上智大学・史学科の歴史・点描

2015年度月例会

上智初期女子学生とその後

林 紀美子(1961年史学科入学)
著者近影

著者近影

 1964年に卒業致しました。その年は皆さんご存知の東京オリンピックの年でした。卒業いたしましてから、商社に勤めました。それから、ひょんなことからイスラエルへ参りまして、14ヶ月滞在しておりました。そしてその後ドイツ、当時は西ドイツでしたが、西ドイツへ参りまして、1970年までドイツに滞在しておりました。1970年というのは、また大阪万博で日本中が湧いている年でした。そこへ帰って参りまして、それから何年か経ちまして、日本語教師になりました。先ほど日下先輩は学校の先生をおやりになったのですけど、私の方は語学教師で、よく言われるように、口移しに教える言葉の先生です。これは思考を伴った学校の先生とは違いが大変あります。70歳まで、つまり4年前までやっておりました。

 上智大学では、一応西洋史専攻でした。先程豊田先生がおっしゃいましたけど、当時の上智大学というのは、大変珍しい学校で、史学科も第一外国語を選択することができました。英語の他にドイツ語とフランス語が選択可能でした。私はドイツ語を選びました。1960年代というのは、学生が大変荒れた時代でして、在学中に色んなデモがあって、あの、有名な樺美智子さんが亡くなった時でした。上智とそれからICUの学生がデモに参加したというので、世界中の英語紙のトピックニュースになるような時代でした。それはちょうど今のニューオータニの向こう側の入り口の前にある清水谷公園というところが学生の溜まり場、デモをする学生の出発地でした。それでデモ隊が上智の横を通っていくので、上智からも何人か参加しているようなところがありました。

 私は入学後、第一外国語にドイツ語を選択いたしました。1年生では語学でクラス分けをしますので、最初から史学科のクラスには入っておりませんでした。私の入ったクラスは、A4というクラスで、経済・法学・新聞・国文の学生の混成クラスで、女性は4人でした。毎朝1時限がドイツ語でした。皆さんお聞き及びと思いますけど、有名な鍵のかかる部屋で、しかも教室は今の1号館の3階と4階でした。地下鉄は丸ノ内線と銀座線があったような気がいたしますけど、他はそんなに発達しておりませんでした。それから四ツ谷駅にエスカレーターはありませんでした。ですからいつも満員電車に乗って、やっと走り込んで入ってくるのですが、まずホームを降りたら階段を走って上ります。地上に出て、学校に来たら、1号館というのは昔流ですから、地階から3階でも結構階段があります。階段のところから廊下を見ると先生が教室に入るところが見えます。先生はSJに住んでらっしゃいますから、目と鼻の先です。後ろのドアから入ってガチャン、前のドアに行って鍵をかけます。私たちは階段を上がったところから、「あー」って言うのですが、先生はにこっと笑って、「ヤア」と言ってガチャンです。3回遅刻、つまり欠席ですね、入れませんから、3回遅刻すると、名簿上から名前が消えます。もう本当に必死でした。それで、女性は3人ですから、代返はできないわけです。一人の女性の方は留年が決まり、二年に上がれないという事がありました。その頃は1年から2年、2年から3年へ、今とシステムが違いましたから、進級できない事になります。語学は単位数が多いのでそういう事になります。それもとてもいい時代の象徴ですけれど、クラス中で署名を集めまして、専攻が独文でもドイツ語でもないわけですから、ある意味ドイツ語は、手段だから(彼女は国文だった)と。とても美人だったこともあって、みんなが署名を集めて先生のところに行ったら、まあ、無事進級させて下さいました。そういうこともありました。ただ、ドイツ語とフランス語をとった史学科の学生は、私がドイツ語で、フランス語は2人、有名な國府田さん[武:東海大学教授]ともう1人、女性がいました。その3人でしたから、本当に史学科に馴染んだのは3年生からでした。ドイツ語やフランス語を選ぶと、第二語学はとらなくてもよかったです。ただとる人は英語と決まっておりました。私は英語が大変苦手でしたので、最初から、ABCからやるというのでドイツ語を選んだだけの話でした。あとで大変苦労しました。英語はともかく、必要です。

