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第11回研究会報告

日時:2002年6月22日(土)10:30-19:30
場所:上智大学四ッ谷キャンパス9号館3階357号室
出席者:14名(午前の部:7名)

1. 勉強会「ジャウィ入門」第2回 アラビア文字の伝播の中でのジャウィの位置付け 東長 靖(京都大学)

前回,日本語の文章をアラビア文字で表記してみる,という課題が出されたが,その結果をとりまとめ,短母音や長母音,および,アラビア語にない子音や,アラビア語に複数あって,日本語にない音を表現するのに各自がどのような工夫をしたかが紹介された.それらを比較検討することにより,アラビア語とは異なる言語をアラビア文字で書く場合に生じる問題点が明らかにされた.それらの問題点を乗り越える工夫は多様であり,政治権力が伴わないと,標準化や新文字創出は起こりにくいことが示された.そのあと,ペルシア語,オスマン・トルコ語,ウイグル語,マレー語の各言語のアラビア文字表記について比較検討が行われ,マレー語ジャウィ表記は,(1)オスマン・トルコ語アラビア文字表記のややこしさ・伝統重視と,ウイグル語アラビア文字表記の明快さ・伝統破壊の中ぐらいに位置することが指摘された.それらの詳しい内容については,第3回ジャウィ文書研究会記録(本ニューズレター第1号,pp. 9-12に掲載)を参照されたい.<川島 緑>

2. A Too Simple Introduction of Cham Documents and Cham Jawi in Vietnam. SHINE Toshihiko (Graduate School of Frontier Sciences, The University of Tokyo)

本報告では,ベトナムのチャム人によるチャム語のアラビア語表記をめぐる状況について紹介がなされた.

まず,ベトナムのチャム人についての説明があった.チャンパ王国は17世紀にベトナムの攻撃を受け,国王はカンボジアに逃れたが,一部のチャム人貴族がベトナムに留まった.それが今日のチャム人の起源とされる.現在,ベトナムに居住するチャム人の人口は約13万人で,主な居住区はベトナム中部と,カンボジアとの国境に近い南部に分かれており,前者を東部チャム人(または中部チャム人),後者を西部チャム人(または南部チャム人)と呼ぶ.東部チャム人は,Adat ChamあるいはAdat Bani(シーア派の一派?)に従っている.一方,西部チャム人はスンナ派に属し,各村にモスクを持ち,子供達はそこでコーランを学習する.西部チャム人のイスラムは,マレー文化から大きな影響を受けているが,イスラム法に基づく生活の実践は比較的穏やかなものである.いずれのチャム人においても母系制が維持されている.かつては海上交易が経済活動の中心であったが,チャンパ王国衰退期に農耕社会に転じ,今日の主要産業も稲作である.

チャム語の表記法においては,伝統的な表記とアラビア文字表記がある.前者に関しては,古代に使われたAkhar Rikと,17-20世紀にかけて行政文書や契約文書などに使用された Akhar Thrahとがある.後者に関しては,Akhar BaniまたはAkhar Jawa(本報告ではこれを便宜的にCham Jawiと呼ぶ)などの呼び方がある.Akhar Baniとはそもそもアラビア文字でアラビア語を表記したものを指した.1960年代以降,西部チャム人のスンナ派が,アラビア文字のみによってチャム語を表記し始め,Akhar Thrahの使用を止めた.チャムとバニ(東部チャム人に属す)は,スンナ派の人々をジャワと呼んでおり,チャム語のアラビア文字表記をAkhar Jawaと呼び始めた.

続いて,アラビア文字表記のチャム語の例が紹介された.一つ目のテキストは,チャム人の小学校(マドラサ・イスラム)において現在使われている教科書に掲載されている詩であった.ここにおいて,チャム語をアラビア文字表記する際,チャム語に独特な音を表記する上で,ベトナム語の発音記号が導入されている例が示された.二つ目のテキストは,チャム人の村で収集された文書で,ハディースを記したものであり,一つ目のテキストとは異なる正字法を使用していることや,マレー語と共通した語彙の存在などが指摘された.最後に,東京修復保存センターによる文献収集の成果の一部に,アラビア文字で表記されたチャム語資料があることが紹介された.

