研究会・出張報告(2014年度)

   出張報告


期間:2015年3月16日(月)~3月27日(金)
国名:エジプト
出張者:茂木明石(上智大学アジア文化研究所客員所員)

調査した聖者廟:イスマーイール・ムザニー、イマーム・シャーフィイー、シーディー・ウクバ、ズゥーン・ヌーン・ミスリー、アブー・ガアファル・タハーウィー、カーディー・バッカール、タバータバー、ウマル・イブン・アルファーリド、イフワト・ユースフ、イブン・アビー・ガムラ、サーダート・ワファーイーヤ、サイイダ・ナフィーサ

3月16日(月)
カイロ到着。
3月17日(火)
調査準備。
3月18日(水)
 ムザニー廟、シャーフィイー廟、スィーディー・ウクバ廟を調査。午前9時頃、ホテル・ビクトリアを出発。タクシーでセイイダ・アーイシャ(バスターミナル)まで行く。セイイダ・アーイシャは丁度、旧カラーファ門の入口のところにあり、そこからが今回の調査地ということになる。ちなみに、上掲の聖者の墓廟は皆、カラーファ(詳しくいうと小カラーファ)の中にある。調査は、徒歩とタクシーを併用した。
 旧カラーファ門からイマーム・シャーフィイー通りを歩きながら、人に尋ねながら聖者たちの墓廟を探した。マスィニョンと大稔先生の論文に掲載されていた地図をコピーして持ち歩いた。カイロの地図も持っていったが、報告者が今回、調査対象とした聖者廟の多くは乗っていない。旧カラーファ門からイマーム・シャーフィイー廟までは一本道である。この日に、調査しようとしていた聖者廟は、スィーディー・ウクバを除いて、基本的にカラーファ門からイマーム・シャーフィイーまでの道の途中にある。
 まずはムザニーの墓を探した。事前調査で比較的小さな墓であることは分かっていた。シャーフィイー廟の近辺の住民に聞いたところ、その墓の鍵を持っている老人がおり、その老人が最初、ムザニーの墓がある墓地まで案内してくれた。墓地の前まで来たとき、その老人は、自分は鍵を持っていないと言い、老人の娘か孫娘らしい女性とその家族の住居に報告者を連れて行った。報告者は、この老人と女性に案内されてムザニーの墓を訪れた。ムザニーの墓は、想像以上に荒廃しており、墓碑銘を見ても、本来、ムザニーの名が刻まれていたはずだが、その名も確認できなかった。本当にムザニーの墓なのかと思ったが、場所といい、墓の形といい、事前調査のとおりではあったので、ムザニーの墓ということで写真を何枚かとり、お礼として払うものはそれなりに払い、次の調査へと向かった。ちなみにムザニーは、シャーフィイーの高弟であり、実質的なシャーフィイー派の創設者とされている人物である。マムルーク朝期には、カラーファ7聖墓の1つとして土曜日に多くの参詣者を集めていたはずだ。だが、現在は、朽ち果てた廃墟同然の墓であり、参詣の対象とはなっていないことは一目瞭然であった。ちなみに、ムザニーの名前は、付近の住民にほとんど知られていなかった。物知りのハッグ(※ハッジ、物知りの老人をしばしばそう呼ぶ。必ずしも実際にメッカ巡礼に行っているとは限らない)がかろうじて知っている程度であった。
 続いて、イマーム・シャーフィイー廟を訪問した。シャーフィイー廟を訪問して驚いたのは、報告者にサダカ(喜捨)を求める人々のしつこさと要求されるサダカの額の多さであった。シャーフィイー廟は、過去に何度も訪れたことがあり、サダカを求められたこともあるにはあった。しかし、その求められかたは、軽く手を差し出す程度であり、今回に比べればはるかにささやかなものであった。額も1ポンド程度であった。しかし、今回、シャーフィイー廟で求められたサダカは1~2ポンド程度ではすまなかった。最初は、1ポンドずつサダカを渡そうと思っていたが、「アシャラ(10ポンド)」、「アシュリーン(20ポンド)」としつこく要求された。彼らが報告者に求めるサダカの額の多さは、報告者にとっては予想外であり、過去とは基準が変わったのかとも思った。ちなみに、今回の調査で聖者廟訪問の際に渡したバクシーシュの額は概ね10~20ポンドであった。以前であれば1~2ポンドで済んだのだが、やはり景気低迷と物価高のあおりを受け、バクシーシュやサダカの額も上がっているということなのだろう。それだけ切羽詰っているというべきか。他に気付いたことといえば、時期的なこともあるのだろうが、シャーフィイー廟周辺の市場も以前に訪れたときよりも活気がなく、閑散としていた。