 それから、イスラエル建国史をえらんだのは、子供の頃日本人で初めてノーベル賞を受賞した人[湯川秀樹:1949年]がいました。そして大変話題になっておりました。その時にノーベル賞受賞者にはなぜこんなにユダヤ人というか、ユダヤ系の人が多いのかという疑問と、それから音楽家・画家・小説家・学者もありとあらゆる分野で、なんだか、ユダヤ系なんとかという人が非常に多いなという気持ち。それから、当時はナチズムに関しての本、映画、もう諸々いっぱいあった時代です。それでイスラエルに興味を持ちました。建国を可能にしたシオニズムから、テオドール・ヘルツルという名前に行き着きました。それで、第一外国語はドイツ語に致しました。彼はドイツ語で著作をしていましたから。卒論は「テオドール・ヘルツルとシオニズム」でした。今から考えると大変お恥ずかしいのですが、当時はまだ日本でのユダヤ史は聖書考古学が中心でした。

Theodor Herzl(1860-1904年)

Theodor Herzl(1860-1904年)

 当時の史学科長は、長寿吉先生とおっしゃいまして、近世ドイツ史の専門でらしたと思います。ただ私が2年生の時に定年におなりになって、ゼミは橋口ゼミでした。長先生が私に下さった本が全部ゴティック文字[Fraktur:亀の子文字、亀甲文字、髭文字]でした。私共は花文字と言っていました。私共はもう、今のローマ字しか習っていませんでしたから頂いた本はなかなか読めませんでした。ゴティック文字というのは、ちょっと書けませんが、読むのは慣れると簡単なようです。

 在学中に何を学んだかというと、本当に恥ずかしくて何をしていたのだろうというくらい、楽しんでおりました。卒論は、ゼミが橋口先生ですから、当然分野は全然違います。それで、早稲田の小林先生にお世話になりました。先生はイスラエル近代史が専門でらっしゃいました。それからイスラエル大使館の文化部とか、ユダヤ教のシナゴーグに参りまして、留学生の中の、教授レベルの人を、もう本当に生意気でお恥ずかしいのですが、紹介していただきまして、助けていただきました。当時は建国15年くらいのイスラエルでしたから、大変なキャンペーン中で、それはそれは親切でした。まあ、女子学生が珍しいというのもあったのかもしれません。

 卒業後半年くらい経って商社(伊藤忠商事)の仕事にも慣れた頃、交換留学生の試験を受けないかというお話をいただきました。当時イスラエルというと、留学生は皆さん聖書学者だったそうです。あとは、学生が英語を学ぶために留学生の試験を受けるという人が多かったようで、英文科の学生とかいう受験生の中に入ったので、珍しかったと思うのですが、なぜか3人残った中に入りました。試験を受けた方の中から当然の如く当時、東大の助教授をしてらっしゃった先生が選ばれました。席は一つですから、私ともう一人の方は違うルートで行かないかと言われました。そのルートは大使館の文化部の方から作っていただきました。どうしてそういうラッキーなことが起こったかというのは今でも謎です。大使館員の一人が帰国なさいまして、イスラエルに来て勉強するようにというルートを、もちろんヘブライ語は全然できなかったのですが、つくって下さいまして、それで行くことになりました。東大の先生は交換留学生としていらっしゃいましたが、私ともう一人、女性だったのですが、都立高校の数学の先生だった方とは違うルートで行くことになりました。彼女はイスラエル人の知人がいるので、私とは全くの別行動でした。

 日本からイスラエルへ行くルートとして、当時は今と違いまして、バンクーバー経由でヨーロッパに入る飛行機か、あとは南回りの飛行機でローマから行くルートがありました。私が卒業して、その行く年になってから、昔あったシベリア鉄道のルートというのが再開しました。それまで戦争で、第二次世界大戦中は閉鎖されていたのですが、それが再開したので、それを使って参りました。横浜から津軽海峡を通って、船でナホトカへ。ナホトカからハバロスクいうところまで、シベリア鉄道に乗りました。もうこれはこれだけ乗ったら十分っていうようなひどい電車でして、それでハバロスクから飛行機を使い、モスコーへ参りました。モスコーからまた今度は飛行機でオデッサというところに行きました。オデッサから船でイスタンブールへ入りまして、そしてイスタンブールからイスラエルへ参りました。モスコーでも2,3日滞在しましたし、いろんな所でちょこちょこと滞在しましたので10日以上かかりました。途中ブルガリアのヴァルナっていう所にも寄りました。どうしてこういうことをやったのかと言われますと若気の至りとしか申しようがありません。当時、色々な映画がありましたが、その中にエーゼンシュタインの映画、「戦艦ポチョムキン」[1925年:https://www.youtube.com/watch?v=_Glv_rlsdxU]というのがありました。ご覧になった方があるかもしれませんが、階段の上から、乳母車が転がり降りるシーン、あそこを見てみたい、それがオデッサでした。それで、オデッサ経由で行きました。ナホトカからハバロスク、モスコー、オデッサ、イスタンブール、イスラエルというルートでした。

