成果公開

講演

上智大学研究機構イスラーム研究センター主催連続講演会
「イスラームおよびキリスト教における崇敬の人類学:一神教の聖者たち、聖人たち」
(Sophia Open Research Weeks 2020連携)

第0回 11月16日(月) 赤堀雅幸(上智大学総合グローバル学部教授/イスラーム研究センター長)
「イスラームおよびキリスト教の聖者・聖人崇敬概説」質問と回答

Q01: カトリックとプロテスタントで聖者崇敬に対する立場が違い、イスラームでも聖者崇敬に賛成の立場と反対の立場があることはわかりましたが、イスラームでも宗派によって聖者崇敬のあり方が違ったりするのでしょうか。

A: イスラームで宗派の違いというと、スンナ派とシーア派の違いがもっとも大きな区別になりますが、民衆的な聖者崇敬についていうと、宗派による教義上の大きな違いはありません。むしろ、スンナ派の間で、イスラーム法をどのように捉えるかという法学派の立場によって、聖者崇敬の民衆的な実践に対する寛容さに違いがあるということが言えます。また、シーア派ではスンナ派に比べるとスーフィズムと呼ばれるような運動があまり活発ではないため、スンナ派では支配的なタイプであるスーフィー聖者が、シーア派ではさほど支配的ではないということもあります。その一方で、シーア派の指導者であるイマームの初代であるアリーからの血統を重視する立場から、代々のイマーム(エマーム)が崇敬されるというのが、シーア派で広く見られます。[回答者:講演担当者、赤堀雅幸]


Q02: 基本的な知識も無いため、稚拙な質問ですが、アブラハムの宗教とされる信仰の対象神は同一ではないのでしょうか。聖書とコーランなどの違いがあっても、ユダヤ教が枝分かれしたもののように考えていましたが、間違いでしょうか。

A: ご質問の通り、ユダヤ教、キリスト教、イスラームにおける神は同一の存在です。この3種の宗教はいずれも、アダムあるいはアブラハムから始まる系譜のなかで現れる唯一神(ヘブライ語で「ヤハウェ」、アラビア語で「アッラー」)のみを崇拝し、言語学上の区分に従って「セム的一神教」ともいわれます。ただ、キリスト教、イスラームは先発の宗教に代わって唯一神の新しい教え(啓示)を広めるという目的で生まれたことから、ご指摘いただいたように聖典はそれぞれ異なり、また預言者に関する理解など様々な相違点もあります。例えばイスラームでは、ユダヤ教徒、キリスト教徒は同じ神から啓示を受けた聖典を有する「啓典の民」と認識される一方で、キリスト教の創始者イエスは神の子ではなく、あくまでただの人間の預言者として扱われます。[回答者:イスラーム研究センター特別研究員、近藤文哉]


Q03: イスラームでは、アッラーの前に全ての信徒が平等だと考えていたのですが、なぜ、特別の人が聖者になれるのですか?また、どのようにすれば、聖者と認められるのですか?聖者と認定する組織はありますか?

A: すべての信徒がアッラーの前に平等に扱われることと、審判の日に生前になした善悪の多寡によって天国にいくか地獄に行くかが分かれるように、人がその行いによって区別されることは別のことであると考えられます。他方、預言者が属していたクライシュという部族の人々は特別な人々であるというような考え方も広く行われ、これに対してムスリムとしての平等性を冒すとして批判が浴びせられることもありました。聖者を選ぶのは神で、基本的になぜ選ぶのかは神だけが知っているとされます。何かをするのではなく、聖者の上に奇蹟という人間には行いえない現象が生じることで、その人が聖者であることが一般の人には了解されます。以上はキリスト教にも共通の考え方です。聖者を認定する組織はありません。人々がある人物を聖者と考えるか否か、そのように考える人がどれくらいいるかがポイントとなります。[回答者:講演担当者、赤堀雅幸]


Q04: イスラームの聖遺物に興味を持ちました。預言者の足跡以外に、どのようなものがありますか?また、偶像崇拝が禁止されているように思っていましたが、足跡は認められるのですか?

A: 預言者や聖者の身につけていた衣服やサンダル、預言者が書いた手紙、預言者が使っていたクルアーン、剣などがよく知られています。遺体とその部分を聖遺物とみなすことはめったにありませんが、生前に体から離れた身体の一部、ヒゲ、歯、爪などは聖遺物として扱われる例があります。人や具象的なものを描くことが偶像崇拝としてイスラームで禁止されているというのは、やや誤解を含んでおり、禁止されているのは神を視覚的に表現したものとしての偶像(サナム)であり、また神以外のものを崇拝すること(シルク)です。足跡についていえば、それは神を表象しているわけではないので、サナムには当たらず、また、足跡を崇敬し、それを通して預言者に思いを馳せるなら大丈夫ですが、足跡そのものを崇めれば、それはシルクの罪を犯したことになります。この点はまさに崇拝と崇敬の区別によるもので、キリスト教にも共通の論理です。[回答者:講演担当者、赤堀雅幸]


Q05: 神と人との仲介としての聖者に関して、取りなしの観点から説明されていましたが、人々の神への祈念が満足のいくものではなかった場合、聖者はその不満と責任を神の代わりに受け取るという緩衝的な役割を担い、それによって神の無謬性が維持されるという見方もあるのではないでしょうか。そのような事例がございましたら、ご教示いただければと思います。

A: 祈念をかなえるのはあくまで神の判断によるので、結果のいかんに異議を唱えるべきではないという考え方が正当です。とはいえ自分のことは棚に上げてとうのはありがちで、さすがに神を呪う言葉を聞くことはそうそうあるものではありませんが、小説や映画など創作作品などにも祈念したのに願いが叶わなかったことで聖者に悪態をついて窘められるというような場面はときおり出てきます。また、あまり祈念に応えてくれないというような評判が立って人気を失い、次第に人々から忘れられていくような聖者もいるでしょう。ただ、調査地で、聖者が緩衝として役割を果たしているというほどに、聖者に責任を押しつけるような見方に出会ったことはありません。むしろ、本当に聖者かどうかが疑われる方向にいくといった方がよいでしょうか。[回答者:講演担当者、赤堀雅幸]

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  • ジャウィ文書研究会アーカイブ
  • 上智大学・早稲田大学共同研究 アジア・アフリカにおける諸宗教の関係の歴史と現状
  • 上智大学 イスラーム地域研究(2015)
  • 大学共同利用機関法人 人間文化研究機構
  • 国立民族学博物館現代中東地域研究拠点
  • 東京外国語大学拠点
  • 京都大学拠点
  • 秋田大学拠点
  • 早稲田大学 イスラーム地域研究機構
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