言語ナショナリズムの問題とその課題

2017.04.03

言語ナショナリズムについて

 私は、現代における国家と言語の関係を考察・表現するために、新しい言葉(概念)を創るという哲学的な研究をしています。何故新たに言葉を創る必要があるのでしょうか?その理由を説明するために、国家と言語の歴史についてお話しましょう。国家と言語には、互いの単位が一致しないという大きな問題があるのです。

まず宗教を例に考えてみましょう。近世の西ヨーロッパでは、宗教改革以降にカトリックとプロテスタントとで分裂したため、国家の単位と宗教の単位にズレが起きました(それまでは全員がカトリックでした)。しかし、ウェストファリア体制以降(1648年)、宗教は主権国家内の問題となり、国家と宗教の単位を(無理やりにですが)一致させました。その後市民革命を経て世俗化、政教分離、信仰の自由が確立した結果、最終的に宗教は個人の問題と考えられるようになったことで政治的・公共的な問題とはならなくなりました。

同じことは言語にも起こりましたが、問題もあったのです。言語も主権国家体制が成立して以来、国家の単位と言語の単位を一致させようという力が働いてきました。これは言語ナショナリズム、あるいは言語的近代と呼ばれています。つまり「ひとつの国家には、ひとつの言語だけがあればいい」という単一言語主義の考えが支配的になったのです。しかし、ここには問題もありました。というのは、ほとんどの国は国内に複数の言語がありますが、単一言語主義的な理念は支配的な大言語に有利に働くからです。

こうした矛盾は20世紀後半から少しずつ表面化しました。20世紀後半以降、マイノリティの発見にともない、少数言語にも焦点があたるようになったのです。それまでは、その国の生活は「国語」のみによって行われるべきと考えられていましたが、そうした考え方が批判されるようになりました。さらにグローバル化にともない、移住する人達が増えたことで、多言語状態での問題が至るところで生じるようになりました。これらのことが重なった結果、単一言語主義的な理念を持ち続けることは困難となり、また望ましいとも考えられなくなりました。現代では単一言語主義は否定され、多文化主義の類推である〈多言語主義〉という考え方が主流となりつつあります。

 要するに、昔は「ひとつの国には、ひとつの言語だけあればいい」と思われていたのですが、今では「ひとつの言語だけと考えると様々な問題が生じるので、いろんな言語があることを出発点としなければならない」と考えられるようになったのです。単一言語主義から多言語主義への転換といえます。

現代国家と言語の関係を論じるために、新しい言葉を創る

 多言語主義への転換には、様々な問題が山積しているのですが、その内の一つとして言葉(概念)の刷新が不可欠です。例えば「国語」という言葉があります。この言葉は、日常でも使われていますが、広く人文・社会科学で使用されている用語でもあります。しかし言語の研究者は、この「国語」という言葉と距離をとっています。というのは、「国語」という言葉は言語ナショナリズム的なニュアンスを強く感じさせるため、多言語状態を前提とする現代の研究状況の中で使用するにはふさわしくないからです。専門的な言い方をすると、「国語」という言葉は分析概念として問題があると考えられているのです。

ところが、「国語」に代わる現代的な用語を私達はまだ持っていません。そのため「国語」といったやや古い言葉を今でも使用し続けてしまう状況にあります。言葉(概念)は人間の思考・表現を実現するものであり、その概念が古いということは、私達の思考がまだ単一言語主義時代のそれに拘束されているといえます。こうした状況は、グローバル化の問題や多言語状態の問題を考える上で望ましくないです。そこで私は、「国語」の代わりに、新たに〈国家語〉という言葉を現代のより多言語な状況に対応できる概念として構築するという研究を行っていきたいと考えています。

氏名:西島 佑( 2016年度満期退学)
所属:国際関係論専攻博士後期課程
紹介した研究:言語ナショナリズムと多言語主義)