ところが僕は日本史を知らないんですよ。そうしたら大学院の学生の中に日本近現代史をやってるのがいた。その二人に声をかけてね、一緒に本を書かないかって。そして毎週二人で僕の研究室へやってきて、三人でいろいろ討議をしながら、そして文章も書いてもらって、そしてこの『日本・ベルギー関係史』(白水社、1989年)という本を書き上げたんです。
どこの本屋がこんな膨大な量の本を出してくれるか。ちょうど筑波万博[1985年]があったんです。その後で、万博の利益を還元するために、何か有益な仕事に寄付するという話があったんです。そうしたら日本・ベルギー協会が申請を出してくれたんですね。200万円だったか、とにかく出してもらえることになって、白水社が出してくれた。それがこの『日本・ベルギー関係史』という三人の共著です。僕とその大学生だった一人は黒澤文貴君、もう一人が櫻井良樹君、いま黒澤君は東京女子大学の教授、櫻井君は麗澤大学の教授ですけれど、二人と一緒に書いた本、これは懐かしい思い出にもなっています。
(OB関哲行氏:磯見先生といえば非常にサッカーがお好きだった)
実は今でもね、上智にくるので一番多いのはね、サッカー部の集まりなんです。今は辞めましたけど、ずっとOB会の会長をやってました。僕の学生時代にサッカー部が復活したんです。大体、サッカーなんて言葉はなかったんです。蹴球です。今だって早稲田大学は早稲田大学蹴球部ですよ。昔、あったとされるサッカー部を復活させようとしたのが、サッカーのサの字も知らない先輩で、手伝いをさせられたんです。ところが誰もサッカーなんて知らない。ただ外人の神父のなかに、サッカーのさかんな国の人がいて手伝ってくれたり、神学生が助っ人にきてくれたりした。そうしたらね、このサッカー部の歴史を書こうということになった。そこで調べたわけ。いま学生部長って誰? 鈴木君っていまもいるんじゃない。鈴木守君[2003-2005年学生部長:保健体育研究室・教授]だったかな。とにかく、二人で調べて書いたんですよ。そうしたら、創部は昭和6年ごろじゃないかっていう結論を出した。それで本にしたんです。題名は絶対に僕がつけたんじゃない。鈴木君がつけた。『真田堀の青春』っていうんです[『上智大学サッカー部史:真田堀・昭和の青春』上智大学、1990年]。とても僕にはそんな題はつけられない。まあ、そんなとこですかね、サッカーのことは。
いや、大事なこと忘れてた。もう10年近く前になりますかね、サッカー部をつれてベルギー遠征をやったんです。ベルギーに知り合いがいたからできた遠征でね、学生にはよい思い出になったようです。成績は4勝5敗でした。
ベルギー留学中にね、面白かったのは、柔道をやったこと。僕も柔道全然やらなかったわけじゃあない。さっき言った幼年学校という所でやりました。ベルギーでは、安部さん[安部一郎:1922-]という講道館の指導者が行って指導にあたっていた。ベルギーにも柔道に夢中になっている男がいてね、僕に柔道やろうって言うんですよ。何だってベルギーまで行って柔道やるんだろうと思ったけれど、結局やりましたね。その男がね、近頃の柔道家は加納治五郎の精神を知らない、なんて言うんですよ。安部さんに博子ちゃんっていう娘さんは、のちに上智の学生になりました。
今、僕が一番困っているのは身辺の整理ですね。僕がこのまま死んじゃって、一番困るのは、後に残された人が僕の部屋をどう整理するか、この本を全部、どう売るか捨てるか、ということなんです。
それにもう一つあるんです。那須にある家のことです。ゼミやテニスの合宿で随分利用しました。退職するとき研究室の本を全部、ここに移したんです。フランス語の本もあります。Encyclopédie de la Révolution なんてね。若い時に勢いに任せてやったことが、年を取るとすごい負担になる。だから、若い時から整理しといた方がいいですね。なんていうのは年寄りの勝手な感想でしょうね。
こんなもんかな、話は。
ここで、後記として追加することを許して下さい。
肝心の私がベルギーからどんな恩恵をうけているか、ということにまるで触れていない。そこで、少なくとも二つ追加させて下さい。
1. ベルギー王室からレオポルト2世勲章コマンドール賞[Orde van Leopold ⅡCommander]を頂いたこと。これは大変な勲章で、ベルギー大使館はわざわざ盛大な祝賀会を開いてくれました。一生で唯一の受勲です。
2.ベルギー国王の来日にあたり、天皇、皇后両陛下にベルギーについてご進講をするという名誉が与えられたこと。特に関東大震災にあったってのベルギー国民のユニークな援助に、皇室が関わっていることで、事態が少し発展しました。これは『文藝春秋』平成9年9月号に書いた「須崎御用邸の寝室の絵のルーツ」(この題名は編集者が勝手につけたもの、僕にはとてもつけられません)に詳しく書いてあります。これがご縁で、テニスをご一緒に楽しむことになるのは、また別の話です。
後書き
2015年度をもって、上智大学史学会大会は第65回の節目を迎えました。そこで本年度のテーマを温故知新に定め、月例会の場をお借りして名誉教授や卒業生に語ってもらう機会を持ちました。その劈頭を飾って磯見名誉教授にご登場願ったわけです。
先生のご経歴・ご業績は以下参照。『上智史学』No.44、1999年、3-12頁(「上智大学学術情報リポジトリ」Sophia-Rで入手可能です)
* 名古屋陸軍幼年学校昭和18(1943)年入校の第47期生180名の現況もアップされている;http://homepage3.nifty.com/meiyo47/
** 鄭東輝氏とその祖父鄭餘生開業の「維新號」についてのエピソードは、酒井順一郎「1896年中国人日本留学生派遣・受け入れ経緯とその留学生教育」『日本研究』(国際日本文化研究センター)31、2005、191-207頁、特に194、205頁に出てくる。
*** 安達峰一郎について、最近以下の小論が出された。柳原正治「よみがえる安達峰二郎」『UP』(東京大学出版会)2017年5月号、pp.24-30.
なお、文中の写真や[ ]内の記述は、ほとんどすべて豊田がウィキペディア等で勝手に拾ってきたもので、責任は豊田にあることを明記しておきます。物故者の敬称は略しました。