映画でのオデッサの階段の虐殺場面

映画でのオデッサの階段の虐殺場面

乳母車

乳母車

 今どなたかが『女三人シベリア鉄道』[森あゆみ、集英社文庫、2012年]っていう本をお出しになってらっしゃいますけど、ちょうどあの本の、戦前と戦後いらした方の間に私が行ったような感じでした。モスコーはソ連の首都ですから、是非自分の目で見てみたいというのもありました。ソ連のニュースというのは高校の教科書に出てくる以外あまりありませんでした。いいことはたくさん書いてありましたが、自分で見てみたいと思ったので、それでモスコー経由で参りました。オデッサは、先程申し上げたように映画の「戦艦ポチョムキン」の舞台への興味でした。

 イスタンブールも今のように橋が2本ありませんでした。ですから、昔のままのイスタンブールが見られた時代でした。今行くと全然景観が変わっておりますけど東と西のかけ橋の都というのが良く分かるところでした。ブルガリアのバロナを経由してイスタンブールへ入りました。イスタンブールからイスラエルの飛行機が飛んでおりまして、それでイスラエルへ参りました。

 これは又、ユダヤ人がパレスチナからヨーロッパに移って、また追われてヨーロッパから再度パレスチナへという時代に辿った道の一つなので、それを通ってみようという気もありました。当時ソ連はニュースがほとんどありませんでした。行ってみたら当時のソ連は大変なところでした。デパートという所に何もない、ただの体育館みたいなところでしたし、何か買おうと思って換えたルーブルを、何も買う物がないから、円に換えてもらいたいと言っても戻してもらえないとか、色々な、なんというか、見ると聞くのとでは大変な違いがたくさんありました。私は三色ボールペンとかストッキングを会う人会う人にねだられました。地下鉄は、モスコーの地下鉄は昔から有名でしたから、あそこへ行ったら是非とも乗ってみたいと思い、切符を買って乗りましたが、ちょっと歩くといつの間にか後ろから誰かがちょんちょんって肩を叩くのです。「お前はここで何をしているのか」とか「ここにはお前は入れないぞ」という感じでした。大変威圧的で、怖い秘密警察のようでした。

 イスラエルでは10ヶ月間語学学校にまいりました。これはウルパンと言いまして、イスラエルはご存知のように移民の国ですから、モシャブとかキブツとか特殊な養成機関を持っております。キブツの中にあるヘブライ語学校というのに入りました。キブツの中のヘブライ語学校は午前中語学を勉強して、午後はそのキブツで労働をするというスタイルです。私はその、ルートをつくってくださった方が元在駐日イスラエル大使館の方で、日本人の事をかなりご存知の方でした。キブツの中で生活すると外国人がいっぱいだから、私には住み易いのではと考えて下さったようです。労働はしなくていいという、語学学校だけに出席するスタイルでした。色々なところを見るのに大変便利でした。というのは、当時のイスラエルは四国くらいの大きさでして、今とだいぶ大きさが違います。まあ、色々と戦争をしてきた国ですけれども、史跡の他にシャガールのステンドグラスが、ニューヨークのハダスホスピタルとまるで同じものがある場所があったり、それから、死海文書が出たばかりの時ですが、イサムノグチの設計でそれだけを見せるためにできた建物とか、結構色々なものがあって、午後の時間は随分色々な所に行きました。その頃は、動きまわるのがそれほど大変ではなかった様な気がします。日本人というと、ユダヤ人だけではなく、アラブ人も結構皆さん親切で、色々なところで様々な良い思いをしました。

