研究会・出張報告(2008年度)
研究会- グループ1研究会(2008年12月13日京都産業大学)
日時:2008年12月13日(土)13:00~17:00
場所:京都産業大学12号館5階 12521教室
発表1:13:00~15:00
杉山佳子(上智大学)
「フランス保護領チュニジアにおける教育改革―言語、宗教、ライシテ(1883-1908年)」(日本語)
コメンテーター:工藤晶人(大阪大学)
発表2:15:00~17:00
Hamdi Murad (Balqa applied Sciences University, Islamic Shariia Collage)
"Amman Message: The fact, the True of Islam"(英語)→報告②
報告①
杉山佳子氏は、「フランス保護領チュニジアにおける教育改革:言語、宗教、ライシテ」という題目で、フランス保護領チュニジアでの教育改革を、ルイ・マシュエルという人物のバイオグラフィーを用いて考察し発表した。
本発表の目的は、19世紀から20世紀の植民地という特殊な状況において、文化や言語はどのように経験されていったのか、人々は階層序列化された社会をどのように生きてきたのか、ということを明らかにすることである。方法論は、フランス植民地帝国内を移動したルイ・マシュエル(1848-1922)の植民地経験を通して植民地社会を描く、歴史学的手法によるバイオグラフィーを用いる。
発表の前半は、フランス人ルイ・マシュエルの経歴を説明した。アルジェで生まれ、父の意向から、コーラン学校とフランス系小学校の両方に通う。18歳半でアラビア語教師となり、その後、アラビア語、フランス語の教科書、辞書を多数出版した。1882年にチュニジアの公教育体制設立のため現地へ派遣され、翌年、チュニジア公教育局長に就任した。幼少期からアラブ文化とフランス文化に触れ、また、フランス植民地帝国内(アルジェリア、チュニジア、エジプトなど)を移動したという特殊な経歴をもつルイ・マシュエルのバイオグラフィーから、その後の考察を展開した。
フランス人であるルイ・マシュエルからは、フランス帝国の行政官やオリエンタリストという像がうかがえる一方、アラブ・イスラーム文明を称賛し、ムスリムへの多大な思い入れも見受けられる。杉山氏はここに、植民地主義的なパターナリズムが存在すると分析した。そして、人類の名において普遍性を体現するフランスが、特殊なアラブ・イスラーム文明のチュニジアを包含する図式は、多言語・多文化・他宗教のチュニジア植民地社会におけるライシテであるとする。そこでは、ありとあらゆる宗教が排除されないと同時に、宗教教育が学校教育の目的となることはないのである、ということである。そして、この研究を、19世紀から20世紀を生きた、フランス帝国の行政官、そしてフランス人オリエンタリストの、ひとつのモデルとなるという結論でしめくくった。
質疑応答では、ルイ・マシュエルのような、植民地時代に生まれた帝国側のオリエンタリストとして、歴史研究などの分野で扱われることの多い他のモデルがたくさんあげられた。また、フランスでは数年前から注目されるようになったこのようなバイオグラフィーを用いた研究に対して、今後の発展がさかんに議論された。
(白谷望・上智大学大学院グローバルスタディーズ研究科博士前期課程)
杉山佳子氏(上智大学アジア文化研究所・トゥールーズ大学FRAMESPA客員所員)の報告「フランス保護領チュニジアにおける教育改革―言語、宗教、ライシテ(1883-1908年)」では、植民地期のチュニジアにおいて、アラブムスリムに思い入れを持ちながら植民地行政官として教育改革に携わったルイ・マシュエルのテキスト分析から、オリエンタリストにとっての多文化・多言語社会におけるライシテの意味について論じられた。その中では、東洋への憧れとプラグマティズム、ムスリムへの思い入れと不信感という2つの葛藤が指摘された。また、普遍性を体現するフランス語によりチュニジア社会の多言語・多文化社会を中立的に包摂する姿勢からライシテが捉えられ、保守派や急進派に対抗し、現地の宗教教育やアラビア語を認めながら多文化社会の融和が求められたことが指摘された。
その後の質疑では、第一に、ルイ・マシュエルの中でのパラドクス・葛藤はどのようなものであったのか、単なる父権的なパターナリズムなのではないかという議論が起きた。第二に、チュニジアにおいてライシテが文化的中立の意味であり、フランスにおける世俗主義という意味とは大きく異なっており、それが混乱をもたらしたのではないのかという意見も多く出された。これに対し、杉山氏はマシュエルの思い入れを強調し、単なるパターナリズムでは説明できないとし、またカトリックへの対抗という意味において彼らは自身を中立だとみなしていたのだと回答し、チュニジアの特殊性を認めた。
私が専門とするトルコにおいて、ライクリッキとはまず共和制革命によるスルタン=カリフ制の廃止であり、宗務省の設置による宗教教育および宗教権力に対する政府のコントロールであった。これは、フランス型の世俗主義とは異なるものといえ、スンナ派ムスリム以外も法の下で平等に扱うという側面が存在していたという意味では、チュニジアのライシテにおける「中立」に近い部分もあるといえよう。このライクリッキが国家原則とされてきたトルコにおいて、1960年代以降イスラーム復興が顕著となってきた。公立学校では宗教教育が増加し、イマーム養成学校の増加が見られ、親イスラーム政党が政権を獲得した。このような動きに対し、軍部をはじめ世俗主義勢力は批判的であり、ライクリッキについて両勢力がそれぞれの解釈を示すなど盛んに議論が行われている。チュニジアの事例は、フランス植民地としては特殊とすることができるのかもしれないが、世界的にはフランス型の世俗主義の方が少数派であり、チュニジアの事例の方が一般的であるとも言える。ただし、本報告ではオリエンタリストのテキスト分析という性質上、現地社会の側の反応やどのような議論が行われたのかが分からなかった点が残念であった。
オリエンタリストやライシテが抱えていた矛盾というのは、もしかしたら、それまでの領域支配のみを目的としていたイスラーム王朝と異なり、植民地化という、「文明」の名の下で行われた資本主義市場の拡大そのものが抱えていた自己矛盾なのではないだろうか。トルコの場合は植民地化の経験がないため、専門外ではあるが、そのような印象を受けた。
植民地における近代教育の問題については、トルコのでも、他の中東諸国と同様にキリスト教宣教師による学校の開設は行われ、政府による教育改革も行われた。教育の場は、異文化接触の場であるため、本来の目的が布教であったとしても、教育を普及させるためには現地語で医療・保健・工学といった成果が見えやすい実学の教育を行うことからはじめることが非常に多く見られる。杉山氏の議論では、現地の宗教教育やアラビア語を認めるという考え方は、ムスリムへの思い入れのためであるとされていたが、本当にそのように言えるのかという疑問が残った。つまり、それは近代教育普及のための手段ではなかったのか、もしくは財政上やむをえなかったのかということである。このような点について考察するためには、やはりテキスト分析だけではなく、教育内容や植民地政府の財政、現地の人々の反応といったものを社会史的な視点ももちい、多角的に分析することも、一つの方法かもしれないと感じた。
(荒井康一・上智大学アジア文化研究所共同研究所員)