上智大学 大学院 グローバル・スタディーズ研究科地域研究専攻(SGPAS) Sophia University, Graduate Program in Area Studies, Graduate School of Global Studies

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院生フィールドレポート

2022年度

オーストラリア / シドニー 他

報告者:グローバル・スタディーズ研究科 地域研究専攻 博士後期課程
    川邊 徹
調査地:オーストラリア シドニー、キャンベラ
調査・研究課題名:ビルマ式社会主義(1962-88)再考:ビルマ・ナショナリズムにおける唯物論と仏教思想を中心に

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1.調査旅程(訪問地と日程)

【訪問地】オーストラリア シドニー、キャンベラ
【日 程】2023年2月1日 成田発
     2023年2月2日 ゴールドコースト着、ゴールドコースト発 シドニー着
     2023年2月2日~11日 シドニー・キャンベラ滞在
     2023年2月11日 シドニー発 ケアンズ着、ケアンズ発 成田着

2.調査内容

 ビルマ(ミャンマー)現代史の課題について、オーストラリアの研究者の方々にお話しをうかがったほか、図書館で文献調査を実施した。ご協力をいただいたのは以下の方々。

  • ミルトン・オズボーン博士(Dr.Milton Osborne)(元オーストラリア国立大学)
  • 高橋ゆり博士(Dr.Yuri Takahashi)(オーストラリア国立大学講師)
  • チョーゾーウィン博士(Dr.Kyaw Zaw Win)(インディペンデント・スカラー、ウーロンゴン大学PhD)
  • Ms. Nithiwadee Chitravas、Ms. Miyuki Matthews(オーストラリア国立大学「メンジーズ図書館」司書)
3.調査で得られた知見

【東南アジア史におけるマイノリティとビルマ】
カンボジア史に関する研究で世界的に知られ、ビルマを含む東南アジア全域について前近代から現代史までを俯瞰した歴史入門書も発表されているオーストラリアの元外交官で元オーストラリア国立大学のミルトン・オズボーン博士にお時間をいただいた。初対面にも関わらず、博士からは多角的な質問を交え、貴重な示唆をいただいた。
東南アジア史におけるマイノリティについて、多数派民族に対する少数民族の人口比率が比較的低いタイ、ベトナムやカンボジアに比べ、ビルマでは多数派のビルマ民族に対し少数民族の人口比率が比較的高いことを著書の中で指摘している博士から、それら以外の東南アジア諸国も念頭に「ビルマではなぜ共存が難しいのか。東南アジアの他の国では、各国政府の下で(おおむね少数民族も)共存しているのではないか」と、核心を突く問いかけをいただいた。ビルマ(ミャンマー)の国民国家形成における少数民族問題について、東南アジア史というフレームの中で比較検討するというスケールの大きな発想に驚くとともに、貴重な示唆をいただいたものと受け止めた。

【多民族社会の知見と実像】
オーストラリアを拠点にビルマに関する研究を進めておられるオーストラリア国立大学の高橋ゆり博士からは、移民が特別な存在ではないオーストラリア社会の実情を中心にお話をうかがった。
オーストラリアは移民を計画的に受け入れており、特にビルマ(ミャンマー)からは、1988年の民主化運動とそれに対する抑圧を受けタイなどの周辺国へと逃れ、そこへ長く避難していた人々らを順に受け入れてきた経緯があるという。こうした人々にはビルマ民族のほか他の少数民族も含まれ、移住先のオーストラリア社会の中でもそれぞれのグループを形成しているという。
高橋博士によると、オーストラリアへ移住した人々に共通するのは、出身国や民族のほか、オーストラリアのアイデンティティも兼ね備え、複数のアイデンティティを保持していることであるという。こうしたアイデンティティの「共存」と重層性について、オーストラリアで直接お話をうかがい、実情を目にすることができたことは大きな成果であった。

【ビルマの独立、社会主義、そして民族問題】
ビルマ独立後に政治をリードしたビルマ社会党の歴史を中心に研究されてきたチョーゾーウィン博士からは、多くの貴重なアドヴァイスをいただいた。
博士によると、ビルマ社会党も参画したビルマのAFPFL(反ファシスト人民自由連盟)が重視したのは、「独立」、「コモンウェルスに入らない」、「社会主義」などの点にあったという。この文脈では、当時の指導者らは、社会主義という理念を採用することで民族問題も解決に至るのではないか、と比較的楽観視しており、ここに今日の問題の「根」が含まれていたとも考えられるのではないか、との指摘を受けた。
ビルマの独立(1948)とその後の国民国家の設を研究されてきた博士から、独立後の国民国家建設の課題という視点から直接見解をうかがうことができたことは、大きな成果であった。

【文献】
首都キャンベラにあるオーストラリア国立大学では、研究用の書籍を多く保管しているメンジーズ図書館(RG Menzies Building)を訪問した。
高橋ゆり博士のご紹介を受け、司書である Nithiwadee ChitravasさんとMiyuki Matthewsさんに、オーストラリア元首相の名前を冠したこの図書館を案内していただいた。
この図書館にはビルマ語の文献も保管されており、これら貴重な資料も閲覧させていただいた。図書館二階には、東アジアに位置する日本、中国、韓国の蔵書を保管している一角もある。中でも日本の新聞や雑誌も継続的に収集、保管されており、日本がオーストラリアで築いてきた存在感の大きさとオーストラリア側の日本への関心の高さを感じた。日本関係の蔵書の中には、すでに日本国内で探すことが難しくなっている戦中の書籍なども保管されているという。
一方、近年は、図書館を訪れる中国からの留学生が急増しているという大きな変化についてもお話を聞くことができた。


メンジーズ図書館

【調査の展望】
オーストラリア国立大学ほか、同じキャンベラにあるオーストラリア国立図書館でも文献を閲覧し、これまでの文献調査で抜け落ちていた1940年代、50年代のビルマの政治史について空白部分を検討することができた。
今後もこのように多角的なアプローチを粘り強く続けることによって、ビルマの歴史を世界の中に位置づけ、複眼的、複合的な歴史研究に挑んでゆきたい。

【最後に】
オーストラリアは大変魅力的な国であった。その広大な国土は日本では想像もつかないスケールを持ち、地球はかくも広かったのか、とすら思えた。人工的に開発された首都キャンベラは行政や司法などの中枢機能を持つ一方、緑地帯には野兎が多く生息し、珍しい野鳥も散見するなど自然にあふれていた。日本からこの地を訪れ、全く異なる尺度で世界やビルマの歴史について考え直す機会ともなった。
旅の最後は、シドニー中心部で、宿泊客が瞑想のセッションに参加できる「Zen(禅)」の名を冠した珍しいゲストハウスに宿泊した。日々の生活の中で揺れ動く自らの感情を客観視し、執着から心を解放する内観瞑想は、ビルマ(ミャンマー)で大変盛んであった。一方、オーストラリアのこの宿に宿泊していた欧米やアジアの若者たちも、関心を持って瞑想に取り組んでいた。宿で飼われていた聡明なネコたちと触れ合いながら瞑想に参加できたことも良き思い出となった。


首都キャンベラで

本調査に際しては、上智大学フィールドワーク・サポートの助成を受けました。記して謝意を表します。

[参考文献]
ミルトン・オズボーン.1996.『シハヌーク』.石澤良昭監訳、小倉貞男訳.岩波書店.

Milton Osborne .2020. Southeast Asia  An introductory history.13th Ed. Allen & Unwin. NSW, Australia.
TAKAHASHI Yuri.2022. Shwe U Daungs’s Life and Changing Nationalist Vision: Writing Biography as a Historical Study based on Vernacular Sources. In NEMOTO Kei (Ed.) Myanmar Studies without Burmese? On how and why language still matters for Area Studies VolumeⅠ.Occasional Papers No34, Institute of Asian, African, and Middle Eastern Studies, Sophia University.

Kyaw Zaw Win.2008. A history of the Burma Socialist Party (1930-1964).PhD Thesis. University of Wollongong, Australia.

(2022年度フィールドワーク・サポート 現地レポート)

インドネシア / ジャカルタ 他

報告者:織田 悠雅(オリタ ユウガ)
    グローバル・スタディーズ研究科 地域研究専攻 博士前期課程
調査地:インドネシア ジャカルタ、ジョグジャカルタ、中部ジャワ
調査・研究課題名:中部ジャワ・カトリック教会に関する人類学的調査

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1.調査旅程

8月25日:成田国際空港⇒スカルノ・ハッタ国際空港(ジャカルタ)
8月25日~29日:ジャカルタ滞在(ホテル)
8月29日:ジャカルタ・ガンビル駅⇒ジョグジャカルタ駅
8月29日~5日:ジョグジャカルタ特別州スレマン県滞在(ホームステイ)
9月5日~16日:中部ジャワ州マゲラン県A町滞在(ホームステイ)
9月16日~19日:中部ジャワ州スマラン県アンバラワ町滞在(ホームステイ)
9月19日~22日:中部ジャワ州スマラン市滞在(ホテル)
9月22日:スマラン国際空港⇒スカルノ・ハッタ国際空港
9月22日~23日:空港近くのホテルで滞在
9月23日:スカルノ・ハッタ国際空港⇒成田国際空港

2.調査内容

①ジョグジャカルタ特別州スレマン県滞在

  • 教区司祭への聞き取り(教会の社会活動について、特に災害対策について)
  • 大学生への聞き取り(家族構成、近隣イスラームとの関係、マリア洞窟について)
  • ホストファザーへの聞き取り(ライフヒストリー、マリア洞窟について)
  • サナタダルマ大学の教授との面談、研究相談。
  • 巡礼地(ガンジュラン寺院、センダン・ソノ・マリア洞窟)の見学。
  • 主日ミサへの参加など教会活動の参与観察。

②中部ジャワ州マゲラン県A町滞在

  • A地区内にある各グループのリーダーへの聞き取り調査(ライフヒストリー、マリア洞窟について)
  • 地区内教会グループの活動の参与観察(聖歌練習、式典に向けた踊りの練習、グループの会議)
  • ミサへの参加。

③中部ジャワ州スマラン県アンバラワ町滞在

  • 若者(高校生から大学生)への聞き取り調査(近隣イスラームとの関係、マリア洞窟について)
  • 司祭の子どもを持つ方への聞き取り調査。(ライフヒストリー、司祭召出への意見)
  • 巡礼地の訪問(3つのマリア洞窟の見学)
  • 教会の社会活動(貧困、障碍のある人への支援)の参与観察と参加者への聞き取り調査
  • 修練院の見学とイエズス会司祭との面談
  • ミサへの参加。

④中部ジャワ州スマラン市滞在

  • イエズス会司祭との面談。
3.調査で得られた知見

1)得られた理解

 本調査で得ることができた知見は大きく3点、①中部ジャワにおける教会組織の構造、②中部ジャワにおけるカトリック信徒の動態的状況、③ジャワ文化、インドネシア・ナショナリズムとカトリック教会の接合である。
 まず、1点目の教会組織について。カトリック教会は全世界共通で、教皇を頂上に据えた階層構造によって成立しているが、インドネシアのそれが日本と多少異なる点があり興味深く感じた。中部ジャワの教会組織を簡単に説明すると、スマラン大司教区が行政単位の中部ジャワ州とジョグジャカルタ特別州内の教会の上部にあり、その下に4つの大地区(Kevikepan)があり、その下に107の小教区(Paroki)が存在する。また、小教区ほどの人口は有さないが人口がそれなりにある場合には、スタシ(Stasi)と呼ばれる1つの小教区に属しながらも自身で教会堂を持つ場合もある。それぞれの小教区、スタシにはいくつもLingkungan(リンクンガン、日本語に直訳すると「環境」という意味になる)と呼ばれるより小さなグループが存在する。日本の教会組織との大きな違いはこのLingkunganである。調査地では1つのLingkunganには教会活動に熱心でない人も含めて30家族程度が属しており、各Lingkunganにはミサ中やミサ前に必要な準備、作業が割り当てられていた。渡航以前はLignkunganの存在そのものも知りえなかったが、今後はこの教会組織の日本との相違点に目を配ることで、Lingkunganの教会や信徒に与える影響について考察したい。
 2点目のカトリック信徒の動態的な理解について。一番大きな気づきは、同じカトリックコミュニティでも世代によってイスラームへの意識や言説が異なる点であった。今回の調査では大学生から80代まで幅広い世代の方々に聞き取り調査を行った。大学生への聞き取りでは、イスラームに対して抱える不満(アザーンの音量が大きすぎるなど)について聞くことができたが、同じような質問を上の世代の人々に投げかけるとイスラームとの良好な関係について聞くことが多かった。調査者の年齢からくる信頼関係による差異とも考えられるが、世代間で対イスラームの意識が異なっている可能性に気づくことができた。
 また、カトリック信徒になった経緯を中心としたライフヒストリーの聞き取りからは、先行研究で示されているカトリック教会勢力拡大の要因(教育、健康サービス、結婚)について確認することができた。また、上の世代への聞き取りでは、カトリック信徒との結婚の際に改宗し、また結婚に際して家族から反対の声が上がることが無かったという話をしばしば聞いた。しかし、親世代の人々からは、自分の子どもがカトリックでない人と結婚するのは認められないとしており、結婚観の世代間ギャップの存在にも気づくことができた。今後は、その世代間ギャップがどの年代から発生しているのかに注目していきたい。
 最後に3点目のジャワ文化、インドネシア・ナショナリズムとカトリック教会の接合について。中部ジャワのカトリック教会とジャワ文化の融合の代表例がジョグジャカルタ特別州ガントゥル県に存在するガンジュラン寺院(正式名称はGereja dan Candi Hati Kudus Tuhan Yesus Ganjuran)である。ガンジュラン寺院では、ジャワの伝統的な様式で建てられた教会堂、ジャワの伝統的衣服を着たイエス・キリストなどが見られる。別の日程で訪れたマリア洞窟においても、Jalan Salib(十字架の道行)でレリーフを覆う屋根にジャワの様式を組み合わせていることも発見できた。合わせてインドネシア・ナショナリズムとカトリック教会の接合としては、ミサ前に国家斉唱をする(日本の教会ではまず考えられない)、教会堂の前にインドネシア建国75周年のモチーフとスローガンが書かれているといった現象が見られた。