 ヘブライ語のコースが終わって、いざ大学という時に、あの有名な六日戦争が始まりました[1967/6/5-10]。イスラエルの身元保証人になって下さっていた方から、よその国の戦争で、傷ついたり死んだりするのは馬鹿らしいし、ご両親にも申し訳ないから、出国した方がいいと言われました。その方は、ウクライナからの移住者で、大変な思いをしてイスラエルに着いた方でした。ですから余計にというか、とにかく五体満足のうちに出国した方がいいというふうに言われました。おばあさん、今の私ぐらいの年齢の方でした。気がつくとキブツからも年寄りと子供以外の男性がいなくなっていました。キブツのシステムをご存知の方もいらっしゃると思いますが、外国人はメンバーとは別の所に住んでおりまして、私もその寮に住んでおりました。私がいたヘブライ語を習うためのキブツはちょうどエルサレムから70マイルくらいの所にありました。そこは本当に荒野の真ん中でした。それで隣がスウェーデン人とフィンランド人でした。だいたい原則二人部屋ですが、私は一人で住んでおりました。

 スウェーデン人はご主人が科学者で、ハイファというところの工科大学にいらして、奥様は週末だけご主人が帰ってくるので週日はひまで、私は非常に仲良くなりました。もう一人のフィンランド人の姉妹は、キリスト教関係の方で、大変真面目な方でした。そのスウェーデン人の方がスカンジナビアの若者を集めて最後に脱出する船というのに誘ってくださいました。身元保証人になっていたイスラエル人からも、とにかくチャンスがあったら出て行くようにと言われていたので、それに乗りました。最後だったと思います、船が出たのは。飛行機はもう飛んではいませんでした。

 そこからあの有名な六日戦争が始まりました。第三次中東戦争です。イスラエルが大勝したというか、第四次は負けてしまうわけですけど、多くの一般のイスラエル人の予想に反して勝ちました。1967年の6月の5日から10日まででした。それでイスラエルを出ました。船は当然ですけどタダですから、キプロスで降ろされました。スカンジナビアの人達と私は全部キプロスで降ろされて、その戦争が終わるまでキプロスにおりました。キプロスはたぶんご存知だと思いますけど、マカリオス大主教[3世:1913-77年]という、ヒゲのギリシャ正教の僧衣を着た方が大主教で首相でした。イギリス領だったところが独立してからそれ程経っていませんでした。

Makarios III(1913-77年)

Makarios III(1913-77年)

 別邸、その大司教で首相の別邸というところに、外国人の避難民を全部入れて、滞在させてくれました。そこに、戦争が終わって船が出るか飛行機が飛ぶかまでいることになりました。1ヶ月弱いたような気がいたします。島からは軍、米軍よりもイギリス軍が多かったのですが、飛行機が飛ぶのが大変よく見えました。この戦争はイスラエルが勝ったので、それはよかったのですが、イスラエルに戻るかどうするか考えた時に迷いました。たった1年のイスラエル滞在でヘブライ語が満足にできるわけがないのと、それからまあ英語ができないという現実がありました。ヘブライ大学の英語とヘブライ語での授業にはついていけないと思いました。それでイスラエルにもどるのはやめてドイツへ向かいました。なぜドイツを選んだのかというと、大学での第一外国語がドイツ語だったということと、それからあれだけイスラエル人を、ユダヤ人を嫌ったドイツをみてみたいというのが一つ。そして経済的な理由です。あの当時日本とドイツは商社とか色々な関係がありまして、簡単ではないですが、ドイツに行けばお金がなんとかなるという点でした。皆さんにはちょっとわからないと思いますが、私共の時代は持ち出し日本円限度額というのがあり、確かあの時は300ドルだったと思います。一括で一回。留学生ですから一回だけで、それでしかも1ドル360円ですし、もう一回持ち出しているわけですからないわけです。送金方法というのが大変難しくて、結局父を頼らざるを得ませんでした。ドイツにたくさん日本の商社があったのですが、それまでハンブルグにあった多くの日本の商社や居住地がデュッセルドルフに移っていて、便利なこともあったので、デュッセルドルフへ向かいました。

 キプロス島を見てギリシャ、そしてギリシャからオリエント急行のルートで電車に乗ってユーゴ経由でウィーンまで行きました。歴史上、ユーゴは大変面白い国だと私は思っていましたので行ってみたいと思いました。当時、その年がたまたまユーゴの観光キャンペーンというので、ビザ無しで入れた事もありました。それに上智の同学年の方が、チトー大統領に招かれて、大変有名になってニュースになっていたこともありまして、ユーゴスラビアのベオグラードの学生寮に一週間くらい滞在いたしました。