 シャーフィイー廟の内部自体は、今までと基本的に変わった様子はなく、何人かの女性がろうそくを持って参詣していた。前からそうであったが、シャーフィイー廟の参詣者は女性が多いようだ。シャーフィイー廟内をしばし見学した後、スィーディー・ウクバの墓に向かった。スィーディー・ウクバは、預言者の教友とされている人物である。スィーディー・ウクバの墓は、地図によると、イマーム・シャーフィイー通りを直進し、行き止まりまで行くと左側にある。入口から地下におり、暗い洞窟のような部屋の奥の一室にスィーディー・ウクバの墓が安置されている。その奥まった様子は隠者の墓といった感じであった。墓が安置されている部屋は狭く、人一人が辛うじて墓の周りを歩ける程度である。墓の正面には、スィーディー・ウクバの名を刻んだ碑が建てられており、その碑の前にサダカを入れる箱が置かれている。墓自体は緑色の布で覆われていた。報告者が訪れたときには、男性の参詣者が二人ほどいた。スィーディー・ウクバの墓は、現在もなお聖者廟として生き続けているようだ。管理人の承諾を得て、写真を何枚か撮り、いくばくかの謝礼を渡した。近くにズゥーン・ヌーン・ミスリーの墓もあるはずだが、疲れてしまったこともあり、この日のフィールドを追えた。ちなみに、付近の住民に聞いた感じでは、スィーディー・ウクバの名前はわりと知られており、「スィーディー・ウクバ、フェーン」と聞くと、誰でもすぐに場所を教えてくれたが、ズゥーン・ヌーン・ミスリーの名は以外に知られていなかった。ある人は、「この先にあるのはスィーディー・ウクバだけだ」と断言していた。報告者にとっては以外であった。
3月19日(木)
 この日はアブー・ガアファル・タハーウィーの墓の調査を行なった。タハーウィーはハナフィー派の法学者であった。墓の場所については、地図でおおよその見当は付いていたが、探し当てるのに予想外に手間取ってしまった。付近の住民に聞いても、「ここら辺はみなタハーウィーだ」という答えがよく帰ってきた。住民がいうタハーウィーは地区の名前のことである。タハーウィーの一族の墓地も探し当てたが、アブー・ガアファル・タハーウィーの墓自体はそこにはなかった。住民もタハーウィーという地区の名前は知っていてもアブー・ガアファル・タハーウィーの墓の場所についてはほとんど知らないようであった。道行く人に訪ね歩くうちにたまたまイマーム・シャーフィイーのシャイフと名乗る人物と出くわした。シャーフィイー・モスクに行くところだったようだ。彼にタハーウィーの墓を訪ねたところ、快く案内してくれた。彼はより正確にいうならばシャーフィイー・モスクのシャイフであり、アズハルの出身とのことであった。彼の案内で報告者は、タハーウィーの墓に行き着くことができた。墓の入口の門には、ムハンデス・某・タハーウィーと書かれている。今、住んでいる人の名前だろう。そして、門の左側の壁にアブー・ガアファル・タハーウィーと青いペンキで書かれている。その門前でしばらく待つうちにイマーム・シャーフィイーのシャイフが仲間を引き連れ、報告者を廟内に入れてくれた。彼がそこの住民に話しをつけてくれたのだ。シャイフは5~6人の仲間を引き連れ、廟内に入ると、墓の前に立ち、全員で両手を広げドゥアーを始めた。参詣書に書かれているとおりだ。墓自体はとうに朽ち果て、今は参詣者もなく、どう見ても聖者廟としては既にその存在をやめてしまっている。ただ、墓の前にタハーウィーの名を刻んだ石碑が一本建てられているだけだ。その墓前でシャイフたちはかなり長い間ドゥアーを続けていた。ちなみに、報告者がドゥアーをしてくれと頼んだわけではなく、彼らが自発的にしてくれたのだ。報告者のほうが、やや唖然としてしまったが、ドゥアーも含め、何枚か写真は撮らせてもらった。シャイフたちが立ち去った後、住民にいくばくかのお礼をしてタハーウィー廟を後にした。