ガンジュラン寺院の教会堂。ジャワの伝統的な建築様式で建てられている。


ガンジュラン寺院にある
イエス・キリスト像。
ジャワの伝統的な衣服を着ている。


中部ジャワ州A町の教会堂。
インドネシア建国75周年のモチーフが描かれている。

2)得られた視点・仮説

①生存戦略としてのナショナリズム、ジャワ文化の活用

 先に述べたように、ジャワ文化とカトリック教会の接合、インドネシア・ナショナリズムとの結びつきという現象がしばしば見られたが、この背景には少数派であるカトリック教会の存続のための戦略があるのではないかと考えられる。今後はミサ前の国歌斉唱やその他ナショナリズムとの関連が見られるものについて、事実関係の確認を聞き取り調査で行いたい。

②日本のカトリック教会との比較:宣教と信仰心の維持

 ジャワにおけるカトリック宣教、カトリック人口の増大において、学校教育が果たした役割が大きい。中部ジャワ州スマラン県アンバラワ町で行った60代男性への聞き取りでは、高校に進学する際に国立の高校はなく、カトリックの学校のみであったため、カトリック校に進学し3年次に洗礼を受けたということであった。ちなみに町で最初の国立学校は、77年の国立小学校設立であったということである。
 このことを日本におけるカトリック宣教と比較するとどうであろうか。調査者は中高一貫校のカトリック校の出身であり、当時聞いた話などを思い返すとジャワにおける宣教と共通するものを見つけられる。私の出身校では、数十年先輩の代では学年が180人程度に対して数十人が洗礼を受けていたという話をきいたことがある。詳細に関しては不明なことが多いが、日本においてもかつては教育が宣教につながっていたことが分かり、ジャワにおける宣教と共通しているといえる。しかし、日本におけるカトリック人口はなかなか増えておらず、調査者の印象ではあるが「幽霊」信徒とでもいうべき信徒が多い。そこにジャワと日本の差異を感じるのである。
 これらはあくまでも印象によるもので詳細な調査が必要であるが、日本社会とジャワ社会における差異を生み出しているものについて2つの仮説、①幼児洗礼に関する考え方の違いが影響を及ぼしている、②インドネシアでは宗教を登録する必要があることが影響を及ぼしている、を立てることができた。また、当然日本文化とジャワ文化において宗教に対する認識が違うことも考えられる。この仮説、問いに答えることは、インドネシアにおいて宗教を信じることが何を意味するのかという問いに解答することでもあるため、重要な視点であると考える。

4.調査の反省

 今回の現地調査の反省点は、踏み込んだ質問に躊躇してしまったことであった。私の研究関心の1つである宗教間関係について尋ねると、時にセンシティブな事柄も含まれることから、顔を曇らせる方がおり、自分から聞き出しにくい側面があった。今後の改善策としては、踏み込んだ質問ができるような信頼関係を築いていくこと、加えて直接的ではなく間接的に聞き出したいことを引き出せるように、インタビュー技術を向上させること、などが考えられ、次回の渡航までの課題としたい。

(2022年度フィールドワーク・サポート 現地レポート)

トルコ / マルディン県

報告者:阿部 達也(アベ タツヤ)
    グローバル・スタディーズ研究科 地域研究専攻 博士前期課程
調査・研究課題名:クルド系マドラサの学問教育に関する予備調査

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クルド系マドラサを訪ねて

 2022年8月、今回の本来の調査目的であるメンズィル教団の調査を一通り終えた私は、よりクルド的なイスラームの伝統を求めて、メンズィルのあるアドゥヤマンからより東部に位置する都市に向かった。そして、辿り着いたのがマルディン県に属するクズルテぺである。クズルテペ(Kızıltepe)は、クルド語ではコセル(Qoser)と呼ばれ、ファルキーン(Farqînî)、ティッロ(Tillo)、ノルシン(Norşîn)、オヒン(Oxîn)と並んで、クルド的なイスラームの伝統を保持するクルド系マドラサ(Kürt Medreseleri)の中心地として知られている。
 クズルテペに到着した私は、クルド系ヌルジュ団体であるゼフラ財団(Zehra Vakfı)のイスタンブルの学生寮で知り合ったチチェキ氏に連絡した。というのも、チチェキ氏の家族は、クズルテペでも有数のウラマー家系であり、チチェキ氏の伯父であるメフメト・ハリール・チチェキは、クルド系マドラサに関する有名な著作『東部マドラサの経験(Şark Medreselerinin Serencamı)』を書いた著名なウラマーであった。連絡すると、すぐさまチチェキ氏はクズルテペにあるクルド系マドラサを紹介してくれ、4日間のマドラサ滞在が決まった。


滞在場所であるクズルテペにおけるハイダリー・マドラサ

 私が滞在したクルド系マドラサは、ナクシュバンディー・ハーリディー教団のシャイフ・ムハンマド・エミン・ハイダリー(Şeyh Muhammed Emin Hayderi, 2003年没)に属するマドラサであった。ハイダリーのマドラサは、ファルキーンが中心地であるが、クズルテペをはじめとする他のクルド地域にもそのマドラサの支部が存在するようである。それらマドラサを所有しているシャイフ・ムハンマド・エミン・ハイダリーは、シリアのシャイフ・アラアッディーン・ハズナウィー(Şeyh Alaaddin Haznevi, 1969年没)からイジャーザを得たナクシュバンディー・ハーリディー教団のシャイフとして知られているが、クルド語のマウリードを書いたクルド文学者としても有名である。


シャイフ・ムハンメド・エミン・ハイダリー


ハイダリーのマウリード

 クズルテペのハイダリー・マドラサは、セイダ(seyda)と呼ばれる2人の教師によって管理されており、25名程度のフェキーと呼ばれる学生がマドラサで学んでいた。フェキーの多くがクズルテペ、ディヤルバクル、ヌサイビン、バトマンから来ており、フェキーの年齢層は平均12〜20歳前後である。また訪問した時期が夏休みであったために、マドラサの卒業生や、クルアーンを学び始めたばかりの子供もマドラサに来ていた。


セイダ・モッラー・ムハンメドとフェキー

 ハイダリー・マドラサの1日は、ファジュルの礼拝から始まる。ファジュルの礼拝後、一通り掃除をし、朝食までマドラサのカリキュラムにあるイスラーム学の本を読み進める。朝食後、セイダがマドラサにやって来て、フェキーが学んでいる本にしたがって個別に授業を与える。セイダは、アラビア語で書かれている本をクルド語で解説していた。セイダとフェキーは、私には気を遣って時々トルコ語を話してくれていたが、マドラサにおける言語は完全にクルド語であった。そして、私はフェキーの学んでいる本の順番や名前から、ハイダリー・マドラサで教えられているカリキュラムが、伝統的なクルド系マドラサのカリキュラムとほとんど一緒であることに気づいた。セイダがフェキーに個別に授業を与えている間、他のフェキーは、自分が学んでいる本をマスターしたフェキーとピア・ラーニングという形でその本に関して議論することで理解を深めていた。これがズフルの礼拝まで続く。ズフルの礼拝と昼食後、フェキーにはアスルの礼拝まで休息が与えられる。アスルの礼拝後、明日の授業に備えてフェキーは、学んだ部分の暗記に入る。暗記は眠気を誘う作業のため、歩きながら行われることが多い。マグリブ礼拝の後は、夕食の時間である。夕食は、マドラサの近隣に住む人々が賄っていた。フェキーのための食事が、近隣の人々の援助によって賄われることは、クルド地域の伝統の一つでもある。夕食後は、クルアーンやハイダリーのマウリードが詠まれ、イシャーの礼拝後は、タフスィールの授業が与えられていた。
 このように続くマドラサの学習カリキュラムは、平均7,8年かかり、マドラサのカリキュラムの最後の本を学び終えたフェキーは、ディヤルバクルにいるシャイフからイスラーム学のイジャーザと、学問人の象徴である白いターバンが与えられ、モッラー(mele)となる。しかし、トルコ共和国においてマドラサは公式に認可されていないため、マドラサを終えた人は通常、公務員試験を通して公式のイマームを目指す。また、マドラサを終えた人の中にはタサウウフの道を志す人もいるが、マドラサ教育の段階において、ナクシュバンディー教団の入門儀式であるタウバはあっても、タサウウフに関する本が教えられること、ナクシュバンディー教団の重要な修行法であるズィクルやハトム、ラービタなどは見られなかった。


ピア・ラーニングで学ぶフェキー


タフスィールの授業風景

 以上が、ハイダリー・マドラサを事例としたクルド系マドラサに関する調査報告である。
 今回の調査の反省点は大きく2つある。1つ目は、クルド系マドラサに関する研究を事前により読んで知っておくべきだったこと、2つ目は、マドラサの著作を調査するためにアラビア語をもっと知っておくべきだったことである。
 以上の反省点を踏まえ、次回以降のより良い調査に向けてより勉学に励みたいと思う。

(2022年度フィールドワーク・サポート 現地レポート)

エジプト / カイロ

報告者:阿部 優子(アベ ユウコ)
    グローバル・スタディーズ研究科 地域研究専攻 博士後期課程
調査・研究課題名:現代カイロの街区で人びとが集う場とそこでのつながりに関する人類学的調査

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1. 調査概要

 私は、2022年8月12日から9月9日にかけてエジプト・アラブ共和国カイロ県ダルブ・アル・アフマル地区の南東部の地域を中心に現地フィールドワークを実施した。
本調査は、カイロで庶民が居住する街区の中で、人びとが日常的に他者とどのような関係性を築き、近隣社会がいかに連帯を獲得しているのかを人類学的な参与観察および聞き取り調査の手法を用いて明らかにすることを目的とした博士後期課程での研究および来年度に実施予定である長期現地調査の予備調査として位置づけられる。これらの研究において対象とするのは、街区内にありながらその外部の人びとをも含む相互行為によって街区内の密接な関係性とともに新たな関係性も呼び込みうる小規模なモスクおよびその場を取り巻く人びとの関係性である。
そこで、本フィールドワークでは街区の一画に位置する小規模なモスクを取り巻く人びとの関係性についての調査の実施を計画した。しかしながら、調査の準備を進めていく中で、様々な研究者の方々にご助力いただき、ダルブ・アル・アフマル地区に位置する特定の近隣社会の中でコミュニティセンターの役割を担いつつあるバイトヤカン(Bayt Yakan)という場に滞在する機会を得たことから、現地では街区の小規模なモスクに限らず、バイトヤカンを含めて人が集う場所に注目することにした。そして、これらの場所に集う人びとの人間関係について人類学的な参与観察および聞き取り調査の手法を用いて調査を実施した。

2. 調査内容

2-1. 地区の小規模なモスク  住人の多くがイスラームを信仰する旧市街のイスラーム地区に位置するダルブ・アル・アフマル地区では、金曜礼拝の時間帯になると、通りにいくつかのモスクから説教の声が聞こえてくる。このいくつかの声を辿るとそこには男性たちが靴を脱いで入っていく建物がある。通りに聞こえてくる説教の声はひとつではない。このことは、近接する空間にいくつかのモスクが存在していることを意味している。


ブルーモスク外観


小規模なモスク外観

 小規模なモスクは、ミナレットやドーム状の屋根を特徴とするような大きなモスクとは異なり、建物の外観のみでそれと判断することは容易くはない。しかしながら、金曜礼拝は金曜モスクといった大規模なモスクだけでなく、地区の小規模なモスクにおいても行われている。私は地区の小規模なモスクがどこにあるのかを探るべく、金曜礼拝の時間帯に通りに出て、人の流れを観察した。 その結果、通り沿いにあるモスクの所在を実際に見て確かめることができた他、特定のモスクが人を集める要因および人が特定のモスクを選ぶ要因について考えるきっかけを得た。例えば、道を行く人の中には目の前のモスクを素通りして、さらに先にあるモスクに入っていく人びとが一定数いた。このことから、ある人物がどの特定のモスクに通うのかには、物理的な近接性以外の要因も関与していると考えられる。また、礼拝の時間帯に2人で連れだってモスクに入っていく人びともおり、個々人が持つ関係性もその人物が通うモスクを決める要因のひとつとみなすことができる。さらにある人物が、数ある中で特定のモスクを選択し、実際に通うという行為には、この他にも説教師の好みやある特定のモスク自体への愛着など様々な要素が複雑に絡んでいると考えられる。
こうした推察に至った一方で、実際に人びとの考えの聞き取り調査を実施することが今後の課題である。私の研究関心は、単なるモスクという場ではなく、「特定の地区の中にあるモスク」という場にある。モスクのような街区の中にあって人びとが集まる場のいくつかに着目し、それぞれに集まる人びとが誰とどのような関係性を結んでいるのかを見ていくことは、近隣社会とそれを支える人びとのつながりを捉えようとする試みに繋がる。そのため、通りがかりの人物に「なぜこのモスクに通うのか」を尋ねるのではなく、ある人物がこの地区でどのような立場にあり、誰と関係を結んでいて、モスクを含む地域のどの場所に頻繁に出入りするのかを今後、総体的に理解していく必要があると考えている。

2-2. バイトヤカン

 バイトヤカンは、ダルブ・アル・アフマル地区の南東部に位置するスーク・シラーハ通りに面した建物である。エジプトにおけるムハンマド・アリー朝時代(1805-1953)に王族軍事官僚を務めたヤカンという人物が建設および改築したとされる、この歴史ある建造物は、現代においてエジプト人の建築学者による修復が行われた。そして2016年から現在にかけては近隣住人に向けて門が開かれ、敷地内の中庭や広間などでワークショップが頻繁に開催されている。
私自身が滞在した1か月間でも数タイプのワークショップが実施され、近隣住人の人びとが多く訪れていた。こうしたワークショップには親世代に向けて、男女別日で開かれる街づくりを意図したものもあれば、4~17歳ぐらいの子どもや大人の主に女性向けに開かれ、イスラーム的なモザイク画や陶芸、金属加工といったアートやその他ダンス、演劇といった文化的なものに親しむことを意図したものもあった。このようにバイトヤカンは、周辺に暮らす人びとの集う場として機能し、コミュニティセンターの役割を担っているということができる。そこで本調査ではこの場所にどのような人びとが訪れているのかについて参与観察を行い、またこの場所に集まってくる人びとに簡単な聞き取り調査を実施した。


