学会出張報告
東南アジア系アメリカ研究者たちのネットワークで開催される「ディアスポラ・東南アジア系アメリカ研究」コンファレンス「アジア系アメリカ研究の状況(The States of Southeast Asian American Studies)」が2014年10月2日から3日にミネソタ大学において開催された。これは2010年以来、東南アジア系アメリカ研究者が2年に一度集まって開催されるコンファレンスで、私は今回で初回以来2回目の参加となった。
イリノイ大学アバナシャンペン校の研究員であるロン・ブイ(Long Bui)と私は共同で、「無意識の同盟:第二次インドシナ戦争期の南ベトナムと日本の間の芸術的交流(Unwitting Alliances: Artistic Collaborations between South Vietnam and Japan during the Second Indochinese War)」と題した報告を行った。私は、ベトナム戦争期に日本でも人気を博した歌手カン・リー(Kanh Ly)と作曲家チン・コン・ソン(Trinh Cong Son)を題材に、彼らが日本で人気となったことをベトナム反戦運動との関係で分析した。ブイは、日本人映画監督長田紀生がベトナムで制作した映画『ナンバーテン・ブルース―さらばサイゴン』について考察し、発表を通して、戦争を契機として生まれた文化的交流が、日本と南ベトナムの人びとの連帯を生み出したことを述べた。アメリカにおける東南アジア系アメリカ研究において、ベトナム戦争についての研究はベトナム人を受動的犠牲者としての側面を強調することが多いが、文化的交流が生み出され、トランスナショナルな連帯を可能とする反戦運動が展開されたことの重要性を示唆する内容となった。
コンファレンスで最も印象に残ったのは、カリフォルニア大学サンディエゴ校エスニックスタディーズ学科イェン・リ・エスピリトゥ(Yen Le Espiritu)教授による基調講演「東南アジア・ディアスポラ―社会・政治批判の場として(Southeast Asian Diaspora: A Site of Social and Political Critique)」であった。講演で教授は、最近出版された著書『死体勘定―ベトナム戦争、難民、亡霊についての物語作品(Body Counts: The Vietnam War, the Refugees, and the Writing of Ghost Stories)』において、人種的不正義(racial injustice)があったとしても、なぜその不正義が、われわれに道徳的な問いや危機をもたらさないのか、そして、それはどのような形で不可視化されてきたのかとの問いに向き合ったと述べ、アメリカ社会・政治批判の場としての東南アジア系アメリカ研究の重要性を強調した。
教授によれば、凄まじい破壊をアメリカがベトナムで繰り広げることができたのは人種的不正義が根本的に批判され問われてこなかったためであり、ベトナム戦争をアメリカによるアジアでの戦争の一つとして位置づけ、アメリカによるアジアでの戦争を連関させる必要性を説いた。たとえば、タイトルにもなった死体勘定(ボディ・カウント)とは、人の体を人間の生命としてではなく、単なる塊としての肉体として数える、アメリカ社会・文化による認識論上の人種的暴力を象徴するものである。教授は、ベトナム戦争に見られるアメリカの文化・社会理解に対して、批判的視座を提供することにより、人種的暴力が自覚されない形で展開されてきたことを指摘した。
さらに教授は、人種的暴力を理解することが東南アジア系をふくむアジア系アメリカ研究にとって不可欠であると言及した。そして、特定の人種に向けられてきた暴力がいまも存在していることに人びとの関心が向けられていないことに注意を促す。教授によれば、ある集団への暴力を容認したり、暴力が顕在化しているのにアメリカ人が何も社会に疑問を抱かなかったりすることが、権力そのもののありようを示しているという。だからこそ、社会における暴力を可視化し、道徳的危機と向き合う必要があると訴える。
このため教授は、アメリカ的人種暴力を不可視化する社会認識のあり方やそれが可能とする権力作用に光を当てるために、諸研究間の新しい接合点を見つけることが重要であると述べた。たとえば、プエルトリコとフィリピンの問題をアメリカの周縁とされた地としてその共通性あるいは相互関係を探るなど、地域・時代で分断されてきた研究枠組みを結びつけることによって、その「分断」そのものが権力構造の産物であることを認識することの重要性を説いたのである。この分断の政治性を意識することによって権力構造を批判することが、分断をもたらしている権力構造を問い直し、分断された状況を克服することであるとの指摘は、エスニックスタディーズ研究者らしく、権力構造を変化させていくことを志向するものと言えよう。
教授はこの乗り越えに、希望の政治(Politics of Hope)を見出している。希望の政治とは、単純なユートピア幻想ではなく、権力によってバラバラに分断され、見えなくされている「私たち」という地域や時代を越えた主体を連帯することによって立ち上げ、権力構造を可視化することに政治的希望を見出すことを意味する。
講演を聞き、単純なアイデンティティ・ポリティックスに回収されない、人種的不正義を批判する場としての東南アジア系アメリカ研究を目指すことが、研究者や学生に求められていると感じた。アイデンティティ・ポリティックスの問題は、東南アジア系アメリカ研究にも根深い。私の例で言えば、「なぜ日本人のあなたが東南アジア系アメリカ研究をするのか」と聞かれることは日常茶飯事であり、「何を」以前に「なぜ」が先行するところに、フィールドそのものがエスニシティやアイデンティティを無批判に拠り所としているように思えることは多々ある。研究フィールドに携わるものとして、イェン教授の要請に答えることができているのか、またどのように答えていくのかについて自分自身に問い続けなければならないと感じた。
今回、イェン教授の講演を聞きそして発表する機会もあり、フィールドの問題点を意識しつつも、人種的不正義を批判し、分断を乗り越える連帯の可能性を追究したいと改めて思った。これからも東南アジア系アメリカ研究に微力ながらも貢献できるよう日本から発信して行きたいと考える。
最後に、このような機会が与えられたことに、蘭先生を初め科研メンバーの方々に心より感謝したい。
文責:佐原彩子
(大月短期大学)