断簡雑話
(日下さん)豊田先生からご紹介で来ました。日下[くさか]幸雄と申します。私は昭和25(1950)年、終戦が昭和20年でしたから、終戦から5年経ったときに史学科に入りました。そして、大学3年の時に体を悪くしまして、1年休学することになりました。昭和30(1955)年に学部を卒業し、大学院の修士課程まで進みました。
(豊田)指導教員はどなただったんですか?
(日下さん)指導教授は、亡くなられた佐藤直助先生[仙台市生まれ;東北帝国大学、同大学院、1941年本学講師、助教授、教授、1977年名誉教授]です。
(豊田)日本史ですか?
(日下さん)日本史です。
因みに、佐藤直助先生は、東北大の史学科を出ておられて、たしか醸造元のご子息なんです。お金持ちでございましてね。学生の時にフランス語をフランス人の神父から習って、そして東京に遊びに出てきて、その足でフランスへ行ってしまわれました。当時で外国にいくなんて大変なことで。東京に遊びにいくような話から、いきなりパリへ飛んでしまうなんていうのは、大変なお金持ちでないと、当時はとてもじゃないけれど考えようがありませんでした。そんなお方でした。私が入ったころは、先生は50代くらいで、私の父親と同じくらいで、明治39年生まれかな?
さて、豊田先生から何かお話をせよとのご下命を受けまして、何を史学科の学生に話しましょうか。今伺ったら、大学院に進まれている方がほとんどというお話でしたので、皆様には低級かもしれませんが、歴史のことをお話しようと思います。ということは、自分の歴史の考え方、歴史観の一端をしゃべれということだと考えました。実際にもう学問の道から50年も60年も離れています。個別な研究は史学会で皆さん発表されてると思いますが、ある特定のところをやってお話しするものだから、そこの分野に関係ないと、なかなかお話しが理解できない。そういうことが多いと思います。
話の突端から申します。私の生まれた昭和7年と言いますと、まだ戦前で、中国と日本の間が刺々しい状態でした。昭和12年ごろから日中戦争が始まり、そして連戦連勝で、北京、南京を落としたなど良い話ばかり聞いていたため、子供のころは、日本は強いんだなぁ、連戦連勝でいくんだなぁというような感じでした。
今のお若い方じゃ考えられないでしょうけど、天皇陛下が皇居から陸軍病院までお出ましした時の話です。昔の陸軍病院は今の国立国際医療研究センター病院で、今の戸山町にお出ましになるということで、私たち小学生は、道にゴザひいてそこに座り込まされました。そこへ、はるかむこうから天皇陛下がお乗りになった車が来ると、100メートルくらい手前から「礼」といってみんな地面に頭をこすりつけ、「直れ」というまで頭をぐっと下にし、車がすーっと通りすぎ、しばらくして「直れ」という号令がありました。昔のちょうど映画やなんかに出てくるような、お殿様を迎える人々みたいに……。そんな時代でありました。天皇陛下のお話を直接に聞くということはなく、天皇陛下というだけで、話を聞いていました。
まだ日本は(今のように)こんな風に豊かではなく、ご飯は、飯に小さい魚がつき、たくあんに味噌汁というのが当たり前で、とてもじゃないけれどコーヒーや紅茶だとか、パンを食べるなんてことは、よほどの洒落た家庭でない限りありえませんでした。非常に貧しくて、各家庭で牛乳をうちに届けてくれるのですが、大抵大きい家族で1本くらいで、それをいかに使うかが問題でした。病人や年寄りを含め、たった1本だったため、牛乳なんてのはほとんど飲んだことがないなんていう時代です。
電話も、ほとんどない時代で、電話を持ってるご家庭はほとんどありませんでした。いま皆さんがお持ちの携帯電話なんてのは、考えようもありません。その電話が私の家にありまして、ご近所の家で私どもが見も知らない人が、私どもの電話番号を自分の名刺に勝手に書いて、呼び出しをしていました。夜中、けたたましく電話がなると、「なんとかさんのお宅ですか?」「いや違います、日下でございます」というと、「電話番号にこう書いてあります。では呼び出しでしたか、よろしく呼んでください」と言われました。どこに住んでるのか、名前もなにもわかりませんでした。仕方ないので、玄関のところへ立って、近隣に向かって「おーい!なんとかさん電話だぞ!急いで来い!」っていうように触れ回りました。社会全体が今では考えようのないくらいに、みすぼらしい状態でありました。
(豊田)どの辺りにお住まいだったんですか?