街づくりワークショップでのグループワークの様子

本調査時にバイトヤカンに主に出入りしていたのは、ワークショップに参加する子どもたちおよび大人の女性であった。バイトヤカンでは、危険な工事を行う際には、訪れてくる近隣住人に危険が及ばないよう、入場を制限するべく建物の扉を締める対応をするという。しかしそのような状況において、人びとは危険でも構わないから扉を開けてほしいと強く要望したという。この事例から、人びとがいかにバイトヤカンを日常の中で重要な場のひとつとして捉えているかが伺える。
 このようにバイトヤカンは近隣住人から求められる場所であると言えるが、調査のなかで、この場所には近隣住人以外にも様々な人びとが出入りしていることが明らかになった。ある人は各ワークショップの内容に関心を持って、少し離れたところからバイトヤカンを訪れる。各ワークショップの講師の人びとはカイロの他の地区からやってくる。加えて、主に建築学を専攻し、近隣住人の人たちとともに歴史的建造物を保護していくことに関心を持つ研究者たちも頻繁に出入りしている。さらに、バイトヤカンの修復活動やここでの社会的な試みを知ってもらうべく、国の役人が招待されて訪問することもある。また、稀ではあるが、歴史あるバイトヤカンの建物の見学をしに観光客も訪れる。こうした来客および観光客や異邦人がこの場所を訪れることに対し、近隣住人で頻繁にバイトヤカンを訪れている人びとの中で否定的な抵抗感を示している人物は少なく、バイトヤカンには様々な場所からやってくる他者を受け入れる、開かれた雰囲気が感じられた。

3. 調査によって得られたもの

 本調査では研究対象への知見をはじめ、以下の3点を得ることができた。
まず1点目は、人が集まる具体的な場所に関する知識および「近隣コミュニティ」概念に接近するための「場所」への注目という視点である。実際にカイロの庶民街に1か月間、身を置いたことで、街区の中には人が集まる場が様々に存在すること、そしてそれぞれの場所を起点にした人びとの関係性が構築されているという考え方を体感しつつ学ぶことができた。このことから発展して、様々な場所を起点にしたそれぞれの関係性がいかに混ざり合っているのかを明らかにしていくことで、人びとの生活に根差した「近隣コミュニティ」への接近を試みることができるのではないかという考えに至った。
2点目は、人びとの「通り」への意識の存在に対する気づきである。イスラーム都市における伝統的街区では通りを共有する家屋に暮らす人びとが独自の共同体意識を持つとされていたが、本調査においても、通りを基盤とする仲間意識を感じられるような人びとの発言を耳にした。このように現代においても通りを共有することが喜びをもって語られることから、その地域意識の在り方を知ることができた。
3点目は、次回以降の調査に繋がる関係性の構築である。今回の滞在では、自分自身が調査地に慣れ、近隣住人の人びとと知り合いになり、次回の調査に繋がる関係性を築くことができた。また、ここまで述べた今後の調査の足掛かりとなるような知見は、調査地の人びととの交流や現地で出会った研究者の方々との対話によって得られたものが大きい。こうした点は実際に現地に出向かなければ決して得ることのできないものであり、今後の長期的な現地調査の準備として非常に重要な側面であった。

4. 調査の反省と展望

 本調査では上述のように次回の調査に繋がる関係性を築くことができた反面で、以下のような反省点も挙げられる。それは、現地の人びと各々が近隣社会のなかでどのような立場にあり、それぞれがどのような関係性を取り結んでいるのかを把握しようと努めたものの、十分に理解するには及ばなかったということだ。本研究が対象とする「人びとの関係性」を調査する上では、このような個々人同士の関係性を捉えることは必要不可欠である。しかし、そのためには、現地への長期滞在に基づく更なる信頼関係の構築が重要である。そこで今後の調査では、本研究で得た知見や気づきを踏まえ、それらをより深めると同時に、調査地内の人びとの関係性に注目し、継続した調査を行っていきたいと考えている。

(2022年度フィールドワーク・サポート 現地レポート)

2019年度

インドネシア / スラバヤ

報告者:山本 舞(ヤマモト マイ)
    グローバル・スタディーズ研究科 地域研究専攻 博士前期課程

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    備考
期間 2019年8月6日〜8月27日 調査期間中盤にデング熱に感染したため、当初の調査予定日数よりも短縮された。
国・場所 インドネシア スラバヤ
(シドアルジョ、グレシック)
同上、デング熱により入院を要したため、その他の調査地へは行けなかった。
目的 インドネシアのエビ養殖が盛んな地域における、エビせんべい(以下、「クルプック」という)と発酵調味料(以下、「トゥラシ」という)家内工業について調査をする。
対象 2016年より調査のために訪れている村内で、家内工業を営んでいる女性。

調査内容について振り返る前に、調査計画について数点反省すべき点があると考えた。第一に、調査実施期間の検討不足に関して、である。例年、筆者は夏季休暇後半(8月末から9月頭)より調査を開始するが、調査内容を秋学期開始前に時間をかけて検討したいという思いから、この度は休暇前半に調査を実施した。しかし、その際に、インドネシアの全国民の9割近くが信仰するイスラムの犠牲祭の日程と、同国の独立記念日について考慮することを全く忘れてしまっていた。今年の犠牲祭の期間は8月11日から14日、続く15日と16日も、8月17日の同国の独立記念日ために多くの店や人が休みを取り、故郷へ帰省するため留守にしている家庭もあったため、調査を実施することが困難であった。調査対象者次回の調査より、現地における基本的なイベントが催される期間を必ず確認し、そうした時期を極力避けたいと思う。
 第二に、調査地の事前の細かな選定不足についてである。これまでの調査でずっとお世話になってきた方に、調査対象物であるクルプックとトゥラシの生産で有名な土地として、シドアルジョおよびグレシックの2つの街を挙げていただいた。しかし、これら2つの街の中でも、筆者が調査したいと考えていた製品の生産地は原材料のエビや魚が手に入りやすい沿岸地域が主であったため、滞在先の自宅から調査地へ移動するために、想像以上に多くの移動時間を要した。渡航以前に、調査対象の製品の原材料については把握していたので、もう少し慎重に調査地と滞在先を選ぶべきであったと反省している。

【調査内容報告】
 本調査では、インドネシアの大衆食として知られるクルプックと大衆的な調味料の一つであるトゥラシを家内工業の一環として生産する人々やその暮らし、また原材料である魚やエビ類の入手経路等に関して調査することを目的とした。先述した通り、犠牲祭の日程と独立記念日が近い時期にあったため、村の人々も慌ただしくされており、じっくりとインタビューさせていただけたのは3名のみであった。内1名(男性)はトゥラシを、2名(両名共に女性)はクルプックを生産している。

 

【トゥラシ】
 本報告書内に既に幾度か登場しているトゥラシとは、現地語でudang jembretという、おそらくはアミという軟甲網オキアミ科の生物を原材料とする発酵調味料である。英語や日本語では学術名を特定できていないため、今後の課題とする。(収穫後しばらくするとその体色を濃い赤色に変化させたことからも、アミ類の一種であることは間違いないと考える)
 今回、インタビューを受けてくださったのは、シドアルジョ内の伝統的な粗放エビ養殖池の小作人であり、普段は池のすぐほとりにある小屋で妻と娘と暮らす50代の男性である。通常、彼は3名ほどの日雇い労働者とともに池の魚やエビの収穫作業を行うが、当該のアミ類が手に入った際にはトゥラシをつくり、それらを近くの市場で売って生活の足しにしている。原材料であるアミ類をどこから手に入れるのか尋ねると、エビが養殖されるまさにその池で獲れるのだと答え、収穫の様子を見せてくれた。アミを獲る際に使う道具は彼の手製のものであり、Tの文字のように二股に分かれた木の枝の先に、弧を描くように割いた竹をしならせて結びつけ、できあがった扇型の部分に目の細かな網がくくりつけられている。この道具を用いて、池の水面近くを泳ぐudang jembretを獲る。体長はおよそ1ミリから2ミリ程度である。たいてい、明け方前に収穫をするが、それは日が高くなると収穫が難しいからだと彼は言う。
また、彼によると、ブラックタイガーやバナメイエビとは異なり、udang jembretの味は風味がほとんどなく、味つけをしないまま食しても美味しくないそうだ。そのため、トゥラシ作りではこの小さなudang jembretの体色が黒に変化するまで天日干しにし、完全に乾燥させた後、味付けをする必要がある。乾燥したアミにニンニク1かけ〜2かけ、砂糖、塩、水を加えるそうだが、これらの分量は彼自身の目分量、感覚で決まっているそうだ。出来上がると、乾燥させた直後にはなかったトゥラシ独特の刺激臭がかおる。彼が作ったトゥラシは基本的に1キロ100,000Rp(1Rp=0,0076円/2019年9月25日現在)で売るそうだが、最終的な味で値段も変わるという。誰がどのように値段を決めるのか、聞きそびれてしまったため、次回の調査では確認したい。


写真1:udang jembretが入った網から、ごみを取り出している様子。

【クルプック】
 クルプックとは、インドネシア国民の食卓に欠かせない、魚やエビのすり身とキャッサバ粉とを混ぜ合わせて作られる食べ物である。また、日常の食卓に並ぶだけではなく、結婚式の参加者へのお土産としても用意されることがある。今回の調査でお会いした2人の女性は、両名とも魚を原料としたクルプックを生産されていた。日本のせんべいと似ているが、クルプックの方がサクッとしたより軽い食感である。また、材料や調理工程は聞き取りをした両名と、現地の図書館で読んだ書籍で紹介されていたものと大きな違いはなかった。主な材料はキャッサバ粉、ニンニク、塩、砂糖、卵、魚あるいはエビの身、そして味の素である。調理工程に関しては、最初にインタビューを受けてくださった女性(以下、A氏とする)の元で筆者自身も体験させていただいたので、それを元に振り返る。

クルプックの材料
キャッサバ粉1kg、ニンニク1つ、塩25g、砂糖15g、卵1つ、味の素適量、魚のすり身250グラム(A氏によると重さ1kg程度の魚から、頭や骨を除くと250g程度の身が残るとのこと)、水適量

A氏は主たる材料の一つである魚を店で購入するか、養殖池で働く人々から余り物としてもらう/買い取るのが普通であるが、クルプックを注文した客が自身で魚を持ち込んできた場合にはそれを用いる。魚の下処理を行うのは自宅であるが、その切り身をすり身にするのはシドアルジョの市街地にある市場内の業者に頼むという。

クルプック調理工程
A氏は週5日を自宅の近くにある幼稚園で働いているため、仕事の始まる前、早朝にクルプックを作る。その際、A氏の母、近所に住む親戚(1〜2名)、時にA氏の長女の4〜5名で作ることが普通だという。

  • ① すべての材料をよく混ぜ合わせ、タネを作る。
  • ② 秤に乗せ、150gずつにタネをちぎり分ける。
  • ③ 分けたタネを1分間ほど荒く捏ね終えると、長さ25センチ強、幅4センチほどの棒状に形を整える。捏ね始めには、粉っぽかったタネが次第にまとまり、表面もつるつるとしたものに変化する。形成したタネを持ち上げると、でろんと伸びるほどに緩い。
  • ④ 蒸し器に入れ、1時間ほど蒸す。蒸し終えたクルプックは、むっちりとして、硬い餅のような食感。
  • ⑤ 粗熱が取られたタネは3ミリ程度の薄さに切り落とされるが、切りやすくするために約1日冷凍庫で固める。
  • ⑥ 機械を使って、薄く切る。この時の食感はちょうどチータラの様。
  • ⑦ 3日間天日干しにする。


写真2:蒸し終えたクルプックをザルの上に並べる様子

クルプックを食すためには乾燥したタネを油で揚げる必要があるが、A氏は揚げる前の状態のクルプックを袋詰めにして販売している。彼女の作ったクルプックは家の軒先か市街の別のお店で場所を借り、およそ68.000Rp/kgで売る。 無論、クルプックの原材料である魚やエビの価格が上がると、クルプックの販売値も高騰する。乾燥させたクルプックは長期間保存できるため、魚があればある分だけクルプックを作りたいとA氏は話すが、魚が手に入らない時にはクルプックは作れないため、収入もまちまちであるという。また、クルプックの作り方は結婚後に義母から教わったという。当時A氏は20歳頃であったというが、この時からすでに現在使用しているアルミ製の鍋(クルプックを蒸す用)があったという。
 また、先述した通りA氏は乾燥させたクルプックを販売するが、それは揚げる前の状態で売る方が保存も効くという理由の他に、自宅で揚げる作業を行うと、労力と収入が見合わなくなるという理由もあると話した。一方、インタビューを受けてくださった別の女性(B氏)は軒先でごく小さな食料品店を営んでいることもあり、乾燥させたものと揚げたクルプックの両方を販売している。この他、グレシックという街で出会った女性は、A氏のような人々が販売する乾燥クルプックを購入し、自宅で揚げ、それらを近隣住民に対して、あるいは地域の催しものがある際などに販売している。クルプック売りも様々である。

【まとめ、今後の調査の展望】
 今回の調査を経て、エビ養殖の盛んな地域で行われるトゥラシおよびクルプックなどの家内工業を営む人々は、主たる収入源を得るための仕事に就いており、その仕事の合間を縫ってこれらの製品を作っていることを確認することができた。その生産量は手に入れることのできる魚やエビの量によって変動するため、A氏とB氏によると、最も販売量が多かった月と少ない月では月収2万円程度の差があると話してくれた。
 また、調査期間後半にとある養殖池でエビの加工工場を経営する男性に出会った。彼によると、加工工場で働く女性たちの中には廃棄物となるエビの殻や頭を2,000Rp/kgで買取り、トゥラシやクルプックを生産、販売している人々がいるという。工場では「不要」のものから、利益が生まれているそうだ。これまでのエビ養殖の研究では触れられてこなかったことなので、次回以降の調査でも引き続き情報を収集したいと考える。
 最後に、今回の調査期間中にはデング熱に感染し入院を余儀なくされたことで、フィールドワーク・サポート申請時の計画とは大きく異なった調査となったことをお詫び申し上げる。今後の調査では、そうした感染に対する予防を徹底するよう心がけたい。

ベトナム / ハノイ

報告者:小島 賢夏(コジマ サトカ)
    グローバル・スタディーズ研究科 地域研究専攻 博士前期課程
調査・研究課題名:博物館展示に見るベトナム現代史の歴史叙述と対日認識

