日時:2005年6月26日(日)13:30-18:00
場所:東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所セミナー室(301)
出席者:19名
18世紀以降、東南アジア島嶼部への移民活動を活発化させたアラブ人は、以前よりその存在と重要性を指摘され、それらに関する研究も近年は特に活発になされつつある。しかし、そうした研究はジャワ、シンガポールのアラブ人に集中し、それ以外の地域のアラブ人に関する研究はまだまだ少ないのが現状である。本報告では、従来の研究の間隙を埋める一端として、1772年にアラブ人指導者のもとで建設された西ボルネオのポンティアナクという都市の事例を取り上げる。
ポンティアナク設立以前より、西ボルネオには海岸部にムンパワ(Mempawah)、スカダナ(Sukadana)、サンバス(Sambas)、内陸部にはやランダック(Landak)、サンガウ(Sanngau)といった港市がランダック(Landak)川、カプアス(Kapuas)川沿いに存在し、それらの都市は内陸部のダヤックと、森林産物や米、織物などの交易を行っていた。また、18世紀後半からは中国人移民によって開発・採掘が進んだ金やダイヤモンドなどの鉱物資源が交易品に加わった。こうした交易を基盤とした都市の支配者達はしばしばお互いに婚姻関係を結び、バンテンやジョホール等とも関係を結んでいた。
ポンティアナクを建設し、その後代々スルタン位を受け継いでいったアル・カドリー(al-Qadrトォ)家は、東南アジア島嶼部の殆どのアラブ人移民がそうである様に、イエメンのハドラマウト地方出身である。Sayyid Husayn bin Aḥmad al-Qadrトォは、ハドラマウトのタリーム(Tarトォm)で学問を修め、マラバール海岸に数年間滞在した後、1730年頃にマタン(Matan)に到来し、そこで教師と裁判官を務めた。彼とマタンのスルタンに繋がる血筋のダヤック人の内妻との間に生まれたSayyid ʿAbd al-Raḥmト] (Yナォsuf)も、ムンパワの支配者の娘やバンジャルマシンのスルタンの娘と結婚し名声と地位を強化した。また、彼は交易で蓄えたお金で武装船を装備し、徒党を組み、ボルネオからスマトラ島に至る海域で海賊行為を行った。その後、バンジャルマシンやムンパワの支配者と折り合いの悪くなった彼は、1772年、当時無人の地であったカプアス川とランダック川の合流地にポンティアナクを建設した。内陸部との外の海域世界とを結ぶに要地に位置したポンティアナクは交易の要地として発展し、また、ジョホール・リアウのRaja Hajiの協力の下、サンガウを征服し、彼からスルタンの位を受け取った。その後、1779年にオランダと協定を結び、スルタン位の承認と引き替えに徴税権を譲渡するなど、オランダの保護と引き替えに、次第にオランダの「支配下」に入っていった。その協定は1791年から1818年の間、オランダがポンティアナクから撤退していた期間を挟むが、何度かの改訂を経ながら継続された。
ポンティアナクのアラブ人は他の東南アジア島嶼部と同様に、マイノリティであった。彼等の人口に関しては、1811年までに約、アラブ人100人、ブギス人1000人、マレー人3000人、中国人10,000人がポンティアナクにいたとの、当時イギリス人の記述があり、Berg[1]は1885年には1222人のアラブ人がいたと述べている。そうしたアラブ人は主にスルタンとその一族である支配者層と建設以降の移住者に大別でき、更にBergは移住者の中でも、ハドラマウトから移住してくる「純血」のアラブ人の勢力に対する、現地の住民と「混血化」したアラブ人の警戒心を記述している。彼等「純血」のアラブ人と「混血」のアラブ人がどの様に区別、認識され、どの程度の割合であった等は判然としないが、移民者は殆ど男性であったことを踏まえると、年代が下るに連れ、相当数の「混血」がいたと推測される。また、西ボルネオでは、植民地政府は、アラブ人を「外来東洋人」ではなく「マレー人」と見なすなど[2]、当時の記述の中における「マレー人(原住民)」の中には「アラブ人」が含まれている可能性があり、また、その逆の事例もあったと考えられる。
スルタンとその臣下の起源は、Sayyid ʿAbd al-Raḥmト]がポンティアナク建設以前に徒党を組んで活動していた時期に遡れ、その関係は一種の契約に基づいた関係であった。マレー人、ブギス人、アラブ人からなるその臣下は軍役(都市の防衛)の代わりに税を免除されていた。統治制度や政権の実体に関しては不明瞭な点が多いが、慣習や儀礼はジョホール・リアウや、バンジャルマシンといった、周辺国家の宮廷から取り入れていたとされ、初期の頃は「アラブ様式」の儀礼も取り入れられていた。また、スルタンは、オランダに徴税権を引き渡すまでは河川上の関所において交易税を徴収し、交易支配のためにしばしば周辺の港市に対し攻撃を仕掛けていたが、成果は余り芳しくなかったようである。中国人に対しては人頭税や出入国税等の様々な税金を課していたが、都市外の内陸部のダヤックや中国人に対する支配力は強くなかった。オランダとの協定成立以降は、徴税権や彼等に対する支配権をオランダに譲渡し、代わりに一定額の収入を受け取った[3]。