(日下さん)私は、生れは牛込。新宿区牛込弁天町で、5歳のときに新宿区(旧牛込区)の若松町、現住所に引っ越してきました。そこから新宿から離れてことがありません。
ほとんど、軍国一色の時代でした。全て天皇陛下のもとに、万世一系の天皇様を中心にそして当時は段々軍部が強くなって、明治史やなんかをやってる方々は、またそれじゃなくても、ご理解していらっしゃるのだろうけれども、そういう時代の中に私は生きていました。
中学校は、私は早稲田中学に入り、終戦は中学2年の時でした。東京は焼け野原になりました。若松町は、その時代空襲の被害に遭いませんでした。ただ、[1945年]3月10日なんて大空襲で下町が燃えているときに、私の家の屋根から見ていると、見渡す限り下町が紅蓮の炎に燃えているわけです。非常にきれいだなぁというような感覚でした。まだ子供ですから、人様の苦しみだとか、大変な状態にあったことがわかりませんでした。
そして、中学生のときに友達とペンの先に懐中電灯がついているようなものを買いに、下町まで行ました。自転車に乗って行った下町は、まるっきりの焼け野原でした。残ってるのは何かっていうと、マントルピースと大きな金庫でした。そういったものが焼け野原の中にありました。道は当時、都電が走っていたものですから、レールの跡に従って、「あぁ、これはどこそこで曲がってるのか」と進み、牛込から深川の方まで片道7〜8キロを走って行きました。焼け野原の中で、きれいな女性が焼け野原の中に入っていきました。お手洗いをしに野原に入っていくのだろうと思ったら、しゃがみこんで地面の蓋を開けて、その中にはいっていくのです。昔防空壕を掘って、その中でみんな生活をしていました。そんな大きな空間は掘れていないと思うんですが、そういったような戦後でした。
昭和25(1950 )年なんていうと、23、4年までは非常に食糧需要は悪く配給などで苦しい時代でした。私が上智に入ってきて、浅野屋なんていう蕎麦屋がありました。食料品の切符がないと食べさせてもらえないんです。食べ物も非常に厳しい時代で、本当に安定してくるのは、昭和20年の後半ぐらいから徐々に徐々にものが出回ってくるような時代で、そんな時代の学生生活でした。
上智は、司祭館の前あたりの「ボッシュ・タウン」っていうのを聞いたことあるでしょうけど、米軍の…。
(豊田)あぁ、カマボコ型の
(日下さん)カマボコ型の外壁と屋根が一体となっているもので、当時、その舎監がボッシュ神父っていう名前だったので、それに従って「ボッシュ・タウン」と我々は呼んでいました。
さて、私は、歴史が好きでした。中学1年に入る頃に頼山陽の『日本外史』[1829年刊行]を読みました。全部漢文で書いてあるものだから、字も難しいし、レ点や返点も難しかったため、結局は対訳本で読みました。歴史はみなさんご存知の通り、院生のみなさんならばそんなのは当然の常識でしょうけど、各王朝の王様の事績を年代順にずっと書き記していくものが歴史です。そういう常識があるためか、どの解説本でも、ただ何があった、何があったということをずっと書いてあるもがほとんどでした。特殊な研究史の知識は私には無かったため、概説本を読んでいました。
みなさんも『三国志』なんてのは読んだことありますよね。吉川英治が書いた『三国志』[全14巻、1940-46年]は、劉備玄徳だとか、諸葛孔明だとか、張飛だとか、関羽だとかの英雄が非常に面白く、ワクワクするような思いで読みました。それは、『三国志演義』を元にして書いてあるものです。いま、宮城谷昌光が『三国志』(2004-13年)を書いて出してますけど、あれは正統な歴史書の三国史なのです。これを読んでみますと、ただ事件は淡々と積み重ねられていくため、やはり『三国志演義』の方が面白い。ただ、それは一種の講談本みたいなものなのです。だから、本のクリティックをしながら、ものは読まなくてはいけないと考えています。例えば、古田[武彦]史学なんてものがありました。東北大学の出身で、その方の歴史書を読んでいくと、明快で非常に面白く時代が書いてあります。ただ、その方は、文学の方なので、歴史を自分の考えで理解し、こうだと断定的に書かれています。そのため、一度、歴史学者と大論争がありました。歴史学者は、不文律的なもので、文献史学では、何かの本や何かの記録にきちんと書いていない限りは、そうだろうと思うけれども、ものは断定できません。古田先生が、いくら自分の主張をして、私たちもそうなんだろうと思うんだけれども、そうだと賛同できません。なぜなら、そういうものを書いた証拠的な記録がないからです。