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1.はじめに

 本稿では、現在執筆に取り掛かっている修士論文に関わり、本年11月にベトナムで行った調査の報告を行う。具体的な行程としては、ベトナム社会主義共和国ハノイ市を中心に、ベトナムの歴史文化を展示する各種施設をめぐり、その展示が叙述する歴史語りを検討した。期間は2019年11月15日(金)から2019年11月19日(火)と比較的短期間の訪越となったが、市内各所にある多数の史跡および博物館を余裕を持って回ることはできた。
 今回の市内踏査にあたって、修士論文の「問い」に関わる二つの問題意識を持って臨んだ。一つは、修士論文で扱う時期である第三次インドシナ戦争(カンボジア国境紛争)と続く第四次インドシナ戦争(中越戦争)を中心とする1970年代後半の現代史に対して、いかなる歴史叙述が歴史展示に見られるかという問題意識である。二つ目に、現代史における日本との関係、特に貿易関係や取引された輸出入品が、現在の展示に見ることができるかという問い掛けを意識した。
本報告書の構成は、以下のようになっている。まず、「2.博物館展示」において、検討材料としての博物館歴史展示の有用性を示し、次いで、「3.1970年代後半の紛争」で一つ目の問題意識である当該時期への歴史認識を考える。そして、「4.日越関係」で二つ目の問題意識の日本との関係や貿易関係を見ていく。「5.おわりに」は本報告書の小括となっている。なお、本稿は修士論文執筆前に一応の報告書として記しており、暫定的な見解を述べるものである。また、本稿の提出にあたって、日頃の研究指導に加え、上智大学大学院グローバル・スタディーズ研究科地域研究専攻の調査支援を受けており、ここに記して謝意を表す。

2.博物館展示

 史跡を含め博物館展示を訪れ、検討する価値は大きい。博物館を訪ねれば、国柄や風土、民俗や歴史がわかる1と多くの歴史研究者が指摘している。ここでは、歴史展示を検討する意義を考える。
 歴史展示は、過去に起こった客観的事実としての出来事を伝えるのみならず、現在の視点から歴史を語る主体がどのように過去を認識しているか、また、どのような歴史を作りたいのかをも示している。歴史展示が過去を再構成することを、以下の引用は述べている。「モノはただ並べられているわけではない。ミュージアムには、個人から市町村・都道府県・国立までさまざまな設置主体がある。(中略)そして、それぞれの設置の目的があり、その目的にしたがって、展示(とくに常設展示)の内容が構成されている。(中略)そのため、その地域で発掘されたり、作成されたりした資料は、それぞれの歴史のなかの一部分として組み込まれ、その国や地域の「文脈」のなかにおかれることになる2。」それでは、今回の訪問で目にした歴史展示を次に見ていく。

  • 1中村浩『ぶらりあるきベトナムの博物館』芙蓉書房出版、2014年、179頁
  • 2割田聖史「コラム4 博物館で歴史に出会う」大学の歴史教育を考える会編『わかる・身につく 歴史学の学び方(シリーズ 大学生の学びをつくる)』大月書店、2016年、73頁
3.1970年代後半の紛争

 1970年代後半に、ベトナムはカンボジア国境紛争と中越戦争という近隣国との戦闘を経験した。修士論文で扱う時期であるこの時代の政治情勢や国際関係を、現在のベトナムがどのように捉えているのか、検討する。
 まず、国立歴史博物館3での展示を確認したが、1975年の南北統一への戦争後の紛争に関してはほとんど言及されていなかった。全近代史を主に展示するエリアAの建物はもちろん、1945年以降の侵略者との戦いを扱っているエリアB4でも、1975年の南北統一までの戦闘を詳細に展示しているのに対して、76年以降の展示室は少なく簡素であった。また、展示の色調も、戦闘が一段落し安定と繁栄を求める時代になったという記述が多く、とりたてて70年代後半の紛争や窮状を主張するものではなかった。
 戦争や革命を重点的に扱うベトナム軍事歴史博物館5での展示においても、1975年以降の国際情勢に対する歴史叙述はほとんど確認できず、展示の重点はフランスやアメリカからの国家防衛戦争に置かれていた。唯一、展示パネルの中に、「two aggregation wars in the southwest (1978) and northern (1979) boarder」という交戦相手の国名を伏せた記述が見られたのみであり、現在の近隣友好国である中国およびカンボジアと敵対関係にあった過去になるべく言及しないよう配慮していることが窺われた。
 タンロン遺跡6(旧ハノイ城跡)にも、1975年以降の歴史にまつわる展示や記述はなかった。本史跡は、1975年までベトナム軍最高司令部が置かれており7、敷地内のD67建物は、1967年から2004年までベトナム共産党政治部中央委員会が抗米戦争の戦略の会議の場となり、1975年1月8日には南ベトナム解放決議を行っているというが8、70年代後半の歴史に言及する説明や展示は確認できなかった。
 また、戦争で活躍した女性や、夫・子・親が戦争の犠牲になった「育良勲章」や「英雄」を受けた女性についても紹介されているベトナム女性博物館9でも、戦争に関わる展示は1975年までで終わっていた。
  以上の歴史展示から、現在のベトナム国内の公の歴史観において、南北統一を果たした1976年以降の国境紛争は大きく取り上げられていないと言えるだろう。

  • 311月16日(土)訪問。ベトナム語名称はBao Tang Lich Su Quoc Gia、英語名称はVietnam National Museum of History。
  • 4中村、前掲書、55頁。なお、かつてのベトナム革命博物館が、現在の国立歴史博物館のエリアBとして統合されている。
  • 511月17日(日)訪問。ベトナム語名称はBao Tang Lich Su Quan Su Viet Nam、英語名称はVietnam Military History Museum。
  • 611月17日(日)訪問。英語名称はImperial Citadel of Thang Long、ベトナム語名称はKhu Di Tich Hoang Thanh Thang Long。
  • 7中村、前掲書、13頁。
  • 8中村、前掲書、16頁。
  • 9中村、前掲書、46-47頁。11月18日(月)訪問。英語名称はVietnamese Women’s Museum、ベトナム語名称はBao Tang Phu Nu Viet Nam。
4.日越関係

 先述の時期の日本との関係、また、日本との経済関係に関する展示について、探してみたが、ほとんど確認することはできず、歴史展示において日本が言及されるのは、第二次世界大戦中の仏印進駐に関わるもののみであった。
 国立歴史博物館の近現代史を扱う展示では、1940年代の国内情勢として、ファシスト日本による占領を受けたというパネル展示が見られたほか、日本とフランス共同支配下で発生した飢饉の写真が展示されていた。第二次世界大戦後の展示において日本は登場しない。他に見学した軍事歴史博物館および女性博物館でも、日本に言及する展示は確認されなかった。
 また、1970年代に外交関係を樹立した日本大使館や貿易関係者の宿泊先としても使われたというかつてのトンニャットホテル10は、現在は、外国資本の豪華なホテルとして営業しており、当時の雰囲気を感じ取ることは難しかった。

 1980年代に日本へ多く輸出された取引品であるエビの製造に関しては、国立歴史博物館の発展に向かう国家という文脈でパネル展示がなされていた。右図は、国立歴史博物館に展示された輸出用の冷凍加工エビを作っている場面の写真パネルである。輸出に貢献したという説明がある一方、輸出先などに関する言及はなかった。
 同時期以降に、ベトナムから日本へ多く輸出された石油についても、国立歴史博物館の現代史の展示の中に見つけることができた。右図は、輸出もされた石油である。ベトナムの重要な資源であり、輸出にも貢献しているという記述はあったが、特に輸出先などに関する説明はなかった。
 石油以前から、日本へ多く輸出された北部から採れる良質な石炭であるホンゲイ炭についても、国立歴史博物館など11で探してみたが、展示されていなかった。
 以上の展示から、日本との関わりについては、第二次世界大戦中の仏印進駐以外の文脈で一般に公の歴史が語られることはないと考えられる。また、貿易で扱われた輸出品については、国家の発展の文脈で生産が語られており、輸出先に関する言及は歴史展示では確認されない。

  • 10日本貿易振興会『ベトナム経済の行方(特別経済調査レポート・昭和63年度)』日本貿易振興会、1989年、22頁。今川幸雄『ベトナムと日本 国交正常化への道』連合出版、2002年、126頁。
  • 11ベトナムの地質を紹介し、各地から出土した化石や採取された鉱物が展示されている(『地球の歩き方』編集室(編)、2016年、277頁)地質博物館を訪問しようとしたが、原因が分からない休館中となっており、中に入ることができなかった。
5.おわりに

 今回の訪越時の二つの問題意識に対して、それぞれ次のように答えることができるだろう。第一に、1976年に終わる一連の外国との戦争および南北統一以降の現代史は、国家の発展への時代という時代区分にまとめられ、その中で起こった近隣国との紛争に今日の国家の歴史観が言及することは少ない。第二に、日本との関係に関しては、第二次世界大戦中の仏印進駐が語られるのみであり、以降の政治的および経済的関係について、一般向けの博物館展示では確認されない。主要輸出品目の展示紹介はあるが、輸出先は明示されておらず、国家の発展を象徴する生産活動に重点が置かれていると言える。
 今回、把握した歴史認識を基に、ベトナム側の歴史叙述も踏まえた分析を修士論文でも行っていこうと考えている。

6.参考資料一覧
  • 今川幸雄『ベトナムと日本 国交正常化への道』連合出版、2002年
  • 『地球の歩き方』編集室(編著)『地球の歩き方 D21ベトナム 2016~2017年版』ダイヤモンド・ビッグ社、2016年
  • 中村浩『ぶらりあるきベトナムの博物館』芙蓉書房出版、2014年
  • 日本貿易振興会『ベトナム経済の行方(特別経済調査レポート・昭和63年度)』日本貿易振興会、1989年
  • 割田聖史「コラム4 博物館で歴史に出会う」大学の歴史教育を考える会編『わかる・身につく 歴史学の学び方(シリーズ 大学生の学びをつくる)』大月書店、2016年、73-75頁

カンボジア / アンコール遺跡公園

報告者:羅 天歌(ラ テンカ)
    グローバル・スタディーズ研究科 地域研究専攻 博士前期課程
調査期間:2019年8月27日(火)~2019年9月3日(火)

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写真1 アンコール・ワット(筆者撮影)
(地域の人々とツアーガイドにより、この窪みの前はアンコール・ワットの写真を撮るために最高のスポット)

写真2 バイヨンの四面像(筆者撮影)
(ツアーガイドにより、この視角から二つの四面像の鼻先は取り合わせているようである。観光客は順番を待ち、写真を撮っていた)

(一) はじめに

1) 調査背景
 2013年から中国が実施している「一帯一路」政策は、カンボジアと中国の経済的、政治的な関係をさらに強化し、観光開発を促進する環境も提供している。カンボジアを訪れた外国人観光客数を国別にみると、最も数が多いのが中国人観光客で、2018年には200万人で、前年と比べると10.7%増加した。その中で、112万人がアンコール遺跡を訪れたと推定される。
中国国家観光局及び「携程1」が公表している団体旅行および個人旅行の予約に関するデータを見ると、2018年に中国人に人気の海外旅行上位20の国の中に、カンボジアがランキングされている。さらに、人気の海外上位10都市が発表され、ここにもカンボジアのシェムリアップ(アンコール遺跡のある都市)が含まれている。中国人観光客の継続的な成長に伴い、現地での文化的な観光への需要も増しており、博物館への人気が高まり始めた。携程のデータによると、アンコール国立博物館は中国人観光客の間で非常に人気がある。
 以上は中国人観光客と観光地アンコール遺跡の最近の関係の一端だが、長期にわたってシエムリアップの観光分野を発展させていくためには、アンコール遺跡における中国人観光客の多様な動向の実態や関心などを、カンボジア政府や観光業が把握することが喫緊の課題であると言えよう。

2) 調査目的と方法
 筆者の研究テーマは、「アンコール遺跡におけるイメージの形成――中国人観光客のまなざしから」である。研究目的としては、アンコール遺跡を訪れた中国人観光客に着目し、中国人観光客とアンコール遺跡の出会いを明らかにし、アンコール遺跡での中国人観光客に対する観察調査及びインタビュー調査を行うことによって、中国人観光客のまなざしを解釈し、イメージの形成を明らかにすることを目的とする。
 2018年8月に実施した予備調査は、関係機関とのネットワークづくりとカンボジア観光業について基本情報を収集することを目的とする。筆者は、アプサラ機構観光局とシェムリアップ州観光局を訪問し、カンボジアにおける観光業(特にシェムリアップ)に関する情報を把握した。その一方、様々な問題や困難な状況を了解した。したがって、予備調査の経験を踏まえ、今回は、グループツアーに参加して中国人観光客への個別インタビューをすることに決めた。
 今回は、現地発のアンコール遺跡訪問中国人観光客向けのグループツアーに参加し、同行の中国人観光客を調査対象として、彼らの言動の観察、及びインタビューを実施する。彼らの社会的背景を踏まえつつ、アンコールを訪れる理由を探り、観光客の観光地選択の意思決定へ影響を及ぼす要素を分析する。最終的には、観光のまなざしを解析し、イメージの形成を解明することを目的とする。
 なお、今回の現地調査の成果は、現在執筆中の修士論文にて分析対象として盛り込む予定である。

(二) 調査内容

現地(シェムリアップ)調査は2019年8月27日(火)〜同9月3日(火)に実施、期間中の4日間に渡り、中国人観光客向けのカンボジア・シェムリアップ現地集合・解散のグループツアーに参加した。現地集合・解散のグループツアーを選んだ理由は、中国の異なる地域からくる人たちをインタビュー対象としたかったことが第一である。合計10人の観光客をインタビューし、観光客の全体と細部を観察した。

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1) 日程

8月27日 8月28日 8月29日 8月30日

ツアーガイドから、翌日以降のスケジュールの説明を受ける。

バンテアイ・スレイ
(Banteay Srei)

バンテアイ・サムレ
(Banteay Samre)

バコン
(Wat Bakong)

プリア・コー
(Preah Ko)

ロレイ
(Lolei)
アンコール・トム
(Angkor Thom)

バイヨン
(Bayon)

バプーオン
(Baphuon)

象のテラス
(Terrace of the Elephants)

プラサット・スゥル・プラット
(Prasat Suor Prat)

タ・ケオ
(Ta Keo)

タ・プローム
(Ta Prohm)

アンコール・ワット
(Angkor Wat)
プリヤ・カーン
(Preah Khan)

ニャック・ポアン
(Neak Pean)

タ・ソム
(Ta Som)

東メボン
(East Mebon)