ポンティアナクのアラブ人に対し、スルタンは定住を勧め、交易上の特権を与えていたが、その特権はオランダの意向で徐々に廃止されるなど、徐々に交易におけるアラブ人の勢力は弱体化していった。一方、一般的に蘭領東インドにおいてアラブ人を含む「外来東洋人」は土地の取得に関しては制限されていたが、ポンティアナクにおいてはアラブ人の土地所有が進み、19世紀後半にはポンティアナクの耕作地のほぼ半分がアラブ人の手にあったとされ、ココナッツ栽培を初めとする農園経営が行われていた。こうした農園経営における繁栄もあり、Bergの挙げる統計資料によれば、ポンティアナクのアラブ人は他の都市のアラブ人と比べ、スルタンを筆頭にそのアラブ人人口の割合に対して裕福なアラブ人が多い。
最後に今後の研究のポイントを挙げておきたい。第一点は、この時期の西ボルネオを考える上で重要なファクターである、オランダ、周辺の公司や港市といった勢力との関係の中で、ポンティアナクがどの様な役割を果たしていたかという事である。第二点は、そうした状況下での、ポンティアナクにおけるアラブ人の活動である。スルタンと臣下との関係を含むその政権構造やスルタンの権限も残されている課題であり、特にその権限についてはオランダとの協定以前とその保護下に入ったそれ以後、また、その協定の文面と実践の齟齬にも留意する必要がある。こうした点を今後更に明らかにし、考察することで、当時の周辺地域の状況やアラブ人移民全体の動きの中でのポンティアナク及びそのアラブ人の位置づけが可能となり、更には当時の東南アジア島嶼部世界とそこでのアラブ人の役割を理解するための、新たな一助となるのではないだろうか。
注
1. Van den Berg, L.W.C., 1886, Le Hadhramout et les Colonies Arabes dans l’Archipel Indien Imprimerie du Gouvernement, Batavia.
2. 少なくとも1880年代まで、西ボルネオでは「街区制度」は導入されていないが、「許可証制度」は1865年に導入されている。
3. 年間42,000ギルダー(後に増額)を受け取っていた。これは周辺のオランダの宗主権下に入った都市と比べ、格段に多い金額である。
新井和広氏(AA研非常勤研究員)により表題の報告があった(報告者による要旨):
本発表の目的は(1)写真資料によってハドラマウトや東南アジアに移住したハドラミー移民を紹介すること及び(2)ハドラミーの中でもサイイドと呼ばれる人たちが残している系図文献が、彼らのアイデンティティ形成にどのような役割を果たしているのかを論じることである。このうち(1)は、映像資料を使用することを主たる目的としていたので、ここでは(2)についてのみ説明する。
サイイドとは預言者ムハンマドの子孫と言われる人びとで、現在はイスラーム世界全域に居住している。ハドラマウトのサイイドは、その中でも10世紀にイラクのバスラから移住した人物(Ahmad b. ʿIsa al-Muhajir)の子孫であり、歴史的にもハドラマウト社会において重要な役割を果たしてきた。彼らは16世紀以降、インド洋沿岸地域への移民を本格化させ、17-8世紀からは東南アジアへの移民も活発化させた。現在でもインドネシアのジャカルタにサイイドの団体(アラウィー連盟)があり、氏族の結束を図っている。
サイイドにとって系図は重要な意味を持っている。彼らがハドラマウトに移住した当初、彼らの血筋を疑う者が現れたため、サイイドの一人がバスラまで行き、そこのサイイドとの血縁関係を証明した。つまり、系図とは自己の血統を証明する書類であり、一族の血統を記録することはサイイドのリーダーの重要な義務となっている。しかし、ハドラマウトのサイイドが現在使用している二つの系図書の成立は比較的新しい。ひとつは各家系の大まかな関係を記した『真昼の太陽の書』と呼ばれる本であり、もうひとつは個人名まで記載されたより詳細な系図の書である。これらの書は、19世紀にハドラマウトでその原型ができあがったが、前者は20世紀はじめにインドのハイデラバードで出版され、後者は1950年代にインドネシアで現在の形になった。ハドラマウトではなく、遠く離れた地でなぜこのような系図が完成されたのだろうか?