梅原猛さんの古代史を読んでいても、非常に面白く、説得力があります。私どもも、そうだろうとは思うけれども、やはり、古代史的な状態だと、それ裏付けできる資料が十分にありえません。みなさん、そうだろうと思うという賛同しかありません。結局、文学と歴史物語は、どこがどうなるのでしょうか。
澤田ふじ子さん[1946年—]が書いた池坊専応の物語[『花僧:池坊専応の生涯』1986年]を読んでいると、室町時代の時代背景をよく踏まえて、実に理解しやすく書いてあります。しかし、あくまで小説であって、絶対的な細かな事やいろんなことは、事実とは無関係だと思うのです。歴史家は、先ほど申し上げたように、文献史学である以上は、その証拠たるものが見つからない限りは、それを断定できません。しかし歴史は史学科でなくても、歴史を説くことができます。何科であろうが、歴史を説くことができる。結局、我々は不文律的な学問の性格上、知れば知るほど、それを断定することは難しい、ということをつくづく最近は身にしみて思います。
さて、そんな時代の少年は、やがて、ただ歴史が好きだからということで、この大学の門をくぐりました。やはり、1年、2年、先生方の……非常に大先生方がいらっしゃいましたね。
ヨーロッパ史では、長寿吉先生[大分県出身、東京帝国大学卒、奈良女高師、学習院大、九州帝大を経て、本学教授]を筆頭に、慶應だとか色々な所からの応援部隊を受けながら、日本史では、辻善之助先生なんかの講義を聞いたことがある。いま、たまたま扇子を持っていて、「自分が勝つ、己が勝つ」と書いてある。いま、この「勝」という字はいまではみなさんお読みにならないでしょう。崩字を、辻先生は、反対側からみて、「これはなんという字で……」とずっと崩しの難しい漢字を読んでくださいました。それを覚えなくてはいけなかったのですが、未だに身につかず、難しいものは読めません。やはり、ある程度日本語の素養を身につけないと、古文や、色々な所に書いてあることを読み取ることすらできないということが実態です。そういった大先生がいらっしゃった……。
明治大学の先生ですが、青山公亮先生[東京市出身;1920年東京帝国大学卒、1948年上智大学教授、1949-65年明治大学教授]がいらっしゃって、中国史が非常に面白いのです。例えば、中国の埠頭における労働者の話をされました。その話によると、埠頭で朝おかゆをたいて、人々はみんなそれを金で買って食べる。ある人は、ずっと、おかゆが炊けているのに見ているだけでした。見回して、すーっと消え、またしばらくして、ずっとおかゆをみては、ギリギリいっぱいの時間まで食べませんでした。なぜそんなことをしているかというと、おかゆは上と下では、水分が多い所と、水分の濃い所があるから、濃いのを待っているんだとおっしゃいました。おかゆの上澄みなのか、下のにごりをチョイスするのか、それが中国人の現実のスタイルである、なんてお話を聞いたり、青山先生のお話は、腹抱えながら聞くお話の連続でありました。
白鳥庫吉先生[千葉県出身:東京帝国大学教授]のお孫さんにあたる、白鳥(芳郎)先生[1941年東京帝国大学卒、1948年上智大学助教授、1956- 年同教授]が30いくつの時、『魏志倭人伝』の日本の情景の所を持ってきて、勝手にどう読むかを、指導するというよりも、色々な格好で我々が好きに読むと、「あぁ、それもいいねぇ」とおっしゃったり、なんだか指導なのかよくわからないのだけれど、そういった授業を受けていました。長寿吉先生も、フランス史も非常に面白かったです。フランス革命は、当日は非常に暑かったそうで、もし当日の温度が2度違っていたら、あの暴動は起こらなかっただろうというお話を展開されて、「は〜、歴史っていうのは、温度2度くらいであんな革命が起こるのかなぁ」という感想を抱いた、面白い内容の授業でした。
私共の学生生活は、この前磯見先生がおっしゃったかもしれませんが、私の時代は、大学全体で600人くらいでした。史学科は、磯見さん、中井さん、神父さんがいたり(鈴木宣明さん、去年亡くなられたけれども)、6名、私の学年も6名。その上下をみても、東洋史専攻の方は、一人もいませんでした。大抵、国史か西洋史でした。磯見先生は陸軍幼年学校へいった大秀才でした。陸軍幼年学校っていうのは、陸軍士官学校に入る前の若い中学生から、新制高校1年くらいのところまでを勉強させるところで、当時は学校の1番、2番くらいの優秀者を集めて養成するから、幼年学校出なんていうと、大変な秀才の集まりです。磯見さんなんかは、その中に入っていて、幼年学校を出て上智にこられたから、あの方はフランス語がとても、中学時代からやってるから猛烈できました。中井先生も、お体を途中悪くして、学生生活は、通常よりも3年くらい年食われていたんじゃないかな。長先生も舌を巻くくらいドイツ語が巧みでいらっしゃった、というような先輩方でした。昭和28年卒組は、6人のうち、5人が大学教授になられました。29年組・・・。私は30年となっていますが、(1年休学したため)29年組で、学者になったのは、一人だけ、南山に教えにいったのがいるけど、あとはみんなそうではありませんでした。
