研究会・出張報告(2010年度)
研究会- 「現代中東イスラーム世界・フィールド研究会」/「スーフィー・聖者研究会(KIAS4/SIAS3連携研究会)」研究会(2011年2月12日京都大学)
第48回 現代中東イスラーム世界・フィールド研究会
「スーフィー・聖者研究会(KIAS4/SIAS3連携研究会)」研究会
日時:2月12日(土)13時30分~17時
場所:京都大学吉田キャンパス総合研究2号館(旧工学部4号館)4階第一講義室(AA401号室)
発表1:石田友梨(京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科)
「フジュウィーリー『隠されたるものの開示(Kashf al-Mahjub)』における実体(‘ayn)―人間の構成要素としての我欲(nafs)と精気(ruh)―」
コメンテータ:二宮文子(日本学術振興会)
発表2:高尾賢一郎(同志社大学大学院神学研究科)
「西洋のスーフィズム認識に見る諸問題―宗教と近代を巡る言説の変遷を通して―」 →報告②
コメンテータ:仁子寿晴(京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究科附属京都大学イスラーム地域研究センター)
報告①
本発表では、石田氏が今年提出した「初期スーフィズムにおける霊魂論―クシャイリー『クシャイリーの論攷』およびフジュウィーリー『隠されたるものの開示』における我欲と精気―」をもとに、特にフジュウィーリーの霊魂論を中心に議論がなされた。
発表者の関心の背景には、キリスト教の「Spirit」とイスラームの「霊魂」を一元的に捉え、西洋哲学の分析概念から霊魂論を捉えてきたオリエンタリストへの批判がある。これに対し、ムスリム自身の描く霊魂論を、原典から再考するのが本発表の目的であった。
具体的な霊魂論の分析にあたり、発表者はフジュウィーリーのペルシア語による著作『隠されたるものの開示』を精読した。フジュウィーリーは著作の中で、まず精気が実体であるか偶有であるか、永遠であるか否かを問い、また精気の段階を追うことにより、被造物かつ目視可能であることの傍証を行っている。発表者が取り上げたのは、この中で精気が実体であるか偶有であるかという議論であり、精気を実体や生命などと照らし合わせた意見に対し、クルアーンやハディースを用いたフジュウィーリーの反駁をまとめた。考察では、肉体と霊魂の対比を行い、我欲と精気が物質的な存在であることを示した上で、初期スーフィズムが正統派教義に基づいていることを結論づけた。
本発表に対し、コメンテーターの二宮氏からは、臨終の人間の重さを計測し、死ぬ瞬間に軽くなった分から魂の重さを測ったという実験が紹介された上で、魂と物質、物質と質量に関する質問がなされた。これに対して、フジュウィーリーの言うところの物質と、現代の私たちが考える物質は次元を異にする概念であり、物質は質量で測定できないという前提が確認されて上で、原子論と偶有の関係が議論された。
また、原典に出てきた「必然の知識」というペルシア語の語義的な解釈を皮切りに、神学と哲学、もしくはペルシア語とアラビア語の概念の差異と共存などに話題が広がった。フジュウィーリーはペルシア語で書を残しているが、自身はアラビア語の書物も読み、アラビア語でのイスラームの語りに使用される概念や語彙を多分に引用している。このように、この時代のイスラーム思想を理解するためには、神学やギリシア哲学の知識だけでなく、多くの配慮が必要となる。当時のペルシア語の社会で、どのように概念が理解されていたのかも考えなければいけない問題としてあげられた。さらに、これを日本語でどのように表現するか、日本で一般化されている哲学の語義との差異化を図りながらどのように理解するのかという課題も指摘された。
フロアからは、発表で用いられた「偶有」や「属性」といった概念に対する定義付けの脆弱性が指摘されたものの、スーフィズムの神学と哲学の違いから空間性の把握まで幅広い議論が展開され、多くのコメントが寄せられた。イスラーム科学の臨床現場で行われている伝統的霊魂論の再解釈など、現代的な需要も大きい分野でもあり、研究の発展が期待される。
(須永恵美子・京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科一貫制博士課程)