 ドイツについては、ナチ時代のドイツ批判にもかかわらず、アデナウワーとか、あのエアハルトの時代のドイツ経済の好調はどうしてなのかと思いました。もう既にドイツ経済は大変好調でした。日本はまだまだでした。東京オリンピックが終わって経済は上向いてましたが、それでも大変な違いでした。それから個人的な経済的理由を考えたら、ドイツしか滞在できませんでした。ドイツのゲーテ・インスティテュートで2コースをとって、当時西ベルリンの自由大学に参りました。昔からある大学は東にありました。アメリカが中心になった新しい大学で図々しくも学生になりました。当時西ベルリンの学生は大変優遇されていました。西ベルリンの住民は当然西ドイツの住民ですが、住民の3分の1が学生、3分の1が年金生活者、残りの3分の1が働いて回っている、経済が成り立っていると言われていました。西ベルリンの学生になると、一月当時10マルクで交通機関全部乗り放題の定期が得られました。地下鉄とシュタットバーンの電車、それとバス、全部乗れるので、じゃあというので試験を受けました。試験は今でもよく覚えているのですが、週労働35時間と有給休暇についての講演があり、それについてのQ&Aでした。1960年代の終わりです。日本はまだ土曜日も働いていた時代です。

 有名なフンボルト大学は先ほど申し上げたように、東ベルリンにありますので、私が入ったのは自由大学、FU(エフウー)です。そこで2ゼメスターとった時点で個人的な理由で帰国することになりました。帰って参りましたら大阪万博真っ只中でございました、1970年。

 それから帰国後、何年か個人的な状況で主婦をしておりました。何年か経って日本語教師になりまして、4,5年前まで日本語教師として働いておりました。はじめは、教職免許は社会科とドイツ語を持っておりましたので、東京ドイツ学園で教えておりました。当時学校は大森にありました。今は横浜に移りましたが、そこで日本語を教えておりました。それと並行してドイツ人やドイツ語圏のビジネスマンにも教えました。東京のOAG(オーアーゲー)文化センターというのが赤坂にありますが、そのOAGで、四谷にあったエンデルレ書店というドイツ語の書籍を売っている本屋さんが作ったドイツ人に日本語を教えるコース、そこで教えておりました。そのうち日本の企業がどんどん外国人を入れるようになりましたので、教師が足りなくなりました。朝日カルチャーセンターの日本語教室、JALアカデミーとかそういうところでも教えておりました。お役所、色々な省で外国人を招いて、日本語を教えてからさらに各自の専門を学ぶ、というコースが毎年増えて来ました。そこでドイツ語圏の人だけではなく、色々な国の人に20何年間日本語を教えました。

 私は1964年卒なのですが、1964年というのは上智大学が学部1年から女子を受け入れて3年目でした。ですから卒業生は1961年に3年次から入った女子卒業生が2名いらっしゃいました。それから1962年は史学科の女子の卒業生は6名、そして1963年は8名、そして私が出た1964年には女子が、37名の史学科の学生のうち23名でした。そのあとはずっと3分の2以上が女子という時期が続きます。まあ、私共の学年から急に女子が多くはなったのですが、上智全体ではまだ女子は大変少なかったです。当時大宅壮一という評論家、今テレビで活躍の大宅映子さんのお父様ですが、彼が女子大生亡国論というのを唱えて話題になりました。私達も勉強しないとああいう風に言われるよと神父様方に、よく注意されました。まあ私も含めて女子大生はあんまり勉強してなかったような気もしますけれども。

大宅壮一(1900-1970年)

大宅壮一(1900-1970年)

 上智はそれまで男子校でしたから学校も大変気を使って下さったようです。今のクルトゥル・ハイムのところに大島館という建物がございました。私たちは女子部屋と申しておりました。

 

 

 有島暁子先生とおっしゃる大変お綺麗でエレガントな方、その有島暁子先生という方がカウンセラーみたいな格好で、常時大島館にいらっしゃいました。それで早く、行けばお弁当が食べられたりお茶が飲めたりします。それから違う学部の学生とのお話しもできますが、男子は禁制でした。神父様といえども入れなかった。それでも、史学科の女性は何故か、私で正規に入って三年目ですけど、行かない。先生から声がかかるのですが、なかなか行かなかったようです。私も例外ではなかった。その有島暁子先生っていう方が大変素晴らしい方だったのですが、華やかすぎて史学科の地味な女子学生とは、合わなかったのではないかと思います。有島先生は1971年に昭和天皇、皇后がヨーロッパにいらしたときに通事、通訳としてお付きになった方です。大変フランス語が達者な方で、それでお家柄もいいので、お父様が有島生馬さんで叔父様が有島武郎さん、もう一人の叔父様が里見弴さん。ですからいろいろなことで、有名な方が出入りする方でした。フランス語、英語もですけど、フランス語が大変堪能な方で、ガブリエル・マルセルというフランスの実存主義ではあるけれどもカトリック系の方が日本に見えた時は、通訳をなさって、ご活躍でした。