詳しく知るにはその時代を研究して覚えていく。だから、量的に膨大なものを記憶し、理解しなくてはなりませんでした。私の場合はたまたま、ハーバート・ノーマン『日本における近代国家の成立』と日本語に訳されていますが、Japan’s Emergence as a Modern State: Political and Economic Problems of the Meiji Period. International Secretariat, Institute of Pacific Relations,1940というもので、出版されました。それから日本語に翻訳されて出てきました[1977年大窪愿二編訳]。その本を読むことによって、歴史の面白さを本当に理解した気になりました。このノーマン[Egerton Herbert Norman]さんは、生年月日は知りませんが、1957年4月エジプト駐在カナダ大使で、死んでしまうんです。自殺してしまうんです。そのころは、1950年代から……。1950年代っていうのは、非常に色んな年でして、朝鮮戦争が始まりました。それからアメリカで、マッカーシー旋風っていうのがありまして、アメリカの国防省内に、共産主義者がたくさんいるということをマッカーシー[Joseph Raymond McCarthy]上院議員が演説して大問題になり、アメリカで赤探しという格好で、色んな人が訴えられ、調べられ、多くの方が追放された、といった年代でした。ノーマンさんのお父さんが日本にやってきて、長野方面の宣教師をなさっていました。なので、ノーマンさんは日本生まれなんです。日本で生まれて、でも実際にはケンブリッジを卒業していました。当時、日本でケンブリッジなんて、やはりカナダの人だから、そういうような所へ行くことができたのでしょう。卒後、中国に渡って中国の色んなことを調べ、戦前の共産党的なことにある程度興味を覚え、彼は人道的な意味というのですか。若いころは私も共産思想で全ての人が財産を分かち、らくに(?)生きれるんだというようなものを一時、大抵の若者は、ある程度共産主義的なものに賛同したなんていう時代を心に覚えているわけです。多分、それしきな状態で、ノーマンはいたに違いない。カナダ大使なのに赤呼ばわりされて、それが原因だろうと思うんだけれども、カナダ大使という身でありながら、自殺してしまうというような方です。この方の歴史は、明治時代はどういうもので、どうなったか、その原因はどういう所にあるのかといって、帰納的な勉強をされました。今まで、私どもはどちらかというと、積み上げ式(演繹)の歴史をずっとやってきたのに、初めてノーマンさんによって、帰納的な学問の仕方っていうものを覚えたような気がします。非常にノーマンさんの歴史学のやり方が好きになって、それから、歴史はこういうような格好で勉強していくのがいいんだなあと私は思いました。そういう点で、佐藤直助先生も、どちらかというと、帰納的な学問の仕方を彼は教えてくださったと後になって理解しました。言葉一つ一つをとっても、「何とかを契機にして」というと、「お、日下、これは違う」とすぐに否定されてしまうんです。「これは契機じゃない。契機っていう意味合いをよく考えろ」それで、なぜ契機じゃないのかなぁと考ました。例えば、林子平の『海国兵談』[全16巻:1787-91年刊]は、彼は、世界の海は通じているという警鐘を日本にもたらしたため、それを契機だと言うと、「それは契機じゃないだろう。もっと前にいろんないわれがあるだろう」と言われました。「はんべんごろう事件」という、シベリアに抑留されていたポーランドの士官が[事実は、ハンガリー生まれ:実名モーリツ・ベニョヴスキー Móric Benyovszky をオランダ語読みした「ファン・ベンゴロ」により日本で「はんべんごろう」と呼ばれる]、シベリアからロシア船をぶんどって、逃げてくる途中に日本に立ち寄って、日本に警鐘を与えるなんて事件があったり、その当時はロシア船が日本近海に現れて、北側の北海道周辺で少々問題があったなどがありましたから……。林子平が言ったから、契機という言葉でいいんだろうかなど、非常に言葉を大事にされる、そんなことを思い出してきます。
