研究発表
WOCMES Seville 2018(Fifth World Congress for Middle Eastern Studies)での研究発表②(2018年7月16日(月)~22日(日)セビーリャ)
2018年度報告
《PA-187》 Religious Practices Using Commodities in Consumer Societies.
【オーガナイザー】二ツ山 達朗(平安女学院大学)
【日時】2018年7月18日(水)17時00分~19時00分
【場所】セビーリャ大学111室
【座長】二ツ山 達朗(平安女学院大学)
【研究発表】
近藤文哉(上智大学):Mawlids and “Mawlid Sweets” in Contemporary Egypt: Festivities beyond a Specific Time and Space.
二ツ山達朗(平安女学院大学):Qur’ānic Commodities in Ordinary Muslims’Space: Focusing on Interior Ornaments and Calendars in Tunisia'
小牧幸代(高崎経済大学):The Cult of Islamic Relics and the Religious Goods in Contemporary India
藤原久仁子(甲子園大学):Holy Water for a Subtle Flavor in Cooking and Relationships: Dimensions of Daily Consumption of Religious Materials in Catholic Malta
【発表要旨】
近藤文哉(上智大学)
エジプトの祝祭に関する報告を実施した。エジプトの預言者マウリド(預言者や聖者をたたえる祝祭)は、これまでスーフィー(神秘主義者)の儀礼がとりわけ注目され、時間的・空間的に限定された祝祭であると述べられてきた。しかし、アルーサ(花嫁人形)と呼ばれるマウリド特有の商品の生産・販売・消費に注目することで、マウリドはより時間的に長く、幅広い空間で行われる祝祭であると近藤は主張した。
二ツ山達朗(平安女学院大学)
チュニジアのドーズにおけるクルアーンの章句が書かれたカレンダーを対象とした発表を行った。彼は、調査地でのカレンダーの大部分がクルアーンの装飾を用いているクルアーンカレンダーである事実を指摘した。そして、インフォーマントがそれらを選択する理由のひとつに、クルアーンカレンダーが広告として様々な会社によって無料で配布されている点を明らかにし、さらに、クルアーンカレンダーの製作手法等を詳細に解説した。
次に、クルアーンカレンダーは「廃棄は禁止である」とされながらも、毎年配布され増え続ける点が指摘された。それに対して、広告を除外して装飾部分のみ残している事例が紹介された。
質疑応答では、実際に現地の人々はカレンダーを、装飾部分を含め本当に捨てているかどうかという点などについての質問が挙げられた。
小牧幸代(高崎経済大学)
インドにおけるここ20年増加・多様化しつつある宗教グッズについて報告を行った。事例1の聖者Hzrat Nizamuddinのモスクにおける預言者マウリドでは、近年になってより多くの宗教グッズが販売されていることを指摘した。また、事例2では、Muinuddin Chishtiのモスクを例に挙げ、聖遺物としての髪が2000年代になって新しく一点加えられたことが述べられた。
こうした聖遺物崇敬や宗教グッズの多様化の背景には、ヒンドゥーナショナリズムの活発化と、それに伴うヒンドゥーの宗教グッズの増加、タリバンの顕在化、経済の自由化、コンピュータの普及による複製技術の発達など様々な状況があるという。
新しい宗教グッズには、トルコのトプカプ宮殿の展示物をモチーフにしたものがあり、それは展示会の写真集が参考にされているとも指摘された。グッズは中国でも作られ、年に数回グッズを買い付けに行く者も存在する。
最後に、事例1と2のモスクにおける預言者のマウリドの盛況さは、そうした宗教グッズによって感化された人々の需要に合うものであると述べられた。
藤原久仁子(甲子園大学)
現代のマルタ共和国のカトリックにおける邪視evil eyeと聖水holy waterについての報告が行われた。
まず、ニューエイジのスピリチュアリズムは現代のカトリックにおいて主題となっていることが指摘され、悪魔祓いExorcismの一種である救済Deliveranceがそれを扱うものであると整理された。また、邪視は、魔女など特定の人々によるとされていたものの、最近では誰もが悪魔によって行使できるようになったという。これは、邪視の被害者が加害者にもなりうることを意味する。そして、それに対する手段として聖水が家庭など様々な場面で使用されるようになった。
以上の事例からは、宗教的対象の世俗的消費というねじれた傾向がみられるという点が指摘された。
(文責:近藤文哉 上智大学大学院
グローバル・スタディーズ研究科博士後期課程)