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第14回研究会報告

日時:2002年10月12日(土)13:00-19:00
場所:上智大学四ッ谷キャンパス10号館3階322号室
出席者:13名

1. ジャウィ誌「カラム」記事の見出し講読

レジュメ担当者:西 芳実(東京大学大学院)

山本博之氏が提供した講読テキスト,「カラム」誌記事の見出し32点の翻字,翻訳を検討した.「カラム」誌は1950年代にシンガポールで発行されたジャウィ誌である活字で印刷された日本語や欧語の新聞雑誌の見出しとは異なり,手書きで,しかも装飾が付されていたり,図案化されているものもあるので,アラビア文字にかなり慣れていないと意外に読みにくい.欧米や中東,インドネシアやフィリピンのムスリムに関する記事の見出しが含まれており,記事の内容に対する興味をかきたてられた.「カラム」を資料として用いた研究の例としては,本研究会における山本博之氏の報告(要旨は本ニューズレター第1号14-15ページに掲載)がある.次回研究会では「カラム」誌掲載記事を実際に読む予定である.<川島 緑>

2. マレー語圏におけるジャウィの概念 西尾寛治(東京女子大学)

本報告では,マレー語圏における「ジャウィ」という概念の歴史的展開について,表記法としてのジャウィ,民族的カテゴリーとしてのジャウィという二つの側面からの検討がなされた.

はじめに,「マレー(ムラユ)世界」という地域世界の定義に関して,まずこれをインド洋海域世界の中の一つの境域として位置付け,さらにマレー世界の特徴をイスラームとマレー語,およびマレーの慣習という3つの要素によって表現する考え方が提示された.ここでは,マレー世界が,そのインド洋海域世界の中における位置付けのゆえにハイブリッドな文化を生み出してきたことが指摘された.

ついで,まず表記法としての「ジャウィ」の歴史的展開について,「マレー世界」の形成・発展と関連させながら分析が行われた.報告者はヌル・アル・ディン・アル・ラニリ,アブドゥラー・ビン・アブドゥル・カーディルという二人のアラブ人を例に取り,彼らがジャウィを用いた著作によって,西アジアと東南アジアとの媒介,あるいは植民地支配と現地社会との媒介としての役割を果たしたことを示そうと試みた.アル・ラニリについては,ハムザ・ファンスーリらとのイスラームの教義をめぐる論争について,また彼が執筆したイスラーム神学,法学その他に関する多数のキターブ・ジャウィについての説明がなされた.またアブドゥラー・ビン・アブドゥル・カーディルについては,彼がタミル人的な容貌とアラブ人としての自意識を持っていながら,マレー語を高く評価し,マレー人としての帰属意識を持っていたことが紹介され,彼がイギリス領シンガポール,ムラカで語学教師や通訳を務めたこと,またマレー王権や社会に対する批判的著述を行っていたことが説明された.他にもマルスデンやクロフォードの著作や「ヒカヤット・アブドゥラー」などにおいて「ジャウィ」がどのように説明されているかの事例が紹介された.

第二の民族的カテゴリーとしてのジャウィについては,「マレー人」というカテゴリーとの対比において説明がなされた.ここでは,イブン・バトゥータに始まり,20世紀に至るまでの幾つかの事例が紹介され,民族的呼称としての「ムラユ」と「ジャウィ」がどのように使用されてきたのかが示された.特に,19世紀のペナンやクダーにおいて,Jawi Pekan(街に居住するジャウィ)という語が外来の(特にインド人)ムスリムを指す語として使用されていたこと,また混血のジャウィを意味するJawi Peranakanという語が出現してくることなどが注目された.

結論として,(1)表記法としてのジャウィについては,それが西アジアと東南アジア,あるいは植民地支配者と在地社会を媒介する役割を果たしながら,イスラームの浸透と共通語としてのマレー語の地位の発展に寄与し,「マレー世界」の形成と発展を促す働きをした,と説明された.一方,(2)民族的カテゴリーとしてのジャウィについては,(1)の変化に対応して変化が起こった可能性が指摘され,「ジャウィ」から「マレー人」へという呼称の変化が起こる一方で,従来在地のムスリムを指す語であった「ジャウィ」が外来のムスリムを指す語へと変化した可能性が示唆された.