プレループ
(Pre Rup)

スラ・スラン
(Srah Srang)

バンテアイ・クデイ
(Banteay Kdei)

バッチュム
(Bat Chum)

プノン・バケン寺院
(Phnom Bakheng)

2) インタビュー対象の基本情報

性別 世代 出身地 職業 カンボジア渡航回数
女性 40代 福建省 不明 初めて
男性 10代 河南省 学生 初めて
女性 20代 四川省 会社員 初めて
女性 20代 四川省 会社員 初めて
女性 40代 四川省 専門職 初めて
男性 50代 四川省 建築家 初めて
男性 20代 四川省 学生 初めて
男性 20代 湖南省 学生 初めて
女性 60代 浙江省 退職公務員 初めて
男性 30代 浙江省 学校スタッフ 2回目

3) インタビュー内容の概観
 以下、ツアー参加者へのインタビュー結果を抜粋する。なお、以下の本文中の表現は、参加者本人が語った言葉を出来るだけ忠実に翻訳するようにつとめた。各インタビュー内容の分析とまとめは、現在執筆中の修士論文にて公表するため本報告では省略する。
 福建省から1人で参加した40代女性は、歴史など興味がなく、主に彫刻を見るためにアンコール遺跡を訪れた。ニュース、資料など通してアンコール遺跡を知り、自由が好きだという理由で現地からグループツアーに参加した。
 河南省から友達2人と一緒にツアーに参加した高校を卒業したばかりの10代の男性は、小学校の時にカンボジアを知り、アンコール王朝、真臘、クメール民族などすべてを理解してきた。勉強は得意ではないが、小さい頃から歴史、民族、国家、宗教や信仰が大好きであり、自分の目で見てみたかったので、アンコール遺跡を見に来た。実際に来てみて、その多くは、想像していたものと大差ない。アンコール遺跡を舞台にしたゲームがあり、そこに出てくるシーンとまったく同じであると評価した。
 四川からの20代女性会社員2人は、友達の紹介によってアンコール遺跡へ来た。2人のうち1人は、カンボジアへ来る前はイメージが全く無かった。来てみたら、タイやベトナムやラオスに似ている、と思った。観光スポットは、ほぼ石であり、いろんな綺麗な石を見た。しかしながら、観光スポットに関する公式の説明はなく、すべてツアーガイドの口頭の紹介に基づいていた。周辺には公共の交通機関もないし、外国人観光客がアクセスするのが難しいと感じた。もう1人は、アンコール遺跡に対して古くて原始的イメージを持っていた。
 四川省の成都から参加した三人家族(父、母、息子)。母(40代、専門職)は、ソーシャルメディアを通して沢山の情報を入手した。夫の希望に従い、家族一緒にカンボジアに来た。(過去に行ったことのある)トルコや、中国の円明園のほうが、アンコール遺跡よりも壮観だ。アンコール遺跡は、色はあまり明るくなく、石は古すぎるように見える。歴史の重みを強く感じ、美しいが、あまり衝撃的ではなく、トルコの大聖堂のほうが好き。50代の父は、四川省建築科学院で勤務している建築家である。映画『トゥームレイダー』を見て以来、アンコールに非常に憧れていたので、ここに来た。文化的なものに興味がある。元々、流行に従うことや、グループツアーに参加するのが好きではない。しかし、海外に行くと、グループツアーに参加するのは便利であり、何も心配する必要がなく、ツアーガイドは観光客と現地の人との間の橋の役割を果たしている。カンボジアは歴史的には素晴らしい国である。アンコール遺跡も遅く発見されたが、もとの様子が維持されており、ちゃんと保護されていると言った。そして彼は自分の職業柄の視点から、アンコール遺跡の彫刻の建て方や堅実を感嘆し、古代の人々の知恵と労働を感じた。息子は北京大学の三年生で、人工知能について研究している。彼は、ツアー参加者の中で、唯一一眼レフを持っていた人である。しかし、来る前は、カンボジアにアンコール・ワットがあることしか知らなかった。アンコール遺跡は非常に美しくて精美であり、文化的な雰囲気は比較的強く、歴史の重さがあり、でもほとんど同じものがかなりあると感じていた。撮影に興味を持っているが、写真を撮って、フォトショップで加工し、ソーシャルメディアでは共有するつもりはなく、自分のために保存する。
 湖南からの20代の男性学生は、友人から聞いたことがあって、映画『トゥームレイダー』で見たこともあり、そして歴史的建造物に興味があるためアンコール遺跡を見に来た。カンボジアへ来る前、アンコール・ワットは非常に壮大だと思っていた。地域の人々に対するちょっと偏見があり、法律と秩序が機能しないと感じていた。カンボジアへ来た後、アンコール遺跡に関するイメージが変わった。想像のような壮大ではなく、寂しさを感じた。そのような偉大な建築と文化遺産が時間の長い川でゆっくりと姿を消したのは残念であり、また、今の人々が、古代人が残した宝を完全に保護することを願っている。彫刻に反映された古代の労働者の素晴らしいスキルと無限の知恵は最も印象に残っている点である。
 浙江杭州から来た母子二人。60代の母は、元公務員で今は退職している。アンコール遺跡に関するテレビ番組を見て、歴史的、文化的背景を理解した。現在の人々は多くがもっと現代的な発展した都市に魅力を感じて遊びに行く傾向にあることと相反し、自分はアンコールのような原始的な地域に魅力を感じている。都市の発展と遺跡の雰囲気の矛盾や、観光客の中には「遺跡ばかりで見飽きた」という見方をする人もいるが、自分は異なる考え方をもつ。将来、シェムリアップにおける都市開発も他の国を模倣することではなく、自分に合う道に従うべきである。また、独自の特性を持たせるために、アンコール遺跡はシアヌークビルやプノンペンと同じ方向に向いてはならない。遺跡を修復しながら古さを維持する方法、歴史の重さを持つ方法は研究者の課題である。個々の遺跡は当時の王朝の全体像、つまり人々の生活の像を形成した。ツアーガイドがこの視点から説明することができれば、寺を紹介するときに、観光客は昔の光景を考えることができる。この観点から見ると、観光客の審美疲労は軽減される。なぜなら、各スポットは一枚の絵の異なる葉を表し、それぞれの葉が欠けていけないからである。地元の観光局がどのような発展を計画しているのか、各観光スポットを壮大な方法で有機的に接続するのか期待されている。30代の息子はツアーの中で、唯一過去に既にアンコール遺跡へ来たことがある人である。初めてアンコールに行った時に、アンコールの美しさに衝撃を受けた。再び来る理由は、母に付き添うことである。旅行テレビの紹介を通じてアンコール遺跡を知り、建築と宗教は非常に心を震撼された。前回はあまりメンテナンスが行われていなかったと感じたが、今回は明らかに多くの寺が修復し始め、保護され、重視されている。アンコール遺跡は人類文明の遺産であり、将来に多くの人々が見るために、修復は大切だと評価した。

(三) 終わりに

 2018年のフィールドワークでは、未公開の公式的なデータの収集し、関係機関――アプサラ機構観光局とシェムリアップ観光局の担当者がカンボジア(アンコール遺跡)の観光業と中国人観光客に対する認識を把握したが、計画が思い通りに進まなかったため困惑した。今回のフィールドワークは、前回の失敗を反省し、積極的にインタビューし、観光客の言動の細部を観察し、たくさんの艱難を克服した。観光客と語り合う際に、たくさんの目新しいポイントが現れた。調査者の視点から、観光客と一緒に見物することは新鮮であり、かつてない経験である。

トルコ / アンタルヤ、 イスタンブル

報告者:髙橋 洋平(タカハシ ヨウスケ)
    グローバル・スタディーズ研究科 地域研究専攻 博士前期課程
調査期間:2019年8月22日~9月9日
調査・研究課題名:兵役をめぐるトルコ人同性愛者の社会的ストラテジーに関する予備調査

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(地中海を背にお話を伺う、アンタルヤ)

(夕暮れのボスポラス海峡を眺めながらインタビュー、イスタンブル)

1.はじめに

 私たち日本人にとって、自らの人生を大きく左右する分岐点といえば何でしょうか。おそらく多くの人が、受験・就職・結婚などを挙げるでしょう。今回私が調査したのは、トルコ人男性にとっての人生の分岐点であるとされる「兵役への参加」をめぐって、トルコ人男性のなかでも、特に同性愛者がこれにどう向き合っているのかということでした。軍および皆兵制のない日本では想像することが難しいですが、トルコでは兵役に行くか行かないかによって、あるいはどのように兵役と向き合うかが、特に同性愛者にとって、その後の人生に多大な影響を及ぼしていることがわかりました。

2.調査の背景および概要

調査は2019年8月22日から9月8日にかけて、トルコ南部の地中海沿岸に位置するアンタルヤ、および最大の都市イスタンブルで行いました。なぜこのタイミングで調査を行ったかといえば、ここ1年ほどで兵役をめぐる新たな法案が可決されてきたからです。
 これまでトルコは男性皆兵制が敷かれており、国外で一定期間居住・労働している男性のみ、一定金額を政府に収めることで免除が許可されていました。つまり、国内に居住する男性は例外なく兵役への参加が義務付けられていたのです。しかし、2018年に新たに通過した法案により、誰でも15,000リラ(当時およそ45万円)を納付すれば、約1か月の短期訓練のみで兵役を終えることができるようになりました。この金額は多くの国民にとって非常に高額なものでしたが、さらに2019年6月の法案で31,000リラ(2019年現在のレートでおよそ60万円)への値上がりが決定したのです。
一方で、例外的に同性愛者は男性皆兵制の時代から兵役を免除されてきました。これは政府によって公式に明文化されたものではありませんが、先行研究によって実際に無料で免除となった人たちの存在が明らかにされています。つまり、新法案によって、男性同性愛者には、①兵役に参加する、②同性愛者であることを明かして免除を希望する、③一定の金額を納付することで短期訓練に短縮する、という3つの選択肢が与えられることになりました。そこで彼らがどのような信条や理由をもって、どの選択をしたのか(これからするのか)調査を行いました。 調査の軸は、当事者と対面して話を聞かせてもらう、質的な聞き取り調査です。インフォーマントを選択する方法はいくつか存在しますが、今回は私の直接的な友人を中心として、さらに一部の友人には彼らの知り合いを紹介してもらいました。そのため、実際の友人が6名と、友人に紹介してもらった2名の計8名に聞き取り調査を行いました。基本的な質問事項は日本で準備していき、おおむねすべてトルコ語で質問を行い、さらに掘り下げたいテーマがあれば追加で質問しました。調査場所は、レストランあるいはカフェ、まれに友人宅で実施しました。

3.調査結果①:兵役について語ることは、人生について語ること

 同性愛者に限らず、トルコ人男性にとっての兵役とは、その後の人生を大きく左右しうる重要な分岐点であるようです。2019年9月現在の兵役期間は、大卒者はおおむね半年、大卒未満であれば約1年であり、この先、新法案により学歴に関係なく半年に統一され、希望者のみが半年延長できるようになる見込みです。こう聞くと、長い人生におけるたった半年(ないしは1年)の出来事にも思えますが、兵役への向き合い方によってその後の人生が大きく左右されるのです。当初の予定では、兵役との具体的な向き合い方について聞き取り調査をする予定でしたが、それが意図せずとも個人のライフヒストリーを聞き出すことになりました。
 では、兵役への向き合い方が、具体的にどのように彼らの人生を左右しているのでしょうか。たとえば、ゲイであると自己同定するジェンギズハン(Cengizhan、本人希望の仮名、以下のインフォーマントについても同様)は、兵役終了後の就職を考えた結果、兵役への参加を決断しました。兵役が終わると、それを証明する公的な文書が発行されますが、それを有していない男性は公的機関に就職することはできないとされています。彼は政府機関で働くことを夢見ており、それを実現させるためには兵役への参加が絶対的な条件なのです。
 あるいは、住宅を探すことに不安を覚える人もいます。メフメト(Mehmet)によると、住宅を契約する際にも、大家から兵役終了証明書の提示を求められることがあるのだといいます。これまで、男性皆兵制により兵役から免除されてきたのは同性愛者だけだったことから、証明書が提示できないことは同性愛者であることのサインであるともされてきました。就職・住宅契約の際に証明書が提示できなければ、その瞬間だけでなく、会社や不動産を通じて、近隣のコミュニティや家族にも彼が同性愛者かもしれないという噂が流れてしまう危険性(いわゆるアウティング)があります。彼らにとって、たった半年間従軍したか否かで、自立した生活が送れなくなるかもしれないのです。

4.調査結果②:同性愛者の免除は特権なのか人権侵害なのか

 同性愛者は無料で免除されるといっても、単に従軍の義務がなくなって楽ができるというわけではありません。むしろ、免除が認められるまで数回の検査を受け、本当に同性愛者であることを証明しなくてはならないのです。その手段には、心理テストの受験・肛門検査・同性間性交を証明する写真や動画の提示がありましたが、後者ふたつはEU加盟交渉中のトルコに対して、ヨーロッパ人権委員会が大きく批判したことで廃止されました。しかしながら、同性愛者を「心理性的異常(psychosexual disorder)」であると見なすこのシステムは、兵役に参加したくない同性愛者にとっては救いである一方、残酷でもあります。
 今回の聞き取り調査のなかで、同性愛者が無料で免除されていることは、同性愛者だけが無料で国民の義務を放棄できる「特権」であるのか、それともヨーロッパ人権委員会が批判したように免除のプロセスが「人権侵害」であると思うか尋ねたところ、ひとりを除いて全員が人権侵害であると考えていました。しかし、人権侵害であり今すぐやめるべきであるという意見もある一方、人権侵害ではあるもののシステム自体は存続すべきであり、認定のプロセスのみ改善が必要であるという見解も出たのです。
 反対に、特権であると答えたのはゲイのホマレ(Homare)です。彼はむしろ、同性愛者であるにも関わらず、高額な税金を納付したり、気の乗らない兵役をこなしたりすることは、お金と時間の無駄であるといいます。また、彼は各国の良心的兵役拒否 の動向に精通しており、トルコでも十分に認められるべきであると考えています。彼はまだ学生であり、これから兵役に参加するかの選択を迫られますが、間違いなく免除の手続きを踏むと決め、ゲイのコミュニティ内でどうすれば審査に通るのか、仲間たちと情報共有をしているところです。  以上のように意見は一部食い違っていますが、全員が現状のシステムには不満を抱き、改善を望んでいることがわかりました。

