環太平洋班第一回研究会「環太平洋をつなぐエージェンシー―人、物、知の循環―」第二日目参加報告記

研究協力者・木下昭さんによる研究会参加報告です
2015.01.18

環太平洋班第一回研究会「環太平洋をつなぐエージェンシー―人、物、知の循環―」
第二日目参加報告記 

2015年1月16日
木下昭

開催日:2014年12月21日
会場:上智大学L-821会議室

本報告記は、蘭科研環太平洋班第一回研究会二日目のうち、東報告、飯島報告、厳報告の要旨をまとめたものである。

 

東栄一郎(ペンシルベニア大学)

開拓農業を通じた北米と満州のつながり:カリフォルニア日本人移民の逆移動と彼らの専門知識の移入過程について

 本報告で着目するのは、1920年代以降の満州開拓農業と北米移民との関連性である。北米移民のなかに、カリフォルニア州から満州に渡り、近代的大規模農業の知識を生かして南満州鉄道や満州拓殖公社などで勤務したものがいた。報告者は、彼らによっていかに北米式の大規模農業が満州開拓事業にもたらされたかを、多方面にかかわる資料を使って解き明かそうと試みた。

 本研究は、個々の地域や分野の研究者、例えば満州研究者や日系アメリカ移民研究者が、これまで目を向けることがほとんどなかった、北米移民と満州とのつながりを浮き彫りにしており、帝国間をまたぐ移動や環太平洋の移動に注目する本研究班の意義や可能性を明示する内容である。当日の報告では、全体的には研究の蓄積が明確にみられ、すでに論文としての目鼻が付きつつあるような内容であった。質疑応答で主題となったのは、これまでの満州研究で蓄積されてきた、加藤完治などが唱えた、国粋的農本主義に基づいた小農家族単位の「開拓」や、いわゆる「北海道農法」の導入をめぐる議論と、本研究で見いだされた知見とをいかに接合するのかということであった。具体的には、北米移民の思想や技術が実際にどのレベルで、あるいはどの地域で実施されたのかが問われた。仮に、北米移民のもたらした技術や手法が満鉄の直接的管轄下のみ、あるいは試験場レベルでのみ適用されたものだったとしたら、それをどう意義付けるのかも重要な問いとなろう。本報告のみならず、本科研の一つの重要な視点として、技術や知識の移動への着目があるが、その実社会の影響をどうとらえるのかは、常に問われることになろう。

 

飯島真里子(上智大学)

「帝国間ネットワークの考察:戦前のハワイ・台湾におけるコーヒー栽培史を事例として」

 本報告の趣旨は、日本統治下における台湾コーヒー栽培の歴史について、アメリカ領ハワイとの関係性に注目しながら考察することであった。まず、日本統治時代の台湾のコーヒー栽培史が、1902年の試作段階から1930年代の住田物産や木村コーヒーのような企業の進出による大規模化までがまとめられた。次に、台湾コーヒー生産者とハワイとのつながりが、船越與曾吉と住田多次郎の活動を中心に概説された。これらの検討の結果、現時点での知見としてあげられたのは、①帝国に関する研究で焦点があたる宗主国―植民地間の移動とは異なる、「日本人ディアスポラネットワーク」を介した帝国間の移動、そして②移住地と日本帝国との関係によって左右される日本人の社会的位置づけであった。

 この報告の中で、フロアから注目されたのが、移動における移住者個人の視点を重視する「ビジネス・チャンス」という言葉である。これは「帝国」という枠組みを重視する研究者からは軽視されがちな、しかし落とすことのできない観点である。「戦略」ないし「生存戦略」といった類義語との相違を明示し、より汎用性の高い定義に鍛えられれば、本研究全体で共用するタームとなりうるし、章立てや書籍のタイトルとしても使用できるかもしれない。ただ、貴堂嘉之氏(20日のコメンテーター)の、「生存戦略」という視点の強調によるマクロな帝国支配構造が軽視される危うさ、との指摘は「ビジネス・チャンス」にも当てはまろう。このバランスをいかに取ってゆくかは、大きな課題である。

