第4回 稲葉奈々子先生からのメッセージとトーク・セッション
自分のなかの秩序思考に批判的に向き合う―グローバルな不平等に抗う社会運動の声をきいてみませんか
稲葉奈々子
「僕は二十歳だった。それが人生でもっとも美しいときだなんて誰にも言わせない。」
これは、フランスの作家、ポール・ニザンのエッセイ『アデン、アラビア』の冒頭の文章です。皆さんのなかには、二十歳より下の人もいれば、上の人もいるでしょう。実際に二十歳かどうかはあまり重要ではなくて、大学生とは、親や教師が教えることの欺瞞や偽善がわかるようになり、何を信じればいいのか迷いを感じる年齢に属しているのではないでしょうか。大学生になると、高校時代に比べて、親や教師への従属の度合が小さくなり、圧倒的な自由を手に入れたのではないでしょうか。でも、自由に生きていく上で、何を指針にすればいいのか、手探りの不安さを感じるような年齢でもあります。
上智大学で学ぶにあたって、グローバルな規模の不平等や格差解消に資する学問を志して、入学してきた人も多いと思います。世界規模での不平等をどうすれば解決できるのか、今のままでは、解決できないのではないか、何を信じて行動すればいいのか、どうしたらいいのかわからない、という、冒頭のニザンのような不安な気持ちを持っているかもしれません。
大学はオンライン授業となり、キャンパスには立ち入りできなくなりました。皆さんの多くは社会にでたらテレワークができる身分になるでしょう(かくいう私もそうです)。でも、自分たちが安全地帯でテレワークをするために、ウイルス感染の危険に晒されながら仕事をしている人たちがいることに、皆さんは居心地の悪さも感じているのではないでしょうか。
「世の中でおのれがどんな役割を果たしているのか知るのは辛いことだ。」
その居心地の悪さは、皆さんが探している、格差や不平等を解消する手がかりにつながっているかもしれません。
冒頭の文章のほどには引用されないのですが、ニザンは、こうも言っています。「世の中でおのれがどんな役割を果たしているのか知るのは辛いことだ。」自分がどのような役割を世の中で担っているがゆえに辛いのか、明示的には述べていませんが、そのあとに続く文章から、「人間が人間にふさわしい生き方ができない」ような世の中にしている仕組みの一端を、エリート学生である自分が担っていることに気が付いたがゆえの辛さであることは、明らかです。
ニザンは、「血みどろの衝突や植民地戦争やバルカン半島の白色テロ」など、「人間が人間にふさわしい生き方をしていない」ことに苦悩し、エリート大学の学生である自分が、安全地帯で理念的な話をしている「そのあいだにも、人々は鎖につながれて働いていた。そのあいだにも警官たちは町を行進し、中国では人々が無残な死に方をし(ヨーロッパによる中国支配を指す)、オート=ヴォルタ(現在のブルキナファソ)では、強制労働で疫病にやられたみたいに黒人たちがばたばた死んでいる」と、そんな状況に、何をすればいいのかわからない悶々とした気持ちを吐露します。
今の状況を将来振り返るなら、「私たちがZoomでオンライン授業をやっているあいだにも、人々は鎖につながれて働いていた。そのあいだにもコロナ自警団が自粛を強制し、補償がないままに仕事を失った人たちは無残な死に方をし、ウイルス感染から身を守るすべを与えられていない人たちは、ばたばたと死んでいる」と、記述されるのではないでしょうか。
「でも、感染を拡大させないためには、私たちが自粛するしかないんだ。自粛は、命を守るためなんだ。」本当に、私たちが行動を「自粛」するしか方法がないのでしょうか。
このセッションでは、そうじゃない!と声をあげている人たちの論理に耳を傾けてみます。そうじゃない!と声をあげることは、社会秩序に抗うことでもあり、同調圧力の強い日本社会においては、しばしばバッシングに会います。
「社会秩序に抗う」
親や教師は、一般に秩序に従うことを求めてきます。すでに成立している社会秩序に抗わないことは、学校で「成功」するための不可欠の要素です。皆さんが上智大学に進学できたのも、社会秩序に抗わない優等生だったというのもあるでしょう。私もそうです。大学教員などになっているのですから。でも、社会秩序に従う、つまり現状を肯定していたら、何も変わりません。社会秩序は、しばしば社会のマジョリティにとって都合のよいルールの維持でもあります。なので、変わらないほうが都合がいい人もたくさんいます。そして実は、大学生の皆さんは、どちらかというと、今のルールが変わらないほうが都合がいいほうに属しています。社会秩序を維持するとは、マジョリティつまり権力をもった多数者への同調となって現れてきます。
