研究会・出張報告(2009年度)

   研究会

日時:2009年11月14日(金)13:30~17:30
場所:上智大学2-630a号室
発表:
 丸山大介(京都大学)「現代スーダンにおけるスーフィズム―聖者信仰とタリーカとの関連からみた一考察」→報告①
 茂木明石(上智大学)「オスマン朝統治下カイロにおける聖者信仰の消長―聖者廟地区に埋葬された死者の分析から」

報告②:
○茂木明石「オスマン朝統治下カイロにおける聖者信仰の消長―聖者廟地区に埋葬された死者の分析から」
 茂木氏は今回の報告でオスマン朝時代のカイロにおける聖者信仰の在り方を、「聖者廟」地区に関する文献資料から明らかにすることを試みた。この報告での中心的な課題は、第1にオスマン朝統治期における支配者層(総督、アミールなど)の埋葬地の歴史的変遷をたどることと、第2に埋葬地の変遷と三世紀間に及ぶオスマン朝によるエジプト統治の政治、社会の関係を考察することであった。年代記史料として、Jabarti、Ahmad Shalabiなど5点を、伝記資料として、Ghazziを使用した。
 初めに、オスマン朝期のエジプト史を、マムルーク朝滅亡までさかのぼって概観した。時代が下るにつれて、ベクの権力が強くなり、オスマン朝に対して反乱を企てるようになってくる。茂木氏は、この17世紀後半以降のオスマン朝エジプト総督権威の失墜と、ベクの権力の強大化を背景に、シャーフィイー廟近くに埋葬される総督の数か急増すると指摘する。そのうえで、このシャーフィイー廟近くに埋葬される総督の増加と、18世紀以降しだいに慣例化してくる新任総督のシャーフィイー廟参詣との関係は、先行研究において十分に検討されていないが、茂木氏はオスマン朝期エジプトの政治・社会とシャーフィイー廟との関係を考える上で、この問題をさらなる考究の対象とするべき問題として位置づけた。
 結論として茂木氏は、17世紀以降総督の埋葬地はシャーフィイー廟近くに集中しており、ベクの権力が高まる18世紀以降になると、ベクの埋葬地がシャーフィイー廟近くに増えてくることを指摘している。このことから、オスマン朝からの独立を主張する傾向が強まるにつれて、ベクやアミールがシャーフィイー廟近くに埋葬されることが多くなったとしている。また今後の課題として、17世紀以前に書かれた伝記資料およびJabarti以外の同時代資料、オスマン語史料などを参照する必要性を述べ、とくに16・17世紀におけるオスマン朝期エジプトのアミール、ベクの埋葬地の変遷を辿ったうえで、3世紀間の政治・社会の変化との関連を考察する必要があると述べた。
(若松大樹・日本学術振興会特別研究員/上智大学)