)Gabriel Marcel(1889-1973

)Gabriel Marcel(1889-1973

 大変お綺麗で優雅で素晴らしい方なのに、なぜか私共の学年までは、史学科の学生は、そこの部屋にはあまり行かなかったような気がします。その頃は女性が大学全体では大変少なかったので、私たちは自主規制っていうのをつくりました。有島先生が中心になって、色々と作りました。まず、下着が透けないブラウスを着て来ること。それからノースリーブは、今のタンクトップですが、それはダメとか。もちろんミニスカートはない時代ですからいいのですが、そういうのを女子学生、みんなで決めました。今では考えられない事です。

 それから女子が入って、正規に入学して三年目ですから、若い神学生とのトラブルも結構ございました。史学科の先輩にも、2年先輩ですが、ドイツの神学生と色々問題になりました。史学科の先輩は、男の方が僧院を出て結婚なさり、お子さんもいらっしゃいます。他はスキャンダルになりますので、松本清張の小説になったようなところがありました。

 私の時代までは、史学科卒の女性は地味でしたが、1967年に卒業なさった史学科の女性で、準ミス桜の女王になった方がいらっしゃいます。今松方さんとおっしゃるのですが、上智の女子学生ではじめてミスコンに出た方だと思います。今でも大変感じのいい人です。

 1969年卒業の方では自然環境を守るっていうことからいろんな活躍をしてらっしゃる藤井さんとおっしゃる方がいらっしゃいます。たぶんどこかでご存知かもしれませんが。今でもよくテレビに出てらっしゃる方ですがこの方は大学院でも勉強なさった方です。確か滋賀県から政治家にお成りになった方です。

 それから私が先ほど申し上げたとおり、第一外語がドイツ語でしたから、卒業したときに教職の勉強をしていれば、社会科と一緒に外国語という名目でしたけど、中高の免許が取れました。これは、第一外国語がフランス語とかドイツ語を取れば当時は難なく取れたようなところがありました。教育実習は社会科でやりました。教育実習を社会科でやって、ドイツ学園では見るだけでよかった。それで免許は、それが後の日本語教師の免状に変わりました。当時はなかなか就職が難しかったので、史学科の学生はみんな教職をとっていたような気がします。とってない方は親の会社を継ぐとか、最初からそれが決まっているような方はとっていませんでしたが、ほとんどの、特に女子学生はほとんどとっていらっしゃいました。でも先生になった方は少ないです。

 今史学科の同期で活躍していらっしゃる方はキリシタン文庫にいらっしゃった筒井[砂]さん、それから青木さんとおっしゃって、旧姓柳原さんですが、青木保先生[元文化庁長官、国立新美術館館長]の奥様で、フランス語の翻訳者として中世、近世の翻訳を、地味な本をコツコツ翻訳してらっしゃいます。

 私は橋口ゼミでしたが、ほとんどの女性は、今は主婦を経ておばあちゃんです。私も例外ではありません。卒論のテーマというのは、本当にまちまちでした。先ほど申し上げたように、イスラエル史をやっているのに橋口ゼミに入っているというのはおかしな事ですが、それは先生もゼミもそんなになかったからでした。全体の学生が20何人ですから。それを国史と東洋史とそれから西洋史に分けたら、本当に少ない。磯見先生もまだいらっしゃいませんでしたし、鈴木宣明先生も留学中でしたし、白鳥先生はちょうど私共が3年生の時ウィーンに留学なさった。桑田先生という東洋史の先生がいらっしゃいました。国史は2人、吉村先生と佐藤直弼先生。本当に今は女子の同窓生は、みんな好いおばあちゃんです。

鈴木宣明名誉教授SJ(1929-2014年)

鈴木宣明名誉教授SJ(1929-2014年)