5.調査結果③:多様なストラテジー

 2018年から選択肢が3つへと増えたことで、個人が兵役と向き合う際のストラテジーも多様化しています。今回の調査は8名という限られた人数のインフォーマントを対象としていますが、それでも3つの選択肢それぞれを選んだ(これから選ぶ)人に話を聞くことができました。
 何も申告せずに従軍したのは、メフメトとピカチュウ(Pikachu)、アリ(Ali)、ジェンギズハン、クゼイ(Kuzey)の6名です。彼らは全員が大卒・大学院修了(見込み含む)であり、従軍期間がおよそ半年であること、学歴によって役職が与えられ、過酷な労働はおおむねなさそうであることから、自分の意志で従軍を決意しました。うち3名は既に従軍しましたが、基礎トレーニング以外に過酷な労働はなく、戦地(現在では南東部)への配属もなかったといいます。むしろ、ほかの男性や職業軍人の軍曹などとの共同生活をおくることを楽しみにしていた者もいました。
 一方、大学院に進学予定のウミ(Umi)は、15,000リラを納付することで従軍期間を1か月に短縮することにしました。彼は、良心的兵役拒否は同性愛者だけでなく、すべての人類に認められるべきであると考えています。兵役訓練中には拳銃の使用訓練があるとされますが、彼は銃を所持・使用することに抵抗があり、それが最大の理由になったといいます。とはいえ、現在の政府が定める最低月収が2,020リラ(2019年9月現在のレートで約4万円)であることを考えても、誰もが15,000リラ(約29万円)を納められるわけではありません。幸いにもウミの家庭は裕福であるため支払うことができましたが、彼によると若い男性の多くが、所有する自動車やスマートフォンといった高価な物品を売るなどして、この金額をどうにか集めようとしているようです。反対に、アメリカ以上の格差社会であるといわれるトルコでは、今回の調査でも他のインフォーマントから、この費用を支払える家庭に生まれた人を妬むような発言もありました。
 最後に同性愛者であると自己申告をして、免除の審査を受ける決意をしたのが前述のホマレです。彼は他のインフォーマントとは異なり、ゲイ・コミュニティに身を置き、先輩ゲイの兵役参加・免除の様子を見てきました。彼の周りでは、およそ9割が免除の申請をし、受理されています。その最大の理由は、安全に関わることです。トルコで新聞を見ると、ほぼ毎日といっても過言ではないほど、新聞の一面に殉死した軍人の名前と写真が掲載されています。彼らの多くはシリア国境付近のトルコ南東部に配属され、トルコ政府がテロ組織として認定しているクルディスタン労働者党(PKK)との戦闘で命を落としています。基本的には、兵役で参加した新米兵が戦線に配置されることはありませんが、新法案によると、希望者は追加給をもらう代償に南東部に配置されるようになる見込みです。これについて、生まれが裕福ではなかったホマレは、貧しい人だけが危険な目に遭わされると強く非難しており、無料でこの危険性を回避できる免除の申請に向けた準備を行っています。
 以上の例から分析できることとして、兵役参加を左右する決定要因となるのは、それぞれの金銭的な事情でしょう。たとえ反戦主義や平和主義などの個人的な信条をもっていても、上記のまとまった金額を支払えなければ免除されることはありません。同性愛者であることを申告し、「心理性的異常」であると認められれば無料で免除となるのですが、彼らの多くはこの免除のプロセスを人権侵害であると見なしており、アウティングの危険性もあることから安易に自分から申請することはありません。そのため、良心的兵役拒否を望む人の中でも金銭的な事情によって、①一定金額を納付して期間を短縮する人、②同性愛者であることを申告し免除の手続きに入る人(納付できないため人権侵害であるとわかっていながらも申請する)、③兵役に参加する(良心的兵役拒否をあきらめる)という選択をしている人に分かれるのだと思われます。

6.調査を終えて

 調査を振り返ってみると、予備調査としては十分な結果が得られたのではないかと思います。次回は修士論文の執筆に向けた本調査を実施する予定ですが、今回得られたデータを丁寧に整理し、今後より質の高い問いかけができるよう準備を行います。課題点としては、個人へのプライバシーの配慮が挙げられます。聞き取りの内容が個人の兵役体験やセクシュアル・オリエンテーションに関係するものだったため、調査自体も慎重に行いましたが、一部のインフォ―マントには、さらなる配慮が必要だと思われるケースも見受けられました。インフォーマントも私も、安心して気持ちよく会話のできる環境を整備できるよう、準備を進めていく予定です。
 最後になりますが、本調査は上智大学大学院グローバル・スタディーズ研究科地域研究専攻のフィールドワーク・サポートによる支援を受けて実施しました。ご協力いただいた先生ならびに専攻事務の方々に感謝申し上げます。

エジプト / タンター

報告者:近藤 文哉(コンドウ フミヤ)
    グローバル・スタディーズ研究科 地域研究専攻 博士後期課程
調査期間:2019年10月14日~11月13日

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アフマド・バダウィーのマウリドにて

預言者マウリドのザッファ(奥にサーリフ・ジャアファリー・モスク)

 本調査は、エジプト・アラブ共和国のタンター市で実施されるアフマド・バダウィーのマウリド(聖者祭)、ディスーク市で実施されるイブラーヒーム・ディスーキーのマウリド、カイロ市における預言者ムハンマドのマウリドを対象として実施した。
 加えて、預言者マウリドの期間中販売される、マウリドのアルーサ(花嫁人形)の状況の調査も行った。

アフマド・バダウィーのマウリド調査

 アフマド・バダウィーは、モロッコのフェスあるいはイラク出身の聖者であり、タリーカ(スーフィーの流派・教団)のアフマディー教団の創始者である。彼のマウリドは、エジプト国内で有数の規模を誇る。その実施日は、その他の多くのマウリドがイスラーム暦に準拠しているのに対し、太陽暦(農事歴)に従い毎年10月に実施されることになっている。しかし、正確な日付は年度ごとに多少変化する。本年度のバダウィーのマウリドでは、2019年10月17日がライラ・カビーラ(偉大なる夜)だった。その日は、聖者の誕生日であるとされ、祝祭が最も盛り上がる日であり、また1週間ほど続く祝祭の最後の日でもある。報告者は、タリーカのテントが密集する広場(サハ)において、昨年度と同じタリーカS(ミヌフィーヤ県T村を拠点とする)を調査した。タリーカの祖であるシャイフの息子兄弟のひとりはハッジュ(メッカ巡礼者)であり、英語が堪能、かつエジプト国内のマウリドを数多く渡り歩いてきた経験を持つ。例えば、アスワン以東の都市で実施されるシャーズィリー教団の祖アブー・ハサン・シャーズィリーのマウリドにも赴いたことがあるという。バダウィーのマウリドにおいては、露天商などの商行為を実施する人々は、聞き取りのかぎり皆近隣地域やカイロから来ていた。対して、スーフィーの参詣の活動・範囲はエジプト全土に及ぶものであり、両者の間にある大きな相違点のひとつであろう。
 また、シャイフの孫2人はともにアズハル大学の医学部を卒業しているという。彼らとの会話において興味深かったのは、タリーカSの創始者であり、彼らの祖父であるシャイフのマウリドの日付についてである。前述のように、マウリドは通常イスラーム暦に従い実施されるため、西暦の観点からは1年ごとに10日前後早まって実施されるようになる。しかしながら、彼によれば、そのシャイフのマウリドは毎年実施されているにもかかわらず、実施日はイスラーム暦ではなく西暦に従って(5月上旬)規定されているという。むしろ、「イスラーム暦でいつなのか」という報告者の問いに対しては困惑すらみられた。これまで報告者が調査してきたのは、歴史上非常に有名な人物の、長年にわたって継続されてきたマウリドであった。それらのエジプトのマウリドの実施日からみれば、バダウィーのマウリドこそが例外的な事例であり、その特殊性は、注目されつつも一般的なマウリドの考察において脇に追いやられていた。しかしながら、その他にも西暦に準ずるマウリドがあるという事実は、「どのようにエジプトのマウリドの実施日が決定されるのか」という問いが大きなものであることを報告者に自覚させることになった。こうした問いに対しては、ここ数十年(まだ祝われる当人の息子が生きているような、西暦が大きな役割を担う時期)に始められた小規模なマウリドを調査することが今後必要であると考えられる。

イブラーヒーム・ディスーキーのマウリド調査

 タリーカのブルハーミー教団の祖、そしてアフマド・バダウィーの弟子だったイブラーヒーム・ディスーキーのマウリドの偉大なる夜は、バダウィーのマウリドのそれのちょうど1週間後の10月24日であった。報告者は、当日の午後にディスークに到着後調査を行った。
 バダウィーのマウリドと比較して、ディスーキーのマウリドは規模が大幅に小さくなっており、使用される空間の広さ、また人の密集度は、カイロのサイイダ・ナフィーサのマウリドに類比される。祝祭はディスーキーの廟が置かれるモスクを中心として、主に南西の広場、北東と南東へと至る通りにおいて実施されていた。広場と南東への通りには、砂糖菓子を販売する露店と移動式遊園地が設置されており、遊園地の遊具には、バダウィーのマウリドにあった施設も観察された。他方、北東へと至る通りは、主にタリーカの人々が滞在する場所とみられ、さまざまなタリーカの人々がその通りからさらに奥の通りにもいることが確認された。
 ディスーキーのモスクでは、人々は男女の区別なく同じ出入口から出入りしており、聖者廟内でも、礼拝の際先頭付近は男性しかみられなかったものの、男女の区別はされていなかった。報告者がモスクで滞在している時間は、ちょうどマグリブ(日没)の礼拝が行われる時間であったが、礼拝が終わった後、人々は聖者廟の隅に設置された「預言者の手型」の石へと詰めかけた。これは、預言者からバラカ(恩寵)を授かるためであり、人々はその石をしきりに撫で、その手で自身の頭を撫でるなどしていた。アフマド・バダウィーのモスクでは、預言者の足型があり、ディスーキーのモスクはその対比だという推測もできるが、足型は他の聖者廟でもしばしば存在するため、現在のところ比較のための根拠とはなっていない。
 マウリドの警備に関しては、警察のバリケードによってマウリドの空間の内と外は分けられているものの、バダウィーのマウリドとは異なり、金属探知を行うセキュリティーゲートはなく、また荷物検査などの検問自体も行われることはなかった。

預言者マウリドの調査(カイロ)

 2019年11月8日、9日は、カイロで預言者のマウリドを調査した。8日は夜の7時以降、フセイン・モスク側に設えられたテント群で順次ズィクル(神の想起のための修行・儀礼)が行われた。特に目を引いたのが、東南アジア系のムスリム(主にアズハル留学生)が非常に多く詰めかけていたことだった。テント群の位置する敷地に入ると、アジア系と認識された人々は一律に最も奥で規模が大きな、去年は存在しなかったT教団のテントに誘導された。そのため、そのテント内は、地元の人々が極度の少数派という状況となった。また、昨年の預言者マウリドや、カイロのサイイダ・ザイナブ、サイイダ・ナフィーサのマウリドでもみられたM教団のズィクルを調査した。ズィクルは日に数度実施されるようであり、その都度朗誦される予定の詩のコピーが参加者に配布される。ズィクルは、身体的な側面をほとんど有さず、配布された詩を朗誦することに力点が置かれていた。ズィクル終了後、参加者には簡単な飲み物が渡され、その後夕食も(報告者は丁重に断ったが)提供されたようである。こうした無料の飲食物の提供はヒドマ(サービス、奉仕)と呼ばれており、他のすべてのマウリドで観察される。また、こうした一連の形式で行われる実践はハドラ(集会)とも呼ばれる。
 9日には、タリーカによるザッファ(行進)の調査を行った。ザッファはこれまで、預言者マウリドの当日、午後に行われるアスルの礼拝後、サーリフ・ジャアファリー・モスクから西のフセイン・モスクまでの数百メートルを経路としていた。しかし今年度のザッファは、ジャアファリー・モスクが起点だった点は変わらないものの、タリーカの行列は北へと進路をとり、スーフィー教団最高行政府al-mashikha al-amma lil-turq sufiya(المشيخة العامة للطرق الصوفية)を終点として行進は解散した。掲げられていた旗はしまわれ、行列の最後尾の騎馬隊の監視をよそ眼に、解散したタリーカの人々は再度自主的に盛り上がりを見せつつ個別にフセイン・モスクに向かった。
 以上のような経路の変更は、地元の人々にとってもあまり認知されていなかったように思われる。ザッファが始まる前には、例年通りの経路上の縁石に座り行進を待つ人々が多数存在し、また、ザッファの解散後には、見物客とみられる人物が、タリーカの人間に行列が終わってしまったのか聞く場面もみられた。この変更は、後日発行された新聞上では、安全上の問題が要因であると記述されている。確かに、これまでの経路では、数百メートルという距離の行進にもかかわらず、道が狭く極度に人が密集してしまっていた。加えて、海外の観光客も多く、何らかの事件が発生すれば、政府にとっても大きな打撃であると考えられた可能性がある。また、2017年の預言者マウリドにおいて実施予定であったザッファは、300人以上が死傷し、スーフィーが対象とされていたともいわれている直前に発生したシナイ半島でのテロ事件によって中止となった。この事例も考慮された可能性がある。加えて、もともとal-mashikha al-ammaはフセイン・モスク付近にあり、その機構が今回の終点である施設に移動したことも大きな要因であると考えられる。新施設付近には警察組織の一部とみられる施設も存在し、道路の幅も広く、監視という点からは非常に都合の良い場所であろう。

マウリドのアルーサ(花嫁人形)の調査

 その他の期間は、主にマウリドのアルーサの調査に充てられた。アルーサは、預言者のマウリドの期間中に販売され、民衆的・フォークロア的な存在として、エジプト人に認知されている。アルーサには、伝統的技術によって砂糖から作られた砂糖菓子人形、プラスチックの人形を装飾したプラスチック人形の2種類がある。報告者はこれまで、双方の製造過程と販売に関して調査を行ってきたが、今回の調査ではその他、アルーサのイメージを用いた装飾品販売について調査を行った。
 これらアルーサをイメージとして作られた装飾品は、ザマーレク、ダウンタウン、マアディー、ナスル・シティといった富裕層向けのセレクトショップで販売されている。キーホルダーのような安いものでも50-100ポンド(約300-650円)で、一般的なエジプト人にとっては非常に高価である。デザイナーも同じく富裕層とみられ、聞き取りした女性の一人は、上述の砂糖菓子人形やプラスチック人形にはほとんどなじみがないとのことであった。
 以上のように、ほとんどのエジプト人が認知するアルーサという対象は、社会・経済資本の異なる人々によって様々な認識・消費をされている。こうした点はアルーサの研究において非常に重要な観点であると考えられることから、今後も装飾品販売について継続して調査する予定である。

