北海道調査報告(李淵植)

海外研究協力者・李 淵植さんによる出張報告です
2014.12.02

東京・北海道出張報告


ソウル市立大学校
李 淵植(YI/YEONSIK)


1. 期間 : 2014年10月2日(木) ~ 2014年10月13日(月)

2. 概要

1)資料調査と実地調査

 2014年7~8月の間ロシアで収集した、戦後における日本人の引揚と朝鮮人の抑 留に関する資料を「クロスチェック」するために、日本における戦後引揚者の定着実態とこれに関する日本の学界の研究動向を調査した。特に、今回は北海道における南樺太から引揚げてきた日本人の定着実態に焦点を合わせた。現地調査は主に、10月3日(金)~ 10月 5日(日)にかけて、稚内と旭川近辺の引揚者集団定着地を調査した。そして、研究動向の調査は、10月6日(月) ~ 10月 10日(金)にか けて、北海道大学・北海道道立図書館の北方資料室で行った。

2)研究会の参加

 北海道調査が終わってから東京へ移動し、以下のように、講演会と研究会に参加した。

 10月11日(土): ヤン先生研究会(於上智大学四ッ谷キャンパス)
 10月12日(日): 第2回 引揚げの国際比較研究会(於上智大学四ッ谷キャンパス)

3. 調査内容と成果

1)旭川

 戦前、陸軍旧17師団を中心とした軍人の町であった旭川では、現在防衛省が直営している北鎮記念館がある。そこで、軍部隊が解体することにより、幕営地や軍人の寮が戦後樺太引揚者の定着地として使われた住吉町(現在、北星中学校の隣)に関する資料調査を行った上で、その跡地を巡見してみた。その結果、 17師団を中心として、その一帯が、徹底的に軍事計画都市にも関わらず、引揚者が密集した住吉町近辺は、その原則が崩れ、無秩序な仮住宅が建てられたことを確認した。いまだに、北星中学校の向かい側には、道路の走る方向と関係なしに建てられた家屋がよく見られる。

 これは、戦後海外から引揚げてきた集団が、内地の人々の間では、貧しい負担階層だけではなく、戦後日本の秩序を乱す「危険な」集団として警戒されたことを振り返ってみると、彼らの生活環境をトータルに覗くことができる端的な材料である。 それとともに、北鎮記念館の向こう側には、北海道護国神社がある。その中には、戦前と今の樺太・サハリンを再現した池があるが、その周りには、樺太か ら引揚げた人々に関する記念物や望鄕の象徴物が作られている。その内容をみ ると、引揚者の素直なノスタルジーの情緖が「護国」や「北方領土問題」と いうナショナルな物語の一環として見事に化けていることが確認できる。これは、引揚げと引揚げ言説がどういう形で、ナショナルヒストリー領域で包摂されているのかというメカニズムを見せる。

2)稚内

 稚内は地理的に日本の最北端地である関係上、戦後地域人口の2~3割が南樺太 から流入した引揚者であった。それ故、引揚者の流入による、地域社会の変化の観察が容易な地域である。それと共に、ロシアと対峙していたアメリカ軍が地域開発や引揚者対策に決定的な役割を果たした地域であるので、占領期、末端のアメリカ軍がGHQの政策にどういう形で対応したのかを観察できる。これら以外にも、稚内は、満洲や朝鮮半島からの引揚者が多かった日本本島との比較研究にも重要な意味をもっているし、引揚者集団と内地人社会との関係、南樺太の喪失に よる地域経済や職業群の変化、引揚者の団体活動の観察もできるという意味で、引揚げ研究においては見逃せない地域である。

 稚内では、聞取調査と共に戦後作られた引揚げ記念物を調査した。まず、盛田俊雄さんは、樺太引揚二世で、稚内フェリーターミナル2階で飲食店を経営して いる。彼からは、稚内における引揚者概要、峰岡村・猿払村の入植と移駐、引 揚者向の小学校の廃校過程、ノシャップ岬のアメリカ占領軍と地域民との関係、アメリカ軍の友好的な都市開発援助、樺太行きの日本人と樺太からのロシア人の観光状況等を聞いた。彼から紹介してもらった、小林一利さんは、樺太引揚三世で、彼からは、お爺さんが樺太で歯科医であって、戦後引揚げるまでソ連兵の歯を治療しながら友好的な待遇をされていたという証言を聞いた。 そして、彼の父である小林侃四郎さんは、終戦当時10歳だったが、全国樺太連盟理事、稚内カラフト会会長を務めている。彼からは、戦後引揚者団体活動の概要、平成30年団体解消準備状況、8000点にのぼる資料の展示と寄贈計画(アイヌ・オロッコ・ニブィの資料と共に)、全国樺太連盟北海道支部連合会の状況について証言を聞いた。

3)札幌

 札幌では、稚内カラフト会会長から紹介してもらった、全国樺太連盟北海道支部連合会の中松一弘事務局長から団体の解散準備状況についてきいた。それとともに、稚内・函館・旭川・苫小牧・留萌・小樽に定着した引揚者に関する回顧、公務員や鉄道員に比べ、自営業を営んだ引揚者の経済的な打撃、 1957年と1968年の引揚者給付金制度の影響、そして、2014年川崎で開く引揚資料展示会の推進状況等について聞いた。

 一連の証言により、樺太連盟の戦後活動と政治的な動き、そして会員の高齢化により、解散を予定しているところ、自分達の引揚げと戦後定着の体験をどういう内容でいかなる形で若い世代に伝えようとしているのかを聞くことがで きた。いわゆる、引揚げ二~三世が中心になっている現状の観察ができた有益な 聞取調査であった。

 このような、聞取調査を裏付ける文献資料は、北海道大学と北海道道立図書館の北方資料室で収集した。具体的な資料は、別添の日本出張調査報告で書いて いるので省略するが、主に北海道の中で、重要な引揚者の流入都市の受け入れ体制と定着状況に関する資料を集めた。おそらくこの資料を分析すると、大陸からの引揚者が多かった日本本島との比較や、北海道の中での地域差の観察ができると考えられる。

4)東京

 東京では、共同研究会の講演と発表会に参加した。講演は、大坂生まれの母親と台湾出身の父親、台湾・日本・ブラジル・アメリカなどを体験した、国境を越える個人の立体的な体験が人間の移動研究にどういう点を示唆するのかを考えさせる印象的なトークだった。それと共に、発表会では、グロバールな観点から、民族葛藤や戦争と平和に関する議論ができ、サハリン先住民に関する研究過程を個人の研究サイクルの中で位置づけることを聞きながら、私自身の研究状況と今の位置を相対化するよい切っ掛けになった。

 要するに、今回の北海道の引揚げ問題を調査した結果、今までの引揚げ言説は、帝国の周辺である、北方や南洋・南方の引揚げ研究が進展するなかで、 もっと多様な形で多層的に取り上げられる必要があると深く感じた所である。

記念碑

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