蘭科研:第二回国際比較班研究会報告
第一報告:吉川元(広島市立大学広島平和研究所)
「戦争と民族強制移動:国際平和の処方としての民族浄化の歴史」
報告者は、まず民族の強制移動が行われる理由として、一般的に想定される「国民統合・国家建設に対する抵抗勢力の排除」に加えて、「国際平和の実現」をあげた。この刺激的とさえいえる二つ目の理由は、第一次世界大戦で民族浄化が不徹底であったために、国際平和の破綻を招いたという認識から生じているという。そして強制移動を次の5類型にまとめた、すなわち、①民族自決と住民(民族)交換、②講和・戦後処理における平和・紛争予防策(懲罰移動)、および経済政策、③戦中の対敵協力予防のための民族強制移動、④戦中、戦後処理における懲罰的民族移動、⑤民族独立の際の半強制的民族移動、以上の五つである。この類型をもとに、主に東欧の事例を具体的に説明した。
国際強制移動が「ジェノサイド」なのかといった問い、国民国家と民族国家の相違といった重要事項の確認を挟みつつ、多様で深い議論が蘭科研のメンバーの個々の研究と共鳴しながら展開された。例えば、さまざまな事例に深くかかわる重要な論点として、強制移動における経済的コストの重要性が、参加者の指摘からも浮き彫りにされた。そこには治安維持、移動費用、住居や職の手当といった現実がある。さらに旧植民地から宗主国の国民が移動を強いられる場合、歴史的背景と政治的・経済的現状の制約のもとに、一時滞在・追放・逃亡いったパターンが、ときにはこれらと相関する国際的ルールとからみつつ、見出されることが提起された。
報告者が東欧を主要事例として用いながらも、その地域を扱う研究者がほとんどいない蘭科研主催の本研究会で、大いに議論がはずんだ理由の一つに、報告者の強制移動に関する知見が、国際関係のマクロな理論に裏打ちされていることがあろう。ことに議論の核になる国民国家に関しては、ハンス・コーン以来の西欧型・東欧型(非西欧型)の二分法というナショナリズム論の王道を踏まえて、国際強制移動の理解に応用している。さらにその延長線上で、ベネディクト・アンダーソンの議論を用いて、帝国と民族強制移動の関係について興味深い指摘も行った。すなわち、トルコやロシアによる帝国の国民化を意図した公定ナショナリズム政策が、逆に各民族の覚醒による帝国の分裂をもたらした。これにより独立した国家がそれぞれ公定ナショナリズム政策による国民統合を図った。こうした一連の経過が、民族強制移動の背景にあるという解説は示唆に富み、他の地域の検討にも有用ではないかと思われた。
予定時間を大幅に超えて議論が活発におこなわれ、当国際比較班における、議論の基盤を構築する上で、重要な手がかりが得られた点でも貴重な報告であった。それでも、時間の関係でさらに論ずるべき点が多々残された。個人的に関心があったのは、ギリシャとトルコによる民族交換が行われたのち、生じたであろう「同じ民族」間での摩擦がどのような形態をとり、他の民族交換の事例、あるいは旧植民地からの引揚者の包摂過程とどのような相違があったのか、その後その摩擦がどのように変化したのか、という問いである。また同様な機会が持てれば幸いである。
第二報告:田村将人(札幌大学)
「サハリン先住民族の〈引揚げ〉と〈残留〉:研究状況と今後の課題」
報告者は、これまで蘭科研で出版した二冊の書籍(『日本帝国をめぐる人口移動の国際社会学』と『帝国以後の人の移動』)に掲載した論文をまとめる形で、樺太先住民族の戦後における日本への移動あるいはサハリンでの残留に関して発表した。彼らの選択の背景を解明するのが議論の要である。日本への移動を報告者が〈引揚げ〉とよぶのは、サハリン以外に居住経験のなかった彼らが、日本へ移動を「帰国」と称しており、一般の日本人の引揚げと区分するためである。また〈残留〉とするのは、サハリンに留まっても支配者と生活が一変したことを強調するためである。
まず樺太アイヌは、約1500人ほぼ全員が戦後〈引揚げ〉ているが、インタビューの結果から導き出されたその移動要因は以下の三つであった。①新しい支配者であるソ連・ロシア人との共生が難しい。共産主義体制が嫌である。②日本の教育を受けて「日本人になっちゃった」から。③親族・同じ村の樺太アイヌが〈引揚げ〉ていったから。父・兄が出征して戻れなかったから。一方、ウイルタ・ニヴフには、〈引揚げ〉たものと、〈残留〉したものがいる。50名ほどいたと推定される前者に関する知見は文献資料に基づいており、それによると、〈引揚げ〉要因として、抑留された家族との再会、ソ連にスパイとみなされたこと、などが読み取れる。一方少なくとも約300人はいたと推定される〈残留者〉の行動理由に関しては、インタビューなどのデータから、「日本へ移住する積極的な選択肢はなかったと想像される」というのが留保つきの現時点での報告者の見解である。
二つの帝国の力関係が激動する戦後に、〈引揚げ〉ないし〈残留〉した意味を、インタビューなどから得られた当事者の解釈から解こうとした本報告では、研究とインタビューとの関係が議論の重要な部分を占めた。まずウイルタ・ニヴフに関して、インタビューが〈残留者〉には可能で、〈引揚者〉には不可能であったことに対して、いつ、どこで、誰が誰に対して調査するのかという諸条件、そこにはらむ権力関係が、参加者の個々の事例とともに論じられた。また、一度も滞在経験のない日本への移動を「帰国」と答えたことをいかに解釈すべきか、インタビューの扱い方も問われた。そして、インタビューで得た内容や解釈をどこまで公表すべきかも難問である。本報告の場合、先住民族のなかの多様性といった内情を研究者が露わにすることが、現実の先住民の社会的地位に否定的影響を与える可能性を無視できないことが報告者によって指摘された。これらは、インタビューを研究に用いるものにとって永遠の課題で、改めて考えさせられるところが多かった。
全体としては、参加者に樺太に関わる専門家が含まれていたため議論が深まった。ただその反動として発言者が比較的偏り、また報告者自身が聞き役に回る時間が長くなったのは残念であった。
二つの報告とも予定を大幅に超過するほど活発な報告会であったがゆえに、全体討論の時間がほとんど取れなかったことは、ないものねだりとはいえ残念であった。両報告が、「帝国の崩壊」と「民族強制移動」という点で共通性の高い課題を、ミクロとマクロの異なった視点から論じたものだっただけにもったいない気がした。例えば、第一報告者の吉川氏が、ヨーロッパのロマ(ジプシー)の例を挙げて、アイヌをマジョリティとする国家の不在が、彼らの言説の源にあるという指摘は、第二報告者の田村氏の論文に同趣旨の一文があり、両報告の接点としてさらに深い議論に発展しえたと思う。
いずれの報告も大変意義深いものであり、勉強になる事が多かった。最後にお二人の報告者に改めてお礼を申し上げて、拙文の締めることとしたい。
(文責:木下 昭)