キューバ / ハバナ

報告者:梶原 光莉(カジワラ ヒカリ)
    グローバル・スタディーズ研究科 地域研究専攻 博士前期課程
調査・研究課題名:キューバの教育政策に関する資料収集及び情報へのアクセス獲得

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ハバナ大学図書館にて。間にあるポスターに写っているのはフィデル・カストロ。

ホセ・マルティ国立図書館の近くにある看板。

 この報告書は、2019年8月31日から9月20日にかけておこなった、キューバのハバナでの調査について報告するものである。今回の渡航では、キューバの教育政策という筆者の研究テーマに則し、第一の目的であるスペイン語の習得と並行して、資料収集と人脈形成という二つの目的でおこなった。キューバに関して閲覧できる資料や文献には限りがあるため、この二点は今後の調査のためにも必要であると言える。また、今回の渡航は次の春季休業中にもフィールドワークを行うことを念頭に置いたものである。

ハバナ大学のスペイン語コース受講

 キューバを研究の対象地域として設定するにあたり、スペイン語の習得は不可欠であるということ、また、教育機関と通じることで、今回の調査の目的である資料収集やこの分野の研究へのアクセスを図ることが期待できるという理由から、ハバナ市内にあるハバナ大学でのスペイン語コースを3週間受講した。実際の教育現場での経験ということで、筆者の研究内容に関係している発見もいくつかあった。それについてここで何点か言及する。
 キューバでは国民は小学校から大学まで教育を無償で受けることができるが、非スペイン語話者がスペイン語コースを受講する場合も、例えば3週間のコースは240CUC(1CUC=108,32円)、4週間のコースは300CUCである。この受講料が理由でスペイン語を学ぶのにキューバを選んだと話す学習者は何人もいた。実際に受講してみると、教育水準が高いと言われるキューバの教育現場の特徴にも触れることができた。クラスは10人前後の少人数制で、横に長い教室で生徒は横一列に座る。このため、全員が教師と近い距離で授業を受けることができた。授業はパソコンやテレビを使って進められ、動画を見たり音声を聞いたりしたこともよくあった。テキストは恐らくハバナ大学のスペイン語コースオリジナルの、印刷したものをホッチキスでとめた冊子で、使い回しのため授業のたびに配られ回収された。このように電子機器を活用しなるべく消耗品を使わないようにするのは、物資の不足が深刻なキューバならではの授業スタイルであると感じた。
 授業最終日には当コースの修了証書を受け取った。今後はキューバでの語学の習得を確認するために、DELEスペイン語検定を受ける予定である。

今後の研究に活かすための人脈形成

 キューバの研究において、国外からは捉えづらい現状を把握するため、また現地調査の際に事前に情報を収集できるようにするために、日本にいても連絡が取りあえるキューバ国民の知り合いをつくることが必要だと考えていた。したがって、人脈形成も渡航の目的の一つとしていた。
 調査期間中は、あらゆる場面で複数人と連絡先を交換することができた。ハバナ滞在中はカサ(民家)に宿泊した。3週間の滞在のため1週間ごとにカサを変え、合わせて3件のカサに泊まった。特に深い関係を築くことができたのは1件目で、そちらには小学生の子どもがいた。キューバの教育に興味があることを伝えると、小学校の話をしてくださったり小学生が使う複数の教科の教科書を見せてくださったりした。帰国後もキューバの初等教育について教えてもらうために連絡を取り合えるか伺うと、快く承諾してくださった。
 また、ハバナ大学内でも人脈形成に協力してくださる教員や職員、街で仲良くなった婦人やそのご家族などとも連絡先を交換することができた。依頼や予定を忘れられてしまったこともしばしばあったため、連絡先を知っている方のなかで一人とでも連絡を取り続けていられたらいいと考えている。また、次回の渡航を予定している春季休業期間中は、ハバナ大学のスペイン語コースのクラスメイトも何人かまだハバナに滞在している予定であるので、キューバ国民ではないが、こちらの人脈も事前情報を得る際に活かしたい。
 残念なことに、紹介をいただいてアポイントメントを取っていたハバナ大学の教授とは、直接お会いしお話することができなかった。これはうまく連絡のやり取りをすることができなかったためであるが、この反省を活かしてもう一度機会が得られたらいい。

資料収集

 キューバの教育に関する資料、特に日本では入手困難なものを探すために、ハバナ大学の図書館、ホセ・マルティ国立図書館、そして複数の書店を訪れた。
 まずハバナ大学の図書館は、スペイン語コースを受けている生徒も利用可能であった。ジャンルごとに分けられた箱に入っている図書カードのなかから読みたい本のカードを出し、受け付けで持っていてもらうというスタイルで、図書館内でのみ閲覧可能である。政治などといったジャンルは設けられていなかった。また、教育や歴史などの箱のカードを見たが、書籍は1959年の革命前に書かれたものなど古い資料が非常に多かったため、研究の参考になりそうな資料はあまりなかった。雑誌などの資料は、後述する民間書店にも置かれているものが多かった。
 ホセ・マルティ国立図書館では、初回に入館証をつくってもらう必要があった。その際にハバナ大学の学生証を見せたり、自分の研究内容についていくつか質問されたりした。一部の本は棚に並べてあり手に取ることもできたが、1998年までに出版された多くの資料は、ハバナ大学の図書館と同じくカードを受け付けに持っていく方式であった。現在はデジタルでの検索ができるようである。所蔵されている雑誌や新聞は19世紀後半に出版されたものが非常に多かったのが印象的であった。キューバの政治に関するものや、キューバに関する内容で米国で出版されたものなどもあり、雑誌の種類も非常に数が多かった。1959年のキューバ革命以降にも出版されている資料について、内容は日本でも閲覧することができるかなどを調べることは、調査が終了した現在の課題である。また、19世紀の社会科学に関するものが現在も国立図書館にこれほど多く所蔵されていることも興味深いので、これらがどのような立場で書かれたものなのかを調査することも今後の課題としたい。そしてまた図書館内には、フィデル・カストロの写真だけが四方に飾られたギャラリーや、キューバ革命に関する資料などの展示、昔のおもちゃやお祭りのポスターの展示などもあった。
 また、両図書館を見て気がついたことは、キューバの教育について言及されている本ではUNESCOと関連付けられていることが多かったということである。これは、UNESCOがキューバの教育における業績を評価し、モデル国として推奨していることと関係していると考えられる。
 ハバナ市内の書店では、チェ・ゲバラやフィデル・カストロの顔が描かれた表紙の書籍が目立った。ハバナ大学近くの書店にはハバナ大学の経済学部が出版している “Economía Desarrollo(経済発展)”や “Revista Cubana de Educación Superior(キューバの高等教育誌”) 、“La Gaceta(定期刊行物)”といった雑誌があり、学問に関するものが特に多かった。キューバからは本を持って帰ることが難しいという話を何度か耳にしていたが、書店で購入した本はすべて日本まで持ってくることができた。
また、前述したように宿泊先で小学生の教科書を見せていただいたこともあった。教科書はやはり使い回しで、どれも紙やビニールで補強されていた。また、内容は19世紀末のキューバの思想家であるホセ・マルティと関連付けられているものがいくつかあった。キューバ革命において、革命軍を指導したフィデル・カストロが彼の思想に強く影響を受けており敬っていたことが、そのことと関係していると考えられる。彼の思想や存在が教育においても重要とされていること、そしてそれを後世にも語り継ぎ残そうとしているという姿勢を垣間見ることができた。教科書は何冊か頂けたので、資料として研究に役立てることを期待している。

 フィールドワークでは、予期していなかった成果をいくつも得ることができた。例えば、街を歩いているとそう広くない範囲でいくつもの小学校を発見した。それぞれそんなに大きくて目立つものではなく、周りの住宅と同じような外観であった。もともとあった建物がそのまま使われているためと考えられるが、ここにも少人数での学習を重視するキューバの特徴を見ることができた。各小学校の入り口にホセ・マルティの胸像が置かれているということも、目で確かめることができた。午後には子どもたちが何人も集まって公園や広場で追いかけっこをしたりボールで遊んだりしているのを見かけたが、時々それを仕切っている先生のような人もいたので、学校に運動場がない代わりにこうして外で遊ばせているのであろう。これらのことから、学びの環境を新しく作るのではなく、既にあるものを活かして学びに役立てていることがわかった。革命後の豊かとはいえない状況下で、教育の質を上げることに取り組んでいたためと考えられる。また、ある土曜日の日に宿泊先のご夫婦が息子の小学校の天井の修理をしに出掛けたことがあった。その様子を動画でも見せていただいたが、保護者が教育の現場に深くかかわっているということがわかった。家でも壊れた扇風機を親子で直していたことがあり、このような経験から、壊れたものを直して長く使う習慣や、自分の身の回りの課題を自分自身や同じ社会集団に所属する人と一緒にこなすということを学ばせていくのだと知ることができた。
 今回の調査は二度目の現地調査があることを想定したものであったため、間接的ではあるが、次回の渡航の際に今回得た情報や経験を活用することで、今後の研究に活かしていきたい。また、現在は研究テーマを絞っていく段階でもあるため、その際にも今回の発見などを参考にできると期待している。しかし今回のフィールドワークでは、予定していたがなし遂げることはできなかったということもたくさんあった。今回の反省を踏まえると、次回の渡航に向けて日々準備していかなければならない。次の調査までの間は、さらに研究テーマを絞ったうえで授業などを通じてフィールドワークの手法をしっかり学び、より具体的なテーマや方法で調査を行いたいと考えている。そして次の調査においても修士論文の執筆においても、今回の調査で得たものが大いに発揮できるよう努めていく所存である。

