活動記録

9月15日環太平洋班国際ワークショップ参加報告記①

同志社大学 日本学術振興会特別研究員PD 森 亜紀子さんによる環太平洋班国際ワークショップ参加報告記です。
2016.10.04

2016年9月15日開催国際ワークショップ「移動から問う日本帝国の領域性」 参加報告記

森 亜紀子

  2016年9月15日の午後、上智大学で開かれた国際ワークショップ(本科研の環太平洋班主催、飯島真里子代表科研共催)に参加しました。ワークショップの前半ではJordan Sand先生の『帝国日本の生活空間』(岩波書店、2015年)が、後半ではDavid Ambaras先生の論考“Illicit movement of children between Japan and China in the imperial Era from the 1870 to 1930s”が取り上げられ、前半後半共に著者による趣旨説明・コメンテーターによる論点提示を受けた上で全体討論を行うという形式で進められました。著者とコメンテーターはいずれも海外(三人はアメリカ、一人はスイス)から駆けつけて来られ、海外における帝国日本研究の現在・視点を知るという意味でも刺激的な時間を持つことができました。

  『帝国日本の生活空間』は、味の素・文化住宅・籐椅子・豚・島ゾウリ…など、帝国の時代に誕生し、現在もなお私たちの日常生活を彩り続けている様々な<モノ>に着目し、帝国日本の影響下で生きたひとびとの日常生活と文化を描いた著作です。書評会ではまず、Sand先生が著書において特に重視したこと・主張したかったことを三点挙げられました。一点目は、文書史料ではなく、言説化されていない<モノ>を中心に据えることにより、<事実を確定してある事柄を明らかにしてゆく>ような実証的な歴史学ではなく、<複数の事柄の連環を明らかにしてゆく>ような開かれた歴史学を目指したということ。二点目は、帝国がいかにひとびとの日常生活の細部にまで関わっていたのかを示すこと。その際に特に強調されたのは、ひとびとの日常生活の中に日本のみならず、アメリカ・中国のような複数の帝国が折り重なっていたこと、日常生活は単に国家政治を受動的に反映するのではなく、ひとびとの実践の場でもある(つまり帝国⇔日常生活の間には相互関係がある)ということでした。三点目は、ひとびとの日常生活の中にみられる<ヒエラルキーの帝国>と<平等を追求する近代>の矛盾を示すこと。例えば、砂糖に着目すると、甘さを享受する欧米の支配者と奴隷や植民地住民たちのヒエラルキーが見えて来るが、同時に、奴隷や植民地住民らが権利を獲得するようになると、次第に彼らも甘さを求めていくという、平等を追求する近代の面も見えてくる。その<ヒエラルキーと平等のせめぎ合い>こそが、帝国の時代に生きたひとびとの象徴的な経験であったと指摘されました。

 どれも非常に刺激的な論点でしたが、私にとって特に印象的だったのは一点目で、その中で言われた「史料から始めるのではなく、モノから始める」「そこから(筆者補足:場所と場所、ひととひとを繋ぐ)開かれた歴史学を構築できる」という言葉です。確かに、第二章「『味の素』―味覚の帝国とグローバリゼーション―」を読むと、「味の素」というモノの経歴を紐解く叙述の中で、みごとに帝国日本・ドイツ・中国・アメリカが結び付けられ、そこに生きる人の姿が生き生きと浮かび上がってきます。では、なぜこの点が印象的だったかと言うと、この方法は、私自身が挑戦している<オーラルヒストリーから歴史を描く>という試みにも通じる部分があると思ったからです。私は沖縄に暮らす南洋群島引揚者と出会うことによって、帝国日本の歴史に関心を持つようになりましたが、お話を聞く中で驚かされたのは、<一人のひと>の中にいかに複数の場所の記憶が織り込まれているのかということでした。例えば、ある家族は沖縄・サイパン・キューバに、ある家族は沖縄・パラオ・フィリピンに広がって暮らした経験を持っており、ひとびとの生活は、私が当初想定していた沖縄・南洋群島の二地域に収まり切っていません。これを知って以来、このように広がりある移民の世界をどのように描くのか…ということが私の目下最大の課題となっていました。そんな折に、Sand先生の実践を知ることにより、<モノ><ひと>の足跡を遡ることによってしか見ることのできない世界が確かにあり、それは(難しいけれども)描けるのだと分かり、勇気づけられました。

 コメンテーターを担当されたDusinberre先生は、Sand先生の歴史学の方法論上の挑戦を高く評価しつつ、①著書の中で使用されたインペリアル・モダニティ(帝国近代)という概念と、グローバル・モダニティの違いをどのように考えるか?②日常生活および生活空間が著書の中では日本・アメリカ中心に描かれているが、主な対象となっているPacificという空間には、スペイン・ドイツ・フランスも深くかかわっているのではないか?などの指摘をされました。全体討議の時間では、特に①の指摘に触発される形で「帝国近代」という新たな概念の内実や射程について議論が交わされました。