 卒論のテーマというのがまた本当に面白いのですが、女性に関してお話いたしますと、フランス語が大変達者でドレフィス事件について書いた方。それから今でも仲良くしているのですが、彼女はスペイン語を他のクラスに取りに行って、上智はスペイン語のクラスが充実しておりましたので、スペイン語をマスターし、シモン・ボリバルについて書いた方もいらっしゃいました。それから、アイルランドとか北米のテーマを選んで、今から思えば一生懸命書いたと思います。今はインターネットでなんでもある程度まで調べられますけど、当時は携帯電話がこんな大きな時代ですから。コンピューターは大型冷蔵庫くらいの大きさでした。誰もスマホなど持っていませんし、本当にいろんなことを調べるのが大変な時代でした。図書館に行くか、現地に行くか、の時代でした。

 中にアメリカ史を書いた友人がいます。今はいいおばあちゃんですが、モンロ-・ドクトリンについて書いた方がいらっしゃいました。彼女は論文がとても優秀で、総代で卒業なさった方です。アメリカの、それをアメリカの歴史雑誌に載せるから英語に直せと言われたそうです。第一外国語が英語で英語ができる方でしたから、英語で書いて載せたと聞いております。それで、アメリカの大学から引きあいがきて、だけど「私は結婚するわ」と言って断ったと聞きました。そういう時代でした。今はもうお孫さんが大学生くらいの方ですけど、そういう方もいらっしゃいます。

 それからシモン・ボリバルを卒論に選んだ友人は、彼女は卒業後京都大学に入りまして、宗旨替えをしました。農学部に入ったのです。彼女の一族は大変有名な画家の一族で、彼女はそれに反抗して歴史を勉強したのですが、今は画家になっています。これは彼女の作品です。それで南米コロンビアに住んでいらっしゃいます。ずっともう、40年近く。卒業してすぐに京都大学農学部造園科に学士入学して造園家になりました。造園を勉強してコロンビアの独立記念のコンペに庭園の設計で応募して、招聘をもらって、それでご主人と二人でコロンビアへ渡りました。子育てが終わってからコロンビアの国立アカデミーに入り直して、絵の勉強をして、今は画家です。彼女は経歴的には一番変わっているかもしれません。毎年帰ってきて、展覧会をしています。

辻潤(1884-1944年)

辻潤(1884-1944年)

伊藤野枝(1895-1923年)

伊藤野枝(1895-1923年)

彼女は国史に出てくる伊藤野枝と辻潤の孫です。それで伊藤野枝と辻潤の子供、つまり彼女のお父様、辻まことさんという方は大変絵のお上手な方で、よく、昔の婦人公論や山の本で挿絵を描いた方です。お母様はまたちょっと変わった、竹林無想庵の娘なのです。

辻まこと(1913-75年)

辻まこと(1913-75年)

竹林無想庵(1880-1962年)

竹林無想庵(1880-1962年)

 いろんな意味で大変な歴史を背負っているので、彼女がコロンビアに住んでいるのは正解かもしれません。日本にいるとそういうテレビドラマとかある度に引っ張り出されるわけですから、淡々としてられないと思います。でも今彼女は、コロンビアで絵を描いて、造園家として、庭を作って、結構有名になっています。一年に一回ぐらい日本へ帰ってきて、展覧会をして、向こうで生活するというパターンを繰り返しています。

 その他に非常に変わった方というのは、東洋史の出身ですけど、桑田先生のゼミだったと思うのですが、ハワイに住んでる方がいらっしゃいます。そのハワイにいる方は、結婚して子供さんが2人いるのですが、大学教授だったご主人が、ロシア系のアメリカ人で、それで定年後に修練を受けて、ロシア正教の司祭になった方です。ちょうどベルリンの壁が崩れて、それで旧ソ連もあっちこっちに人が出て行く時代です。それで、多くの旧ソ連領の国からたくさんの人々がハワイにもいらしたと思うのです。ロシア正教の司祭というのは妻帯だそうですが、それで彼女は司祭の奥さんをしています。ご主人を助けて司牧をしているのですが、彼女は大学では東洋史出身で、確か、ムガール帝国でのイエズス会士について書いた方だったと思います。彼女のご主人は、ロシアで革命が起こった時に一族が離れ離れになって、ご主人の家族はアメリカへきて、そのままアメリカに住んでいた方だそうです。それで、ある時どこかで会った方が大叔母様だったそうです。そのことについて本をお書きになりました。これが、その『バレンティナ』という本です。

 

 