ブラジル / リオデジャネイロ

報告者:重田 実麗(シゲタ ミレイ)
    グローバル・スタディーズ研究科 地域研究専攻 博士前期課程

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 私は、2019年9月13日から25日までの約10日間、ブラジルのリオデジャネイロ市のファヴェーラ・サンタマルタでフィールドワークを行いました。目的は、サンタマルタで観光業を営む住民へのインタビューと、彼らの仕事の参与観察でした。
 リオには、ファヴェーラと呼ばれる都市スラムが1,000以上あるといわれています。低所得者層による不法占拠を起源とする集合住宅でさまざまな行政サービスが欠如しているという点は共通していますが、それぞれ異なる歴史をもち、拡大形態も規模も多様です。私の研究では、市内南部ボタフォゴ地区に位置するサンタマルタというファヴェーラに着目し、拡大の歴史の中で近年高まってきた住民主導型の地域活性化の動きを明らかにすることを目指しています。
 サンタマルタは、メトロのボタフォゴ駅から歩いて10分の距離にあるドナ・マルタの丘(Morro Dona Marta)に約6,000人が暮らす、比較的小規模のファヴェーラです。1930年代に誕生し、現在まで拡大を続けてきました。私が研究対象にサンタマルタを選んだ理由は、2008年の州政府による常駐治安維持部隊(UPP)導入をきっかけにファヴェーラ内の環境が改善されたことから「モデル・ファヴェーラ」として注目されているからです。多くのファヴェーラが政府等の介入を拒み孤立する中で、サンタマルタは外部組織と積極的に関わりながらより良い地域づくりを目指しています。 以前は他のファヴェーラ同様、サンタマルタでも権力を持った麻薬組織と警察が銃撃戦を起こし、住民の生活を脅かしていました。また、インフラの整備が脆弱であることも見て見ぬふりをされている状態でした。しかし、こうした都市スラム等の社会格差の問題が可視化されることを願った米歌手マイケル・ジャクソンがMV撮影地として選んだことで注目を集めたのち、2008年のUPP導入によって地域の課題を洗い出し生活環境の改善に向けて動き出しただけでなく、2014年サッカーW杯・2016年リオ五輪開催をきっかけに、さらなる集客が見込まれると予想した州政府観光局によって、ふもとに公式の観光案内所が設置され、リオを訪れる他州のブラジル人や外国人観光客を対象とした観光地化が進められました。
 今回のフィールドワークでは、サンタマルタ観光の目玉のひとつである住民主導の地域活性化プロジェクトや生活環境の改善にむけた取り組みを知るためのインタビュー調査、ツアーに参加する観光客の動向を知るための参与観察、そしてこれらによって得られた情報に基づくコミュニティ・マップの作成を行いました。滞在期間が短かったため、地域研究において重要であるとされる「地域住民との信頼関係」を一から築くことは困難であると判断し、同テーマで執筆した卒論のデータ収集で協力を仰いだサンタマルタの住民ガイドA氏と、その弟B氏と改めてコンタクトをとり、すでにお互いが信頼関係にある状態で調査に臨みました。A氏は、基本は昼にツアーガイド、夜に助産師、その他にも日替わりで3つの職場に勤務しています。弟のB氏は、大学で法学部に通いながらツアーガイドを務めており、将来は弁護士として地域に貢献することを目指しています。二人はNGOを立ち上げ、住民と外部団体の協力を仰いでサンタマルタがより良いコミュニティになるよう努めています。このように、ツアーガイドとしての客観的な視点と住民としての主観的な視点を併せ持った2人と行動を共にすることで、さまざまな角度からサンタマルタを観察することができました。
 彼らのツアーは、ふもとの観光案内所で待ち合わせ、ケーブルカーで頂上まで上り、複数の観光スポットを巡りながら歩いて下るというのが基本の流れになっています。観光客の要望・関心によって内容を臨機応変に変更するため、全く同じツアーは存在しません。毎日1~2回の予約が入っており、私の滞在中はエクアドル人3人、チリ人2人、フランス人2人、アメリカ人1人、日本人1人、オーストラリア人2人を案内する計6回のツアーに同行させてもらいました。
①ケーブルカー(bonde)
 サンタマルタを含むファヴェーラの多くは山の斜面にあるため、毎日長い階段を登るのが住民の負担になっています。ここでは2008年のUPP導入と同時期に政府によってケーブルカーが設置されました。ケーブルカーといっても上からつっているわけではなく、エレベーターのように電気で動きます。
②グラフィックアート
 頂上の壁には、サンタマルタの日常が描かれています。グラフィックアーティストである住民の作品で、ケーブルカー、働く人々、カメラを構える観光客、マイケル・ジャクソンの銅像、バーで酒を飲み笑う住民、伝統の踊りなどが色鮮やかに表現されています。壁の向かいには銃を構えて住民の生活を守るUPPの事務所が建っており、そのコントラストがサンタマルタを象徴的に表しています。
④カペラ・サンタマルタ
 ドナ・マルタの丘に建てられた、最初のカトリック礼拝堂(カペラ)です。1930年代から現在にかけて、サンタマルタはこの礼拝堂から下に広がるようにして拡大してきました。扉に空いた小さな穴から中をのぞくと、マリア像が見えます。現在ブラジルではカトリック教徒の数は減少していますが、サンタマルタの起源として大切にされている礼拝堂です。
⑤マイケル・ジャクソン広場
 前述のようにサンタマルタは、マイケル・ジャクソンの1996年の楽曲”They don’t care about us”のMV撮影地となったことで有名になりました。2010年には本人の希望でこの広場に銅像が建てられ、サンタマルタを象徴するアイコンとなっています。また、ソーラーパネルが設置されているのもこの広場の見どころです。2016年に導入された、低所得地域にソーラーパネルを設置するソーシャル・プロジェクト「インソラール(Insolar)」よって45人の住民が電気に関する基礎知識を身に着ける研修に参加し、自らの手で広場や保育園など住民が集まりやすい場所にソーラーパネルを設置しました。A氏とB氏もこの研修に参加し、技術を身につけたといいます。
⑥ショップ
 サンタマルタには、2つのスーベニア・ショップがあります。どちらも、サンタマルタが描かれたカバンやTシャツや家の床材を利用して作ったタイル画など、住民による手作りの作品が売られています。売り上げの一部は製作者に還元される仕組みになっています。
⑦A氏自宅屋上
 ツアー終盤、サンタマルタ中腹にあるA氏の自宅に寄ります。屋上からはリオを一望することができ、観光客はA氏とのんびり会話しながら、サンタマルタのこと、市内のおすすめ観光地、政治の話や自国の文化との比較など、意見交換をする時間になっています。
⑧コリェンド・オ・フトゥーロ(Colhendo o Futuro)
 1988年2月、リオに降った記録的な大雨による地滑りによって、路上放棄で長年蓄積されたごみが流れだし、多くの住民が自らの手でコミュニティを汚していたことにショックを受けたそうです。そこで、A氏とB氏が中心となり、住民主導のNGO団体「コリェンド・オ・フトゥーロ」を立ち上げ、コミュニティガーデンプロジェクトを開始しました。このプロジェクトによって、かつてごみが放棄されていたスペースがレタスやミカン、パクチーなどが栽培される畑に生まれ変わりました。コリェンドは収穫する、フトゥーロは未来という意味で、小さな活動でも辛抱強く続けることでいつか実を結び、コミュニティの役に立つようにという願いが込められています。
⑨住民組織事務所
 ふもと近くには住民組織の事務所があります。現職のコミュニティ・リーダーは、2003年に住民選挙で選出されて以来16年間、住民を代表して事務所に集まってくるコミュニティ内の問題の解決に努めています。コミュニティのために使われる予算は住民の寄付によって成り立っています。A氏を含む観光業に携わる人々は月100~150レアル(2019年時点で約2,700~4,050円相当)を収めています。多く稼ぐ者が多く収め、稼ぎの少ない者の負担を軽くするよう助け合っています。
 主にこれらの8つのポイントを約2時間半かけてまわりますが、これらに加えて貧困・格差に関心のある観光客には頂上付近の家屋の建築構造を見せたり(サンタマルタは上に行くほど貧しく脆弱な建築の家が多い)、音楽やスポーツなど文化に関心のある観光客には著名人が訪れた場所を案内したり、ニーズに合わせてオリジナルのツアーを提供しています。
 サンタマルタが他のファヴェーラとは異なることを決定づける要因の一つに、ほとんどの家が住所をもっているという点があげられます。多くのファヴェーラが未だ政府が手を付けることができず、不法占拠による拡大を続けていますが、サンタマルタではほとんどすべてのエリアに政府のチェックが入っています。このことから、滞在中の成果物として、より詳しいコミュニティ・マップの作成を試みました。A氏とサンタマルタ内のすべての道を歩きながら作成したマップには、観光スポットに加え、保育園や住民組織、NGO事務所、住民が日常的に集まる場所、道が入り組んでいるため昔から目印に使われてきた大きな木、サンタマルタの歴史を語るには欠かせない教会の場所などが記されました。先祖代々サンタマルタに住んでいる住民ならではの、日常に沿った情報が示された地図を作成することができました。
 今回の滞在では、A氏とB氏の協力のおかげで信頼関係に基づいたコミュニティの一員として行動することができたと感じています。1日の生活をともにすることで、観光地としての側面だけでなく、一方的に訪れて一度きりの関係性に終わる観光客にはみせない自然なコミュニティの姿を見せてもらいました。受け身でツアーに参加する観光客がほとんどだった一方で、若い住民にインタビューした際に「観光客の存在は煩わしくない。むしろ、観光客が他文化を持ってきてくれることはコミュニティにとってプラスだ」という答えが返ってきたことは特に印象的でした。
 本フィールドワークは、9月中旬の台風19号の影響で旅程を変更しましたが、上智大学大学院グローバル・スタディーズ研究科地域研究専攻の先生方や専攻事務室の方の支援により、無事調査を完了することができました。この場をおかりして御礼申し上げます。

2016年度

ブラジル / サンパウロ、 リオ・デ・ジャネイロ

報告者:磯部 翔平(イソベ ショウヘイ)
    グローバル・スタディーズ研究科 地域研究専攻 博士前期課程
調査期間:2017年1月30日~2017年2月21日

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Uneafro集会の様子(撮影:磯部翔平)
Uneafro集会の様子(撮影:磯部翔平)

 私は2017年1月30日から2月21日の計23日間、ブラジルの2大都市であるサンパウロとリオ・デ・ジャネイロでフィールドワークを行いました。調査目的はブラジルにおける人種主義の構造と人種間関係の特徴を理解するための資料収集と主に貧困地域にて学習支援活動を通して人種的不平等削減とあらゆる形の差別・偏見の撤廃を目指す団体”União de Núcleos de Educação Popular para Negrxs e Classe Trabalhadora”(以下Uneafro)のリーダーであるDouglas Belchior氏や他の参加者へ黒人運動の現状や今後の在り方についての聞き取り調査を実施することです。

 今回の調査では主にサンパウロにて聞き取り調査、リオにて資料収集を行いました。しかし、聞き取り調査は予定通りには進みませんでした。サンパウロ到着後に聞き取り調査実施日を決定する約束をしており、連絡を取ろうと試みるも音信不通に。そこでSNSを活用しUneafroが数日後にボランティア教師を募集するための集会を開くという情報を得たので、当日アポなしで集会に参加した結果、参加者に聞き取り調査を行うことができ、また、Belchior氏とも後日面談の約束を取り付ける事に成功しました。しかし、講演やメディア出演のため非常に多忙な日々を送っている事もあり、彼にじっくりと意見を伺う事は今回できませんでした。しかし、疑問な点は適宜メールで質問できる関係は構築できたのでこの点は良かったと思います。

 リオでは国立図書館や市内にある本屋を訪れ資料収集を行いました。ポルトガル語の文献は日本では入手しにくく現地で購入または複写する必要があるため、リオでは資料収集に大部分の時間を費やしました。また、空き時間を利用して市内を散策している際に黒人文化に関する博物館(Museu do Negro)を発見したので立ち寄ってみたりもしました。

 当初は聞き取り調査の計画が思い通りに進まなかった為困惑しましたが、アポなしであれどんどん積極的に集会に参加する事により道を切り開くことができたという経験を得られたのはフィールドワークならではないのかとも思います。今回の調査で団体の方達との人脈を作ることができたので今後のフィールドワークで生かしたいと思います。

2014年度

インドネシア / 南スラウェシ

報告者:加藤 久美子(カトウ クミコ)
    グローバル・スタディーズ研究科 地域研究専攻 博士前期課程
調査期間:2015年2月25日~3月16日

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インドネシア・南スラウェシ()

 東南アジア海域に、拡散居住するバジャウと呼ばれる人たちがいます。今日、東南アジアに暮らす人びとの流動性や移動性の高さが指摘されることは珍しくありません。なかでも、バジャウと呼ばれる彼らは、陸地に定住せず、船上や海上集落で生活を営むことで知られています。しかし、彼らの歴史は不明瞭で、口頭伝承のiko-ikoが神話的に彼らの歴史を伝えていました。
 現在、彼らの多くは定住しています。海岸線沿いの内海を覆うように形成される集落や、陸からだいぶ離れた海の上にぽっかりと浮かぶ集落が各地にあります。また、集落を構成する人々は自称がバジャウでありながら、実に様々な出自を持っています。特に、同じように海を使い海洋交易を担ってきたブギスとの関係は興味深く、ブギス集落とバジャウ集落が近接していることもあります。ブギスとバジャウは異なる民族だと双方が主張しますが、お互いの集落に知人、友人、家族や親せきがいたりします。クンダリでは、5つあるバジャウ集落にブギス集落が隣接していました。調査に同行してくれた運転手はブギス(妻はバジャウ)、集落を案内してくれた青年はバジャウ(妻はブギス)でした。ワカトビ県のモラスルタン(バジャウ集落)では、夫の両親、彼女の両親ともにバジャウではないと語りつつ、彼女自身はバジャウだと自称する女性に出会いました。
 観光開発委員会本部が発行するワカトビの民族に関する冊子では、ワカトビのバジャウとブギス、さらに現在の南スラウェシ州との関係を軸にバジャウの歴史を説明しています。学校では「モラ(バジャウ集落)の歴史」の授業もあるようで、不明瞭であったバジャウの歴史が定住化により少しずつ蓄積され始めているようです。また、ワカトビ県は現在、行政により観光化が進められています。野生のイルカが泳ぎまわる海や足元を覗けば魚が泳いでいる不思議な集落は、観光スポットとして大きな価値があると認識されているようです。

エジプト / カイロ

報告者:近藤文哉(コンドウ フミヤ)
    グローバル・スタディーズ研究科 地域研究専攻 博士前期課程
調査期間:2014年12月22日~2015年1月5日

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多くの人で賑わうマウリド当日のフサイン・モスク(撮影:近藤文哉)
多くの人で賑わうマウリド当日のフサイン・モスク(撮影:近藤文哉)

 私は2014年12月22日から2015年1月5日の間、エジプトのカイロ市でフィールドワークを行いました。調査対象は2015年1月3日(正確には2日の日没から3日の日没)に行われた、マウリドと呼ばれるイスラームの預言者ムハンマドの生誕を記念する祝祭です。マウリドは現在、ムスリム世界のほぼ全域で行われています。マウリドが行われる日(イスラーム暦第3月の12日)はイスラーム暦準拠のため、西暦でみると毎年約10日ずつずれていくのですが、西暦2015年の今年は、1年の間に二度(1月3日・12月23日)マウリドが行われる非常に珍しい年です。
 エジプトのマウリドにおいては、他地域と比べて特色ある行事が実施されます。例えば、サイイダ・ザイナブのモスク西側では、マウリド当日の1週間ほど前の調査で、アルーサと呼ばれる人形、砂糖菓子などを売る露店が多数出店していたのを確認しました。また、そのモスクを北東に1.5キロほど行ったところにあるフサインモスクは、3日の午後に実施された行進(ザッファ)の終着点であり、カイロ市のマウリドにおける中心地です。ザッファには老若男女問わず多くの人々が参加し、スーフィー教団が主体となって盛大に実施されます。
 マウリドはただ厳粛なものでは全くありません。マウリドに参加する人は、預言者の誕生を祝いながら、同時に、彼ら自身も大いにその祝祭を楽しんでいるようでした。つまり、マウリドは、「楽しさ」をも同時に備えた(むしろ場合によってはそれが核となる)祝祭であるといえます。それだけではありません。ザッファはもちろんのこと、厳かに行われると予想していた2日の夜のシャーズィリー教団によるズィクル(唱名)の集会でさえ、子供が周囲を元気に走り回る光景がみられました。先ほど述べた露店でも子供のための人形が主役であるように、現代のマウリドでは、「子供」が重要な位置を占めているということは確認しておきたいと思います。

チュニジア / チュニス

報告者:齋藤秋生子(サイトウ アキコ)
    グローバル・スタディーズ研究科 地域研究専攻 博士前期課程
調査期間:2014年12月19日~2015年1月6日

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チュニジア・チュニス(齋藤秋生子)

 2014年12月19日から2015年1月6日の19日間、私はチュニジアの首都チュニスでフィールドワークをしてきました。調査の目的は、カッザーフィー体制期(1969-2011)のリビアにおける部族の役割を分析し、その政治的行動に関して、彼らが中央政府の政策にどのような影響を与えたかを明らかにすることです。しかし、2011年の内戦終結後、リビアは情勢が極めて悪化し、日本の外務省から全土に退避勧告が出ています(2015年2月現在)。そのため、今回はリビアの首都トリポリと距離が近く、外交上リビアと関わりの深いチュニジアにおいて資料調査とインタビューを行いました。
 しかし、当初の計画通りには事が運びませんでした。調査期間中に国立図書館の利用者登録システムが故障したとかで、本来開館日であるはずの3日間、利用者が入館できない状態に。また、フィールドワークサポートの規定で1月までに調査を完了させなければならなかったことから、当然調査期間は年末年始を含んでしまい、当初訪問を予定していた研究者やチュニジア在住リビア人の長期休暇および海外旅行と重複してしまったというアクシデントも。
 語学(アラビア語、フランス語)も不完全な状態での調査で、当初はカルチャーショックを受けることもしばしばでした。戸惑うことも多い滞在ではありましたが、インタビューさせていただいた、リビア出身で赤新月社北アフリカ事務所のT先生をはじめ、多くの人に助けられ、実りの多い調査になりました。もちろん、日程調整の都合で予定していたほどははかどりませんでしたが、限られた日程の中で代替計画を立て、現地でつくった人脈を生かし、そしておそらく今後も生かすことができるようになったことは貴重な経験となりました。

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