以上の報告に対して,コメンテーターのオマール・ファルーク氏(広島市立大学),中村理恵氏(トヨタ財団)からそれぞれ以下の質問がなされた.オマール・ファルク氏からは,①ベトナムに存在する考古学的史料を使用すれば,チャンパ王国におけるイスラム伝播の存在が証明され,それは同時に東南アジアへのイスラム伝播に関するこれまでの学説を大きく変えうるものになるが,それについてはどう考えるか,②チャム人のイスラムがシーア派の系統に属すかどうか定かではないとのことだが,碑文史料によればシーア派との関係が深いという説もある,などのコメントがなされた.中村氏からは,①様々な文字表記システムの存在は,チャンパ王国から今日に至るまで,チャム人の政治的統合がなかったことを示す例であり興味深い,②本報告では,様々な地域のチャム人ムスリムを一緒に論じているが,もう少し整理が必要なのではないか,③イスラム伝播に関するBani人の史料は存在するか,などのコメントがなされた.

両氏の質問においては,本報告を大きな文脈に位置付けうる興味深い問題提起があったと思われるが,これに対して報告者からはほとんど回答がなかったのが残念であった.また,これに関連して,本日の報告を先行研究に位置付けるとどのような意義があるのかという質問が出され,これに対して報告者はCham Jawiに関する先行研究は存在しないと回答した.これを受けて,チャム人研究というもう少し大きな枠組みに本研究を位置付けることは可能なのではないかとの質問がなされたが,これに対しても,残念ながら,直接的な答えはなかったように思われる.

チャム人研究における問題点に関して,中村氏から指摘があった.それによると,東部チャム人こそが「真のチャム人」であり,西部チャム人はイスラムを信仰する以外は自らのアイデンティティを忘れた「堕落したチャム人」というイメージが一般化しているとのことである.これに関して報告者は,貴族層の多い西部チャム人に対し,東部チャム人は,貴族層の考え方は間違っており,西部チャム人はチャム人ではなく,自分達こそがチャム人なのだと主張していることを紹介した.

次にベトナム政府とチャム人との関係についての質問がなされた.報告者はこれに対し,西部チャム人は反共産主義運動に加わらなかったため,ベトナム政府との関係が良好であるとし,自治を求める運動や分離独立運動などはない一方,東部チャム人の中には共産主義に反対なムスリムがおり,分離独立運動もあったと答えた.これに対するベトナム政府の政策は,報告者によれば,反共産主義運動を阻止する方策を採る一方,教育の機会提供などチャム人を優遇する政策を採り,チャム人の取り込みを図っているとのことである.だが,このような優遇措置があるにもかかわらず,西部チャム人は子弟をマドラサに送ることを好み,ベトナム国内の大学に進学する者も少数で,マレーシアなどに留学する傾向があるそうである.政府は1980年代以降,チャム人文化の維持を支持する政策を取っており,チャム人固有の文字としてAkhar Thrahを認め,1991年には「チャム人ムスリムに適した文字表記システム」を認めるとの表現により,実質的にアラビア文字表記のチャム語も認めるに至ったとのことである.

国際的なイスラム・ネットワークとベトナムのチャム人との関係についても質問がなされた.報告者によれば,中部において,サウジ・アラビアから資金援助を受けている協会があるとのことである.また中村氏によれば,1995年以降,サウジ・アラビアがチャム人に資金提供をし,毎年5-6人ほどメッカ巡礼に招待しているとのことである.また同氏は,インドネシアやマレーシアからイスラムの教えを説きに来ている人々もおり,チャム人のイスラムにおいてマレーシアの影響が大きいことを指摘した.

Akhar Thrahを使用した文書に関して,契約に使用するとあるが,主に何の契約を指すのかという質問もあった.報告者によれば土地売買がほとんどであるとのことであった.これに対し質問者から,土地売買というのは大陸部東南アジアの特徴であり,島嶼部ではそれに関する文書がほとんど存在しないことが指摘された.<篠崎香織>

3. ジャウィ・テキスト"Al Munir"講読

レジュメ作成担当者:菅原由美(東京外国語大学大学院),西芳実(東京大学大学院)

これまでと同様の方法で,第1号2ページ23行目から3ページ24行目までの講読を行った.