 現時点では、コーヒー栽培における国境を越えた展開の一端を示した段階である。今後、台湾―ハワイ間のコーヒー(ならびに他の作物栽培)に関わる移動、とりわけ技術や人の移動の実情がより深く描き出され、またこの移動に二つの帝国のパワーがいかに作用しているのかが明示されることが期待される。その際には、本報告でも言及されたサイパンやマニラも重要な意味付けを与えられるのかもしれない。またコーヒーという作物そのものの特性を踏まえた議論、あるいは生産だけでなく消費も踏まえた議論が組み合わさるとさらに厚みのある展開がみられるだろう。

 

厳平(中国人民大学)

「帝国大学・高等学校における中国人留学生:第一高等学校特設高等科の実態を中心に」 

 本報告は、第一高等学校における特設高等科の役割を、中国人留学生を中心に明らかにすること趣旨としていた。まず、この制度導入の背景が示され、直接の要因として、中国国内から日本のエリート・コースへの直接連絡を可能にすることを求める中国側との折衝があったことを挙げる。結果的に高等学校から帝国大学へと進むコースへの接続機関として三年を修業年限とする特設高等科が設置された。報告では、第一高等学校特設高等科への入学者のプロフィール(出身地や出身校、留学費負担の形態など)や一高在学生の留学生の受け止め方、特設高等科卒業生に対する東京帝国大学各学部、そして京都大学をはじめとする他の帝国大学の対応などが示された。

 まだ発展途上の研究であるので、報告された内容は断片的なものにとどまっているが、今後の深化が期待される。報告者自身、ならびにフロアからのコメントも踏まえると、以下のような点が今後の課題といえよう。①特設高等科を経たことがその後の留学生の運命にどのような影響を与え、それがどのように本人や彼らと関連する社会に解釈されているかを明らかにする。資料を得ることが容易ではないが、その手立てとしてインタビュー以外にも、エリートの留学経験者ならば、個人的記録が利用できる可能性がある。②特設高等科の設置、あるいは所属学生がどのように日本社会に受け入れられたのかを明らかにする。日本のエリート・コースへの中国人留学生の接続であったのだから、報告で触れられていた教育機関関係者以外にも多様なレベルの多様な反応があったのではないだろうか。③当時の日本への留学生全体のなかで、特設高等科所属留学生がいかなる意味を持つのかを示す。この点に関してはいくつもの課題が重なっている。まず、当時の在日中国人留学生全体、あるいは中国人留学生史の流れ、それぞれのなかでこの特設高等科の存在を位置づけることが必要となる。また、1930年代は各地から日本への留学生が増加した時代であり、中国以外でも、台湾や朝鮮といった日本帝国勢力圏からの留学生、アメリカ合衆国や大部分が欧米支配下にあった東南アジアのような非勢力圏からの留学生が多数滞在していた。アメリカからの留学生は在米日系二世が中心であったように、またフィリピンからの留学生が医学を志向するものが多かったように、多様な社会的背景をもつ同時期の留学生の存在を踏まえたうえで、議論を展開することが望まれる。④特設高等科の設置が当時の日本の対留学生政策全体ではどのような意味を持つのかを考察する。1930年代は、日本政府がそのソフト・パワーを高めるために留学生受入政策を拡大した時期である。外務省や文部省が関与する国際学友会や国際文化振興会のような団体も設置された。こうした中国人留学生には直接関係しない施策も視野に入れる必要があろう。⑤日本の留学制度改革を中国が要望した要因の一つとしてアメリカの留学体制がふれられているが、当時の欧米列強の留学制度と中国との関係を踏まえて、日本留学を論じる必要がある。留学生をめぐる中国と各帝国、あるいは帝国間のせめぎあいが描ければ興味深い。

 留学生研究においては、当事者個人を中心としたミクロの視点と、送出国と受入国を軸とした国際関係を含むマクロな視点を組み合わせるという移民研究共通の課題に、教育という観点が大きな意味を持つ。エリート教育という本研究の特徴が、今後どのような新たな知見をもたらすのか興味深い。

 これら三報告は、環太平洋をめぐる移動、知や技術の移動、そして一帝国の枠組みを超えた移動を扱っている点で共通性があり、本研究班の方向性を指し示すものであった。この点において、本稿で取り上げていない他の報告を含めて、参加者にとって大変有益な研究会であった。

(文責:木下 昭)

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