話は飛躍しますが、私は大学院に行った時の主な研究は、ヨーロッパ文明を日本にいかに受容するかという問題でした。それで私が、研究したのは、ハーバード・スペンサー[Herbert Spencer]でした。大体18世紀の後半から、19世紀の初めに生きた、進化論を中心として、歴史の発展を紐解いていくような、史学……社会学と言いましょうか、そういった専門の方でした。結局、そういうものが[日本で]読まれたんじゃないかという見当付けで、やったのですが、残念ながら答えはNOでした。一つも影響力がなく、読まれた形跡もありませんでした。なぜならば、明治の人々がヨーロッパに行っても……例えば、福澤の『文明論之概略』[1875年]なんかを読んでも、彼が驚いていることは、郵便ポストに郵便を入れると、なんでそれで目的地に届くのだろうかということでした。日本ではそれまで、飛脚、自分で行く、または旅人に依頼する方法があり、それが本当に到着したか、してないのかも分からないままで、そうした世の中に、なぜヨーロッパの郵便は届くのか。そんなようなベースメントが理解できないわけでありました。今では郵便なんて余程のことが……郵便局員が破ったりとかしない限りは、まず確実に着くというのが当たり前です。飛脚時代から考えると、その仕組み自体が分からない。そういうものを、一生懸命探していました。実学的な、戦争に勝つためには、いかに新しい鉄砲が必要なのか、武器だとか、船を作るだとか、実学的なものへ、だいたい江戸末から明治の初期くらいまでは、向っていました。なので、社会学的なところまではとても、日本が吸収していくには時代がそぐわなかった、ということなんです。私の目論見は、的を外れて勉強していたという事なんでしょう。もうちょっと詳しく歴史的なところを考察していたならば、的を射た研究をする事ができたんだろうけれど、私の場合は空振りでした。結局、先生は、その勉強の仕方が幼稚で至らなかったけれども、ある程度そういった事に気がついた私なんかが歴史の勉強に取り組み始めたという事を評価して、卒業させてくれたんだろうと思います。自分の非常に恥ずかしいお話を展開しましたけれども、そんな時代でありました。
上智には非常に感謝し、今のこんな時代の中で、上智の標榜であるfor others, with othersっていう言葉の意味が、非常に素晴らしく、そうしなければ、我々は生きていけないんだなぁとつくづく感心し、我校がこの標榜を掲げている事を非常に誇りに思っています。
質疑応答
(豊田)大学院を修了されてから、どうされたんですか?
(日下さん)大学院に入りまして、その年の9月、史学科の先輩で、久保田恭平さんという方がおられます。北海道で、濱田彌兵衞[江戸時代初期の船長、「タイオワン事件」の実行者]に縁故を持つ方でありました。その方が、大学の図書館で本を読んでいたら、女学校の白百合学園で教師をしていた方なんだけれども声をかけてきました。私なんかは、時代が時代で、男女7歳にして席を同じくせずということでした。その時代で、女性なんてのは、話した事も、一緒に机を並べたこともない。大学院に入ったときに、女性の名前が2人入っていたから、喜んで、初めて共学ができると思って喜びました。しかし、部屋をのぞいて周り見渡しても、女性がいないのです。名前はちゃんと書いてありました。先生に女性の名前が2人書いてあるんだけれども、出鱈目なんですかと聞くと、いるじゃないかというんです。確かに後ろを見ると、尼さんの服を着た女性が二人座っていらっしゃいました。たしかに女性であることは間違いないんだけども、それが初めての共学でした。余談になりますが、磯見先生などの方々もそうでしたが、尼さんのあの下は、日本の尼さんみたいに髪を剃っているのか、ついているのか、それも分からなくて、あるときみんなで、恐る恐る「本当にくだらないのですが、その下は、剃髪なんでしょうか、有髪なんでしょうか?」なんて聞いた覚えがあります。