 

 後半に取り上げられたDavid Ambaras先生の論考“Illicit movement of children between Japan and China in the imperial Era from the 1870 to 1930s”は、明治政府が樹立されて間もなく、日本が中華世界から欧米列強を中心とした帝国主義に直面した時期から、自ら帝国としてアジア世界を支配下に置くようになった1930年代までという長い時間を対象とし、この間に継続してみられた中国人による日本人の子どもたちの取引(誘拐・売買・養子縁組)に対して中央政府高官や地方行政官が、どのような危機感を持ち、取引をどのようにそれを抑え込もうとしたのか、あるいは一般民衆は中国人に対してどのようイメージを持ち、不安を抱くようになったのか…具体的な事例と言説を検証し、長期にわたる日本のひとびとの心理史を追究したものです。中国民衆による日本の子どもたちの取引(及び、それに伴う交渉)というひとびとのミクロな政治が、日本という国家の領域・枠組みの構築というマクロな政治にいかに関わっていたのか…という小さな歴史と大きな歴史を結ぶダイナミックな構想は、<モノ>から複数帝国の重なりを明らかにした先のSand先生の研究と共通するものがあり、ワクワク・ゾクゾクするような興奮を覚えました。

 さて、後半の部も前半と同様、著者による趣旨説明が行われたのですが、残念なことに私の英語力ではAmbaras先生のハイレベルな英語をほとんど聞き取ることができず…、ここに紹介することができません。前半はSand先生が日本語・コメンテーターのDusinberre先生が英語、後半はそれとは逆で、Ambaras先生が英語・コメンテーターの東先生が日本語でお話をされたため、私の理解はSand先生と東先生の発言を頼りに、Dusinberre先生とAmbaras先生の発言を類推するといった形で成されました。そこでここでは、東先生のコメントと全体討議の流れを記すこと、つまり聴衆がどのようにAmabaras先生の論考・報告を受け止めたのかを記すことによって任を果たしたいと思います。まず、東先生は、論考を読んでいてアメリカの国家建設の歴史と重なる部分を強く感じたという感想を述べられ、その上で日本の場合には常に<出て行く人>を管理しようとしていたのに対し、アメリカの場合には<入ってくる人>を管理しようとしたという大きな違いがあったのではないかという指摘をされました。そして、欧米では貧しい子どもたちを孤児院に入れたり、誘拐など不法行為を犯すひとを収容する施設を作ろうとするような民間の動きが起きて来るが、日本ではそのような動きはなかったのか?日本は1925年に「婦人及児童ノ売買禁止ニ関スル国際条約」(売春・人身売買を人道的観点から制限する内容)を批准しているが、その背景には中国人による子どもの取引が横行していたことが影響を与えていたのだろうか?など具体的な質問をされました。

 続いて会場からは、中国研究者の方々から、様々な民族によって形成され、異民族を「漢化」することによって成り立ってきた中国の長い歴史からすれば、中国政府および中国民衆はブローカーによって子どものやりとりがなされても特に問題視しなかっただろうといった感想や、受け入れる側であった中国側の視点や中国民衆の視点、あるいは取引された子どもたちとその親の視点からも検討する必要があるのではないか?との指摘がなされました。また、他の方からは、子どもの取引によって成立した国際結婚や養子縁組など、ミクロな出来事を取り上げることによって、何を描きたいと思っているのか?誘拐された子どもたちの意識は、船に乗り、中国大陸に辿りつくまでにどのように変化しただろうか?などなど、非常に大きな質問が次々と出されました。その勢いは、回答しようとするAmbaras先生の時間を圧迫してしまうほどでした。それほど様々な論点を喚起する論考だったのだなと思います。Ambaras先生は、中国側の受け取り方に関しては、史料を読むことができないなどの制約がありあまり取り上げられなかったこと、ただ、自身は実態解明ではなく、ひとびとの心象の歴史(とりわけ、今回の事例の場合では日本人の中国人・中国イメージの形成)を描きたいと考えていること、中国・日本を横断したひとびとの海域を中心とした歴史から、従来の陸の定住者を中心とした歴史を相対化し、より開かれた歴史学のために貢献したいと述べられました。

 

 以上のようにワークショップは盛りだくさんの内容であったため議論は定刻までに終わらず、懇親会場でも続きました。私としては、議論の内容はもちろんのこと、日本語・英語の「チャンポン」で行われた議論の形式からも強い感銘を受けました。これは、環太平洋班の飯島先生、Dussinberre先生の、<話者が話しやすい言葉で報告することを尊重する・単一の言葉を強制するのではなく多言語で行う>という方針によるもので、昨年度チューリッヒで行われた環太平洋班とチューリッヒ大学共催の国際ワークショップから踏襲されています。<開かれた歴史学>は、きっとこのように<開かれた場>からこそ、生まれるのだろうとの思いを強くしました。

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