質疑応答では多岐にわたる問題が提出されたが,結論の(1)については,この結論が「マレー世界=ジャウィが使用された世界」という定式化を意図したものであるのか,という質問がなされた.これに対して報告者は,そこまで明確な定式化は意図しておらず,文字表記の獲得によってマレー語の共通語としての地位が維持され,発展したという点を指摘したに過ぎない,と回答した.さらに関連して,アラビア文字以外の文字が使用されるという可能性が存在しなかったのか,という点が問題とされたが,これに対しては,現実には14世紀以降ヨーロッパの影響を除いてはアラビア文字以外の表記法は見られないこと,イスラームとの結びつきにおいてアラビア文字が特異な地位を得ていたことが指摘された.

結論の(2)については,報告者が挙げた個々の事例はそれぞれ個別の立場からなされた言説であり,それらの特殊性を考慮することなしに民族的概念の変化という結論を引き出し得るのか,という疑問が提出された.これについては,報告者はいまだ分析が不十分であることを認めた.特にJawi Peranakanという語については,同名の新聞が発行されていたことが知られており,それらの分析によって概念の更なる検討が可能であろうことが指摘された.最後に,結論(1)と(2)との関連性についても質問がなされたが,この点についても更なる概念の整理が必要であるように思われた.<國谷 徹>

3. 西スマトラのジャウィ文書窶・0世紀前半のイスラーム関連出版物から窶煤i中間報告)服部美奈(岐阜聖徳学園大学)

西スマトラではアラビア文字表記のマレー語をアラブ・ムラユ(Arab-Melayu)と呼ぶ.発表者はまずオランダ植民地時代に進められた西スマトラのアラブ・ムラユ文書の研究史をGerard Moussayの研究に基づいて概説をおこなった.Moussayによると,アラブ・ムラユ文書の研究はパドリ戦争後に始められ,研究史は大きく二期に別れる.第一期は1870-1900年にJ.L.vam der Toornなどによって進められ,主にアラブ・ムラユの翻字方法が模索された時期であった.第二期は第一期から20年ほど間をあけ,1920-1935年にカタログ編集と辞書の作成が中心に行われた.カタログ編集は,第一期のToornの翻字を基本とし,S.van Ronkelによっておこなわれた.1935年にはM.Thalib gl. St. Pamoentjakによってアラブ・ムラユ文字のミナンカバウ語の辞書Kamoes Bahasa Minangkabau / Bahasa Melayoe-Riau.が出版された.

次に,西スマトラでイスラーム改革運動が盛んであった20世紀前半のイスラーム関連出版物とその使用文字について解説がなされた.1911-1920年に,西スマトラではイスラーム系雑誌が9誌発行されており,その全てがアラブ・ムラユを使用していた.9誌中8誌は,近代イスラーム学校が発行したものであり,1誌のみが伝統的プサントレンから出版されていた.アラブ・ムラユを用いた雑誌はタレカット及び慣習(アダット)を批判し,イスラーム改革思想を普及させることを目的としていた.西スマトラで最初に発行されたイスラーム雑誌「アル・ムニール」は,エジプトで発行されていたイスラーム改革派の雑誌「アル・マナール」から強い影響を受けていた.

この時期の雑誌の編者は19世紀後半にミナンカバウで教育を受け,メッカで研鑽を積んだ世代であり,植民地政府系の学校で教育を受けていなかった.彼らは西スマトラ社会の啓蒙のために,雑誌を発行したが,彼らが対象としたのは,若い世代だけではなく,伝統的なイスラーム教育に携わるウラマー達をも視野に含めていた.従って,編者・読者両者ともにアラブ・ムラユで書かれたものにより親近感を持っていたと考えられる.

西スマトラを代表する改革派ウラマー,アブドゥル・カリム・アムルッラー(1879-1945)は,1907-1940年の間に30冊の本を執筆し,そのうち23冊はアラブ・ムラユを用いて執筆している.

ところが,この傾向は1921-1940年には大きく変化し,この時期には発行されていた27誌のイスラーム系雑誌のうちアラブ・ムラユを使用していたのは3誌のみであり,他はローマ字使用となっていた.1920年以降に,植民地政府系の学校でローマ字で学ぶ若者達の数が増え,彼らが雑誌の編集を担うようになっていったことが,アラブ・ムラユは次第に使用されなくなっていった理由であると発表者は推測した.

出席者からは,イスラーム改革運動が盛んであった1900-1920年の間に研究が進まなかったのはなぜか,ローマ字への翻字と文章上でのミナンカバウ語・マレー語の差異化は関係があるか,ミナンカバウ語概念の成立はいつか,近代派または改革派,伝統派という用語の使い分けはどうするか等の質問が出た.<菅原由美>