たとえば、新型コロナ対策として打ち出された10万円の特別給付金は、住民基本台帳に記録されている人でなければなりません。そこから漏れる非正規滞在外国人にも給付を!という訴えを皆さんは、どうとらえるでしょうか。
あるいはコロナによる休校で子どもの世話のために仕事を休む親に助成金制度が設けられましたが、キャバクラなど性産業で働く女性は対象外とされていました。当事者を中心とする社会運動団体は抗議しました。
コロナによるオリンピック延期のために3000憶円も税金から支出するのならば、オリンピックなど中止して、今、目の前で苦しんでいる人たちのためにそのお金を使うべきだ、とオリンピック中止を求める人々もいます。
収入がなくなって家賃が払えない!と、家賃不払い運動が欧米を中心に広がっています。
「逃げ道ならいくらでもあった。どこにも行きつかないドアならいくらでも」
エリート大学生として、自分が世の中の不平等や差別に知らないうちに加担していることには目をつぶって、敷かれたレールの上をそのまま進むこともできます。ニザンは、「逃げ道ならいくらでもあった。どこにも行きつかないドアならいくらでも」と、絶望的になりながらも、ニザンは「旅をしよう」と、突如思い立ちます。それも、「ヨーロッパ旅行はなしだ。・・・まさにこのヨーロッパから僕たちは自由にならなければならなかった」と、ニザンはアラビア半島南端、アデンを目指して旅に出ます。唐突ですね。当時のアデンはイギリスの植民地支配下にありました。アデンでの経験を経て、ニザンは、ヨーロッパの植民地主義ついて批判的な立場をとるようになります。
皆さんにも、外国にどんどん旅行ででかけていってほしいです。でも、ニザンのように、アデンまでいかなくても、このセッションで紹介する社会運動の担い手たちは、グローバルな規模での社会矛盾を先鋭的な形で私たちに気が付かせてくれます。そうした運動に加わることで、自分が生きてきた世界を一変させるような出会いもあるでしょう。
稲葉奈々子
「僕は二十歳だった。それが人生でもっとも美しいときだなんて誰にも言わせない。」
これは、フランスの作家、ポール・ニザンのエッセイ『アデン、アラビア』の冒頭の文章です。皆さんのなかには、二十歳より下の人もいれば、上の人もいるでしょう。実際に二十歳かどうかはあまり重要ではなくて、大学生とは、親や教師が教えることの欺瞞や偽善がわかるようになり、何を信じればいいのか迷いを感じる年齢に属しているのではないでしょうか。大学生になると、高校時代に比べて、親や教師への従属の度合が小さくなり、圧倒的な自由を手に入れたのではないでしょうか。でも、自由に生きていく上で、何を指針にすればいいのか、手探りの不安さを感じるような年齢でもあります。
上智大学で学ぶにあたって、グローバルな規模の不平等や格差解消に資する学問を志して、入学してきた人も多いと思います。世界規模での不平等をどうすれば解決できるのか、今のままでは、解決できないのではないか、何を信じて行動すればいいのか、どうしたらいいのかわからない、という、冒頭のニザンのような不安な気持ちを持っているかもしれません。
大学はオンライン授業となり、キャンパスには立ち入りできなくなりました。皆さんの多くは社会にでたらテレワークができる身分になるでしょう(かくいう私もそうです)。でも、自分たちが安全地帯でテレワークをするために、ウイルス感染の危険に晒されながら仕事をしている人たちがいることに、皆さんは居心地の悪さも感じているのではないでしょうか。
「世の中でおのれがどんな役割を果たしているのか知るのは辛いことだ。」
その居心地の悪さは、皆さんが探している、格差や不平等を解消する手がかりにつながっているかもしれません。
冒頭の文章のほどには引用されないのですが、ニザンは、こうも言っています。「世の中でおのれがどんな役割を果たしているのか知るのは辛いことだ。」自分がどのような役割を世の中で担っているがゆえに辛いのか、明示的には述べていませんが、そのあとに続く文章から、「人間が人間にふさわしい生き方ができない」ような世の中にしている仕組みの一端を、エリート学生である自分が担っていることに気が付いたがゆえの辛さであることは、明らかです。