3月20日(金)
 この日は、アズハル近辺の本屋をめぐり史資料の調査及収集を行なった。
3月21日(土)
 この日は、ズゥーン・ヌーン・ミスリーの墓を調査した。シャーフィイー廟近辺でタクシーを拾い、ズーン・ヌーン・ミスリーの墓まで行った。運転手に地図を見せ、スィーディー・ウクバの近くにあると伝えた。タクシーの運転手は、自分はズーン・ヌーン・ミスリーの墓の場所を知っていると自信満々であったが、何度もわき道にそれたり、人に聞いたりして右往左往しながら、道を進んだ。結局地図のとおりの場所にズーン・ヌーン・ミスリーの墓はあった。ズーン・ヌーン・ミスリーの墓は、何人もの墓が納められた廟の奥の右側に安置されており、外観としては比較的地味な墓であった。何枚か写真を撮ったが、特にサダカも求められず、御礼を言って立ち去った。ズーン・ヌーン・ミスリーの墓というからにはどれほどのものかと思っていたが、案外小規模なものであったので、正直なところやや拍子抜けしてしまった。
3月22日(日)
 ナフィーサ廟、カーディー・バッカール廟、タバータバー廟を調査した。ナフィーサ廟は、さすがに規模も大きく、美しいものであった。廟内に入ると、かなりの人にサダカを求められた。これも報告者が以前には経験したことのないしつこさであった。ひととおりサダカを渡し、ナフィーサ廟を後にした。続いて、タバータバー廟とカーディー・バッカール廟を調査した。タバータバーは1人ではなく聖者の一族であり、その墓地(マクバラ)はアイン・スィーラという湖のほとりにあった。現在は一部の廟を除いて湖の中に沈んでしまっている。事前調査でおおよその状態はつかんでいたが、実際に行ってみるとその沈み具合は思った以上に進んでいた。廟自体は完全に水の中に沈んでしまい、いくつかのドーム(クッバ)だけが辛うじて沈まずに残っていたので、何枚か写真に取った。カーディー・バッカールの廟は、タクシーの運転手とともに付近の住民に尋ねまわったが、結局のところモスクは見つかったものの墓自体の所在は分からずじまいであった。
3月23日(月)
 ウマル・イブン・ファーリド廟、イフワト・ユースフ廟、イブン・アビー・ガムラ廟、サーダート・ワファーイー廟を調査した。ウマル・イブン・ファーリド廟とイフワト・ユースフ廟は、廟内に入ることを硬く拒否されてしまったので、モスクの外観を写真撮影しただけで立ち去った。イブン・アビー・ガムラの廟はタクシー運転手とともに交渉した結果、廟内に入ることができた。墓の上に比較的小規模なドーム(クッバ)が立てられており、廟内もわりと簡素であった。墓の上には何冊かのクルアーンが置かれており、碑らしきものもあったが何枚もの覆いがかけられており、読むことはできなかった。サーダート・ワファーイー廟は、大規模なものでサーダート家のシャイフたちの墓が納められていた。廟内は写真撮影禁止と書かれた紙が貼られており、交渉してみたが結局写真撮影は許可されず、廟内の見学が許されたのみであった。廟内は総じて美しい装飾が施されており、落ち着いた雰囲気であった。
3月24日(火)
 エジプト国立図書館(ダール・アルクトブ)を訪問し、聖者崇敬に関するいくつかの写本史料の内容をざっとではあるがマイクロフィルムで確認した。
3月25日(水)
 同じく、エジプト国立図書館でいくつかの写本史料をマイクロフィルムで閲覧した。
3月26日(木)
 カイロ出立。
3月27日(金)
 帰国。

文責:茂木明石(上智大学アジア文化研究所客員所員)