日時:2002年5月18日(土)10:30-20:00
場所:上智大学四ッ谷キャンパス9号館3階359号室
出席者:20名(午前の部:11名)
ジャウィ文書研究会では,発足以来1年間余りの間に,勉強会や研究会を11回開催し,試行錯誤をまじえながら,ジャウィ表記を基礎から学んだり,ジャウィ表記の法則やその地域的,時間的差異を検討したり,ジャウィ文献の講読を行ってきた.本年度は,ジャウィ文書研究に関心のあるものの,ジャウィを学ぶ機会のなかった研究者を対象として,初心者向け勉強会「ジャウィ入門」を3回シリーズで実施することにした.これはその第1回目である.講師役を除く出席者は10名で,その内訳は,大学院生4名,大学教員4名,その他2名であった.大学院生,教員計8名のうち,東南アジア島嶼部を研究対象とする人は5名,東南アジア大陸部を研究対象とする人は2名,中東は1名であった.これまで等閑視されてきたジャウィ資料の研究への積極的利用に関心を持つ研究者が少しずつふえ,しかも,その中に東南アジア島嶼部以外を専門とする研究者も含まれていることは,東南アジア研究やイスラーム研究の発展にとって大変喜ばしいことである.
講師役の東長靖氏は,昨年の第3回研究会で「アラビア文字とその伝播」という報告を行った(要旨はニューズレター第1号に収録)が,本年度は,アラビア文字にまったく触れたことのない人が文字の段階でつまづいて挫折することがないように,文字の基本の説明と練習にじゅうぶんな時間をとることにし,昨年の報告内容を2回に分けて行うことにした.その1回目にあたる今回は,アラビア文字の読み書きの基本と,ある文字体系で別の言語を表記するときに生じる問題点やそれを解決するための工夫について説明が行われた.出席者全員が黒板にアラビア文字を書き,講師に直してもらう機会もあり,日本語の文をアラビア文字で書き,事前に提出するという宿題も出た.新しい文字を学ぶ楽しさを実感できる勉強会であった.<川島 緑>
本報告は,英語圏出身の出席者とのコミュニケーションを図るため,質疑応答も含め英語で行われた.
報告ではまず,マラナオの文字状況についての説明がなされた.マラナオは,ミンダナオ島中部南ラナオ州を中心に居住し,マラナオ語を話す人々である.マラナオ語の表記にはアラビア文字によるものとローマ字によるものがある.フィリピンの一部の研究者はマラナオ語アラビア文字表記を学術用語として「ジャウィ」と呼ぶが,マラナオ社会では一般的にこの呼称は用いられず,単に「アラビア文字」と呼ぶことが多い.アラビア文字で記された詩や物語などの文学作品はKirimと呼ばれ,その他のものはIranonと呼ばれることがある.また20世紀にアメリカの公教育政策や,アメリカ人プロテスタント伝道者の識字教育活動によってローマ字が導入された.年配のマラナオの中には,かつては,マラナオ語ローマ字表記を「madrasa文字」と呼んでいたという人もいる.おそらく,近代的学校で習う文字という意味であろう.
次に背景として,フィリピン独立問題におけるムスリム指導者層の動向について,独立を支持するFilipinistaとアメリカ支配の維持を望むAmericanistaとの分極化が起こったことが説明された.Americanistaがアメリカ政府に提出した数多くの請願書は,先行研究においては植民地支配維持を望むアメリカ人プランターたちの意図によるものと理解されてきたが,大部分の研究は請願書の英訳しか扱っていない.そこで,オリジナルのジャウィで書かれたマラナオ語請願書を分析することによって,ムスリム指導者たちの政治思想を明らかにすることが本報告の目的である,とされた.