それで、その久保田さんに女学校の先生だからいいですね、なんて話をしたら、翌日、いきなり白百合から電話がかかってきて、とにかく学校に来いというので行きまして、いきなりフランス人の院長のところへ連れて行かれ、フランス語でペラペラ喋べられ、よく分からなかったけれども、つい、やだというのに「ウィ」って言っちゃったんです。後でいくら否定しても、お前あのとき「ウィ」って言ったと、賛同したんだということで、翌日から、9月の終わり頃だったと思うけれど、前任者が金沢大学にコンバートされ、穴が空いたので人がいないといわれ、とにかくやれと言われました。教えるものが何かというと、地理といわれたんです。人文地理。私の時代では人文地理は、小学校で聞いて、中学校で1年のときに習ったか習わなかったという感じで、大学へ行って、地理概論は習いました。途中何も知らないんです。なのに、「お前は歴史やっていて、社会科だから、とにかく教えろ」と言われました。そんなの知らないと言っても、ダメだと言われました。びっくりしてその日、神田にいって、地理の本を大量に買い、一晩で読み込みました。とにかく、何が何でもやれっていうものですから、習ったこともない地理を、教えることになりました。地理1時間教えるために、3時間くらい一生懸命に予習しないと分かりませんでした。白百合の講師を始めて、半年経って、これで勘弁してもらえると思ったんですが、また社会科の先生が病気で休むことになったため、今度は、日本史と西洋史と教えろと言うのです。これまたびっくり仰天でした。素人よりも、多少は知っているけれど、教える立場なので、嘘をつくわけにはいきません。毎日のように、大学院の勉強はそっちのけで、教科書の教える割り当てのページの本を国史も西洋史も、一生懸命、夢中になって読みました。ということで、史学科の大学院を卒業するのに4年かり、そのうちの、丸3年は、中学高校の教科書を毎日下調べする連続でした。
ただ、頭には今となっては何も残ってなくて、けろっと忘れてしまっています。実に4年勤めました。白百合学園は女子ばかりでした。大学入試[の指導]も面倒で、何気なしに佐藤直助先生に、「白百合は女ばっかりでやになっちゃう」と話したら、先生が、教授会かなんかで「日下が女の子ばっかりに教えるのやになったって言ってるぞ」という話になったんでしょう。そうしたら、私はまだ辞めると話す前に、ある日校長に呼ばれて、「先生、うちの学校やめるそうですね」と言われ、「え!?」というふうになりました。他の教授から、お前の次は、他の方を当てがうという話が来たということでした。そんなつもりはなかったけれど、それならと辞めさせていただきました。白百合を辞めてからは、成城学園で公募しているから、やってみないかと言われたため、仕方がないから成城学園に応募しましたら、たまたま採用され、丸7年くらい勤めました。その後、父親が病気になりました。その父が会社をやっていたのですが、会社の経営がどうにもなりません。十数名の会社でしたが、社員に給料を払わないと生活が成り立たないから、どうしてもやってくれということで、仕事を途中で放擲して、いまの会社[日本医学広告社、1957年設立]を引き継いでやることになりました。学校の教師は、乞食と同じで、3日やったら辞められない商売でして、大学の先生は大変だろうけど、いうなれば、中高の先生は善意を売っていれば、根底的には成り立つ商売だと、私は思っているんです。
【後書き】
佐藤直助先生については、以下の訪問記がある。武市英雄「名誉教授訪問記 佐藤直助先生」『ソフィア』29-4、1981年、99-100ページ。なお業績一覧は、『上智史學』22、1977年(http://repository.cc.sophia.ac.jp/dspace/handle/123456789/10270)
フランツ・ボッシュ師については、以下参照。
http://sophia100.jp/100/12_omoide/bu09.html
長寿吉先生については、以下参照。
長博士還暦記念論文集刊行會編輯『政治と思想:西洋史論叢長寿吉博士還暦記念』冨山房、1941年。
肖像画については、http://www2.lit.kyushu-u.ac.jp/art/post_5.php
青山公亮先生については、以下参照。
「青山公亮先生の思い出」編集委員会編『青山公亮先生の思い出』、1981年。
松崎つね子「青山公亮先生を悼んで〔含 略歴と著作〕」『駿台史学』52、1981,pp.107-110.
白鳥芳郎先生については、以下参照。
白鳥芳郎教授古希記念論叢刊行会編『アジア諸民族の歴史と文化:白鳥芳郎教授古希記念論叢』六興出版、1990年。
久保田恭平氏(ご存知の方からの情報を求めてます)には以下の論文があるようだ。
「シャトル聖パウロ修道女会(函館)の育児事業について」
http://archives.c.fun.ac.jp/hakodateshishi/tsuusetsu_04/shishi_06-01/shishi_06-01-04-01-03.htm
なお、文中の写真や[]内の記述は、ほとんどすべて豊田がウィキペディア等から勝手に拾ってきたもので、責任は豊田にあることを明記しておきます。