ニザンは、「血みどろの衝突や植民地戦争やバルカン半島の白色テロ」など、「人間が人間にふさわしい生き方をしていない」ことに苦悩し、エリート大学の学生である自分が、安全地帯で理念的な話をしている「そのあいだにも、人々は鎖につながれて働いていた。そのあいだにも警官たちは町を行進し、中国では人々が無残な死に方をし(ヨーロッパによる中国支配を指す)、オート=ヴォルタ(現在のブルキナファソ)では、強制労働で疫病にやられたみたいに黒人たちがばたばた死んでいる」と、そんな状況に、何をすればいいのかわからない悶々とした気持ちを吐露します。
今の状況を将来振り返るなら、「私たちがZoomでオンライン授業をやっているあいだにも、人々は鎖につながれて働いていた。そのあいだにもコロナ自警団が自粛を強制し、補償がないままに仕事を失った人たちは無残な死に方をし、ウイルス感染から身を守るすべを与えられていない人たちは、ばたばたと死んでいる」と、記述されるのではないでしょうか。
「でも、感染を拡大させないためには、私たちが自粛するしかないんだ。自粛は、命を守るためなんだ。」本当に、私たちが行動を「自粛」するしか方法がないのでしょうか。
このセッションでは、そうじゃない!と声をあげている人たちの論理に耳を傾けてみます。そうじゃない!と声をあげることは、社会秩序に抗うことでもあり、同調圧力の強い日本社会においては、しばしばバッシングに会います。
「社会秩序に抗う」
親や教師は、一般に秩序に従うことを求めてきます。すでに成立している社会秩序に抗わないことは、学校で「成功」するための不可欠の要素です。皆さんが上智大学に進学できたのも、社会秩序に抗わない優等生だったというのもあるでしょう。私もそうです。大学教員などになっているのですから。でも、社会秩序に従う、つまり現状を肯定していたら、何も変わりません。社会秩序は、しばしば社会のマジョリティにとって都合のよいルールの維持でもあります。なので、変わらないほうが都合がいい人もたくさんいます。そして実は、大学生の皆さんは、どちらかというと、今のルールが変わらないほうが都合がいいほうに属しています。社会秩序を維持するとは、マジョリティつまり権力をもった多数者への同調となって現れてきます。
たとえば、新型コロナ対策として打ち出された10万円の特別給付金は、住民基本台帳に記録されている人でなければなりません。そこから漏れる非正規滞在外国人にも給付を!という訴えを皆さんは、どうとらえるでしょうか。
あるいはコロナによる休校で子どもの世話のために仕事を休む親に助成金制度が設けられましたが、キャバクラなど性産業で働く女性は対象外とされていました。当事者を中心とする社会運動団体は抗議しました。
コロナによるオリンピック延期のために3000憶円も税金から支出するのならば、オリンピックなど中止して、今、目の前で苦しんでいる人たちのためにそのお金を使うべきだ、とオリンピック中止を求める人々もいます。
収入がなくなって家賃が払えない!と、家賃不払い運動が欧米を中心に広がっています。
「逃げ道ならいくらでもあった。どこにも行きつかないドアならいくらでも」
エリート大学生として、自分が世の中の不平等や差別に知らないうちに加担していることには目をつぶって、敷かれたレールの上をそのまま進むこともできます。ニザンは、「逃げ道ならいくらでもあった。どこにも行きつかないドアならいくらでも」と、絶望的になりながらも、ニザンは「旅をしよう」と、突如思い立ちます。それも、「ヨーロッパ旅行はなしだ。・・・まさにこのヨーロッパから僕たちは自由にならなければならなかった」と、ニザンはアラビア半島南端、アデンを目指して旅に出ます。唐突ですね。当時のアデンはイギリスの植民地支配下にありました。アデンでの経験を経て、ニザンは、ヨーロッパの植民地主義ついて批判的な立場をとるようになります。
皆さんにも、外国にどんどん旅行ででかけていってほしいです。でも、ニザンのように、アデンまでいかなくても、このセッションで紹介する社会運動の担い手たちは、グローバルな規模での社会矛盾を先鋭的な形で私たちに気が付かせてくれます。そうした運動に加わることで、自分が生きてきた世界を一変させるような出会いもあるでしょう。