ついで,筆頭請願者であるHadji Bogabongという人物について若干の描写がなされた後,彼が1934年から1937年の間に提出した4つの請願書について,それぞれのテクスト分析が展開され,アメリカ政府に対する要求の内容,キリスト教徒フィリピン人(Kristianos)との関係,アメリカ政府との関係,といった要素を取り上げ,これらの問題が請願書の中でどのように扱われているか,各時点での政治的状況と対比させながら比較検討がなされた.その結果,これらの請願書においては,アメリカ支配の継続という要求を正当化するためにイスラームの人々(bangensa Islam)とキリスト教徒フィリピン人の対立という図式が強調され,とくにキリスト教徒フィリピン人州知事時代に公権力によってムスリム指導者が殺害され,犯人が処罰されなかった事件を根拠として,キリスト教徒フィリピン人の統治が不公正であるとする非難が行われていることが明らかになった.従って,これらの請願書は単にアメリカ人企業家たちの利害に従ったものではなく,アメリカの保護の下に宗教的自治を確保しようとする戦略的意図を持つとともに,要求が容れられなかった場合の武装抵抗を正当化する目的も持っていた,という議論がなされた.
結論部分では,政府に対して請願書を提出するという政治行動が,南部ムスリム社会を含むフィリピン社会で現在に至るまで存在すること,および,Hadji Bogabongの請願書は現在でも有名でありしばしば引用される,という事実が指摘された.さらに,Hadji Bogabongの請願書のなかに「イスラーム的統治を実践する政治共同体」という概念をみることができ,それは,フィリピンにおけるイスラーム・ナショナリズムの起源として位置づけることができるとの主張がなされた.
質疑応答では大きく分けて3つの問題が議論された.まず報告者の用いた幾つかの概念についての質問が出された.請願書において要求された宗教的自治とは具体的に何を指すのか,という質問に対しては,請願書はウラマーらの合議の結果であって多様な要求を内包しているが,基本的にはイスラーム法に従って生活する権利のことである,という回答がなされた.法(hokoman)がどのように運用されているか,という質問に対しては,通常は年長者やウラマーの合議で問題が処理される,と回答された.さらに,イスラーム・ナショナリズムという概念についてもその定義をめぐる議論がなされた.この点に関して報告者は,「ある人間集団が,イスラームをイデオロギーとして用い,その集団の発展と繁栄を目指して展開する運動やそれを支える思想」という広い意味でイスラーム・ナショナリズムということばを用いていると回答した.
第二に,請願書の形式に関して,請願書の英訳を作成したのは誰か,という質問が出された.これに対しては,不明だがおそらくHadji Bogabongの近親者の中の英語教育を受けた青年である,と回答された.なぜ請願書がアラビア文字を用いて書かれたのか,という問いかけに対しては,以下の回答がなされた.当時のマラナオ知識人は(1)米国式の英語による公教育を受け入れたグループと,(2)米国植民地政府の公教育を改宗の装置とみなして忌避し,イスラーム教育を受けたグループに分極化しており,ウラマーや村落首長の多くは(2)に属していた.彼らは,英語やローマ字表記を用いることができず,日常的にアラビア文字表記マラナオ語を筆記コミュニケーションの手段としていた.
最後に宗教教育に関して,使用言語の問題や「伝統的」宗教教育の形態についての質問が出された.これに関して報告者は次のように説明した.マラナオではいわゆる伝統的イスラーム塾が存在せず,当時は基本的に,ウラマーとの個人的な師弟関係を結ぶことによってイスラーム教育が行われていた.そこでは,通常,マラナオ語が使用されていたが,ブルネイなどからウラマーが来訪して教えを広めた場合もあり,マレー語で書かれた宗教書も用いられていた.Hadji Bogabongもマレー語が堪能であった.これに対し,出席者から,Hadji Bogabongは,巡礼に行った際に,メッカの東南アジア人巡礼者のコミュニティでマレー語でイスラーム教育を受けた可能性があるという指摘がなされた.<國谷 徹>
レジュメ作成担当者:菅原由美(東京外国語大学大学院),西 芳実(東京大学大学院)
講読範囲:第1号1ページ最初から2ページ22行目まで.
今回から,いよいよAl Munir誌本文の講読に入った.前回同様,事前に提出された翻字案をレジュメ担当者がまとめて配布し,問題点を中心に議論した.参加者がAl Munirの表記法にある程度慣れてきたため,翻字に関してはそれほど大きい問題はなかった.だが,文章に句読点がほとんどないため,句,節,文の区切り方や,かかり方をつかむことが難しく感じられた.午後7時半をすぎ,集中力も欠けてきたので,後半の翻訳についてはレジュメ作成担当者の作成したものを読み上げてもらい,その検討は次回にまわすことになった.<川島 緑>