上述のように、ハドラマウトの人々はインド洋世界への移民活動で知られている。『真昼の太陽の書』が出版された20世紀初頭は、移民の規模が頂点に達していた時期で、移住先では移民の2世、3世が大量に生まれていた。彼らのほとんどは移住先の人々との間の混血であり、サイイド、さらにはアラブとしてのアイデンティティを保つのは困難であったに違いない。つまり、『真昼の太陽の書』の出版は、当時のサイイド達が陥っていたアイデンティティ危機に対するひとつのリアクションであったと考えることができる。その証拠に、『真昼の太陽の書』はハドラミー・サイイドの各家系の起源や歴史上の著名人を明らかにし、家系間のつながりを全体的に捉え、更に主要な移住先を示すことで、ハドラマウト外で生まれたサイイドが、自分の血統上の位置を把握できるようになっている。これは、詳細な血統を記録することを目的としていた従来の系図書には見られない特徴であるとEngseng Hoは指摘している。
それではもう一つの、より詳細な系図の方はどのような発展を遂げたのだろうか?これはハドラマウトで作成された原型が1920年代以降にバタヴィア(ジャカルタ)に運ばれ、その後更新作業を経て1950年代に完成されたものである。1920年代は、東南アジアのハドラミー・コミュニティーの中でサイイドの地位をめぐって激しい議論が交わされていた時期であった。つまり、この系図もまた、サイイドの結束を高めるために東南アジアに導入されたと考えられる。これらの点を考慮すると、この時期のハドラミー・サイイドにとっての系図とは、アイデンティティ危機を乗り越えるための道具であったと見ることができる。
『真昼の太陽の書』からは、その後いくつかの派生文献が生まれた。まず、1964年に出版された『氏族の奉仕の書』という本の中で初版の内容が見やすい書式で書き直され、1984年出版の『真昼の太陽の書』第3版では書式の改良に加えて本文の数倍にも及ぶ脚注が付けられた。これらの事実は、『真昼の太陽の書』が現在でもハドラミー・サイイドに必要とされているのみならず、参照文献や歴史書としても発展し続けていることを物語っている。近年では『真昼の太陽の書』の内容をまとめた系図のポスターがインドネシアで印刷され、ハドラミー・サイイドの家に飾られたりしているのを目にするようになった。一方、詳細な系図の方はジャカルタの「アラウィー連盟」に保管され、外部に公開されることは絶対にない。これら「開かれた系図」と「閉じられた系図」をうまく使い分けることによって、ハドラマウト出身のサイイド達は、コミュニティーのアイデンティティ保持と、外部への宣伝の二つの機能を系図に持たせていったのである。
新井氏によるジャウィ定期刊行物リスト作成の中間報告があり、配布資料としてジャウィ定期刊行物リスト1(シンガポール、マレーシア、ブルネイの新聞)、同リスト2(インドネシア国立図書館所蔵の雑誌)、同リスト(インドネシア国立図書館所蔵の新聞)が配られた。リスト1には雑誌が抜けていること、リスト2にはジャウィでないものも若干含まれること、3つのリストには重複があることなど、今後の研究の基礎データとしてこのリストの精度をより高めていく必要性が指摘され、さらに作業を進めることが確認された。
“Pendahuluan” al-Huda, No.1(1930), Batavia, pp. 2-6 (今回の翻字は前回の修正案を含めてp. 6まで、和訳はpp. 2-3)。テキスト・翻字提供:新井和広氏、和訳担当:菅原由美氏。今回はここまでの報告に時間を割いたために、テキストを十分に検討する時間がなかった。そこで、現時点で翻字したところまでのきっちりとした和訳を次回の研究会で最終的に作ることが確認された。
次回の第25回研究会は10月2日(日)の午後より開催する予定とし、夏休み中の調査や参加した学会の報告に続いてal-Huda誌の講読を一段落させることとなった。
(文責:青山 亨)