研究会・出張報告(2008年度)

   研究会

開催日時:2008年7月12日(土) 13:00-17:30
会場:上智大学四谷キャンパス3号館321教室

第1部 上智大学拠点紹介 13:00-13:30
 「民衆の視点からのイスラーム地域研究―三つのアプローチ」
 報告者:私市正年(上智大学外国語学部教授)
休憩 13:30-13:45

第2部 公開シンポジウム 13:45-17:30
 「諸宗教の平和的共存を問い直す―イスラーム地域研究からの視点」
 趣旨:
  21世紀に入るや、アメリカでの同時多発テロ(2001年9月11日)をかわきりに、米英軍の空爆によるターリバーン勢力の壊滅や同じ米英軍によるフセイン政権の崩壊など、世界を揺るがす重大事件が相次いで発生した。その後も「アル・カーイダ」を名乗る勢力によるテロは各地で起こっている。まさにハンチントンの「文明の衝突」(Foreign Affairs, 1993)の主張に沿うかのようである。
  これらの事件や紛争がグローバル化という現象の一つであることは言うまでもないが、そのような一般化によって、個々の事件や紛争の背後に隠れている地域特有の事実や問題を見失う危険性には十分注意する必要があろう。
  私たちが取り組んでいる「イスラーム地域研究」(NIHUプログラム)は、歴史的理解を重視しつつ、イスラームの諸地域の個性を検証し、多様なディシプリン間・地域間の比較研究を目指している。今シンポジウムでテーマを「諸宗教の平和的共存を問い直す―イスラーム地域研究からの視点」とした趣旨は、まさにこのような意図からある。
  すなわち、今日、各地で起こっている諸宗教の共存を危うくするような現象を、歴史的な背景や地域の事情を具体的に検証したうえで、時間軸と地域軸の二つの視点から比較すること。そして、性急に一般的な解決策を提言するのではなく、紛争や対立の現象を冷静に受け止めつつ、それらがどこから来ていてどこに向かっているのか、実態に即して参加者全員で考えてゆきたい。

 報告1:中村妙子(お茶の水女子大学大学院・人間文化創成科学研究科リサーチフェロー)
  「十字軍とシリア諸都市―その対立と共存」→報告①
 報告2:堀場明子(上智大学アジア文化研究所共同研究所員)
  「アンボンにおける「宗教」紛争の構造的要因と宗教の位置づけ」→報告②
 報告3:アガスティン・サリ(上智大学文学部講師)
  「世俗主義的イデオロギーと多文化社会―インドのヒンドウー・ムスリム共存の現実」
 コメント:
  オマール・ファルーク(広島市立大学国際学研究科教授)
  北澤義之(京都産業大学外国語学部教授)
  森本公誠(東大寺長老)
 総合コメント:川島緑(上智大学外国語学部教授)
 司会:赤堀雅幸(上智大学外国語学部教授)

第3部 懇親会 18:00-20:00
 会場:上智大学四谷キャンパス2号館5階教職員食堂

報告③
 本発表では、多くの宗教、言語などが入り交じったインドの多文化社会において、単一のアイデンティティを過度に強調する結果生じる「複数の単一文化社会(plural mono-cultural society)」の危険性と、多文化社会での平和的共存を可能にする「世俗主義イデオロギー(secularism)」を強調する必要性が論じられた。
 まず最初に、内婚制の存在や職業、信仰に基づくコミュニティ、言語、宗教に関するセンサス・データなどを用いてインドの多文化の実態が説明された。インドの人々は、「ヤーダヴ、ヒンディー語話者、ヒンドゥー」「マーッピッラ、マラヤーラム語話者、ムスリム」といったように、これらの要素に基づく複数のアイデンティティを持っているのが普通である。11億人という膨大な人口が(インド国民の「たったの4パーセント」は4000万人を超す)、多様な社会・文化背景を持って存在しているインドにおいて、特定の宗教に基づかない政治を目指す世俗主義は多宗教の共存を保証するイデオロギーであり、インドの国民統合の原理となっている。
 世俗主義によって、宗教や文化の異なりをこえてまとまる「インド国民」を形成しようとする潮流に水を差すのが、ヒンドゥーとムスリムの間に生じるコミュナル紛争である。本発表が用いた統計によると、コミュナル紛争による暴動数や死者数は1980-90年代にピークを迎えている。この暴動数の増加の一因と考えられるのが、1980年代以降のヒンドゥー・ナショナリズムの台頭である。ヒンドゥー・ナショナリズムを掲げるRSS(民族奉仕団)と傘下の諸組織は、独立以来政権の中枢にあった政党である会議派の政策を、少数派への阿り、似非セキュラリズムと批判し、また、古代のヒンドゥー寺院の再建設という宗教シンボルを用いて大衆の動員に成功した。これらの運動の直接の結果として最も有名なのは1992年のアヨーディヤのモスク破壊であるが、社会全体に対するより長期的で深刻な影響は、単一アイデンティティの強調とその政治的利用により、「複数の単一文化社会」が形成されることであろう。
 1人の人間の中に存在する多様なアイデンティティの可能性を切り捨て、単独のアイデンティティを過度に強調することは社会の分断に繋がる。現実にインドの政党政治は、宗教や地域などに基づく政党が、単一アイデンティティを強調することによって特定集団の支持を確保するアイデンティティ政治に移行しつつあるが、その中では、単一アイデンティティに基づく集団が己の権益を確保するために他集団と対立するといった現象がしばしば生じている。このような傾向を緩和し、諸宗教の平和共存を実現するためには、世俗主義イデオロギーの強調と、「インド国民」「アジア人」等といった「共通アイデンティティ(common identity)」の形成が必要である。
 (二宮文子・京都大学)