 大叔母様の名前だそうですけど、英語で書いてあります。作者のエミコ・リョビンという方が同窓生です。本をお見せしたかったのですが、丁度今北海道にいる友人のところにいっていて、現物が私の手元にないのですが、英語で書かれた本です。彼女は上智を出たあと、ご主人がサバティカルで、アメリカの大学から日本にみえた時に、一緒にきて教育学のマスターをとり、ハワイの高校の教師として定年まで働いてらっしゃいました。

 今日は昔の女子の卒業生についてのお話という事ですが、私共の時代は卒業してすぐ結婚する方が結構いらっしゃいました。3年生くらいからお見合いをして、4年生で結婚が決まってない人というのはそんなにいない、本当に勉強する人だけ。そういう時代です。卒業して4,5年以内には姓が変わっているのが、まあ普通でした。

 それでその中に、卒業してすぐ結婚して子供ができて、そしてその子育てが終わってから、古文書の読み方を勉強なさった方もいらっしゃいます。婚家が弓道の家元だったのですが、ご主人は商社マンでした。そのご主人が亡くなってから、古文書を読んで、今の言葉に直してまとめた方、そういう方もいらっしゃいます。お見合いをして結婚するのが当たり前の時代ですから、もう74か5です。それで恋愛して結婚するという方はそうはいなかったような気もします。特に上智はみんな素直なお嬢さん達が入学する時代でしたので。

 史学科に入学しまして、すぐに当時の史学科長の長寿吉先生とおっしゃる先生が、入学式の時、全体の入学式が終わった後、今の司祭館の前で史学科の新入生だけ集めて、お話しをなさいました。なにせ人数が大変少ない時ですから、外でした。その中で大変印象に残ったお話があります。今でも海外に住んでいるお友達と会いますと、しょっちゅう話題になります。

「あなたがたが史学科で4年間学ぶにあたって、一つだけ言っておきたいことがある。世の中の事件や物事をジャーナリスティックに見ないでほしい。史学科で学ぶからには、きちんと物事の本質を見つめるよう努力しなさい。ジャーナリスティックに見はじめるとキリがない。」
とおっしゃいました。女性は違うのですが、大学では、当時はみなさんの大学時代と違って私共はやっぱりどこかを受けて、男性はどこかを受けて落っこちて、不本意ながら入ったという方がたくさんいらっしゃいました。長先生が、もうお年の先生でしたが、その先生がそういう風におっしゃいました。
「世の中にはね、ジャーナリスティックには面白そうな事がたくさんある。そういうのに一旦のったら真実が見抜けなくなる。史学科4年間で、それを見抜くように努力して学んでほしい」
入学式の後ですぐおっしゃいました。それは今でも、おばあちゃんになってというか、学問に縁のない生活なのですけど、これだけ世の中が忙しく、おかしな時代になってくると、あの長先生の言葉が身にしみます。

 2年前金祝という卒業50周年のパーティーには全部で18名が集まりました。もちろん亡くなった方も6人くらいいらっしゃいますが、その内の13名が女性でした。
卒業後25年の時、銀祝のパーティーで集まりましたが、それ以来でした。25年ぶりにパリからも、コロンビアからも久しぶりに集まって、旧交を温めました。

 そして史学科の卒業生であってよかったと思える事が多々あります。それは海外の友人たちと話す時です。知識だけでなく、感じ方の教育を受けたのは上智大学の史学科での4年間だったような気がするからです。物事の見方を、ジャーナリスティックに見ないようにと常々戒めながら過ごしているつもりです。これは色んな事件が起こる中で大変役に立ったと思います。

 今も日本語教師をボランティアですが、やっています。皮肉なことにイスラエルにおりましたのに、イラン人とか、イラクとかその被り物をしている女性を教えたりしています。ちょっと勝手が違いますが、まあ、接してみたら世界中どこの国の人でも誰でも同じだと思います。ユダヤ人も、初めてイスラエルに住んだ時抵抗が全然なかったのを思い出したりしています。ですから、どこにいても人間は人間だなと思います。

 本日は拙い話を聞いて下さってどうもありがとうございました。

【後書き】
 上智大学の女子学生については、以下のウェブのNo.39参照。
 http://www.sophia.ac.jp/jpn/aboutsophia/sophia_spirit/websophia

文中の写真や[]内の記述は、すべて豊田がウェブから勝手に拾ってきたもので、全責任は豊田にあることを明記しておきます。

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