研究会・出張報告(2013年度)
研究会報告- ワークショップ:「東南アジアのムスリムと近代:1930年代を中心に」 (2013年11月10日(日)上智大学)
趣旨説明 10:30-10:40 小林寧子(南山大学)
発表(1)
10:40-11:20 発表:小林寧子
「1920~30年代インドネシアの定期刊行物:IPOリストに基づいて」
11:20-11:30 コメント:鈴木恒之
11:30-12:00 討論
<昼食休憩>
発表(2)
13:00-13:40 発表:山口元樹(慶應大学大学院)
「東インド・イスラーム会議とアラブ人―1920年代後半におけるインドネシアのムスリム社会の構築―」
13:40-13:50 コメント:塩崎悠輝(同志社大学)
13:50-14:20 討論
発表(3)
14:30-15:10 発表:左右田直規(東京外国語大学)
「戦前期英領マラヤのマレー語歴史教科書に見るムスリムと近代」(仮題)
15:10-15:20 コメント:久志本裕子(日本学術振興会特別研究員)
15:20-15:50 討論
発表(4)
16:00-16:40 発表:川島 緑(上智大学)
「1930年代フィリピンにおけるアメリカ人宣教師の出版活動とイスラーム:
『ラナオ・プログレス』をめぐって」
16:40-16:50 コメント:松本ますみ(敬和学園大学)
16:50-17:20 討論
小林寧子(南山大学)「1920~30年代インドネシアの定期刊行物:IPOリストに基づいて」
本発表では、1930年代とその前後にインドネシアで発行された定期刊行物を概観することを通して、当時のムスリムが国内情勢および国際情勢に対してどのような認識を形成していたのかを明らかにしていくという研究の展望が示された。
蘭領東インドにおける住民読書関連問題局が発行していた原住民及マレー語中国語系プレス概要(IPO)に登録された定期刊行物を見ると、1937年のリストでは約4分の3(308点)はマレー語で記されている。次いで、ジャワ語(69点)、スンダ語(27点)、オランダ語(20点)等の定期刊行物も見られる。 出版の件数が多かった地域は、まずジャワ島のソロ(690件)、バタヴィア(57件)、ジョグジャカルタ(44件)、スラバヤ(35件)、スマラン(25件)等であり、ジャワ島以外ではスマトラ島のパダン(19件)、メダン(13件)、スラウェシ島のマナド(15件)等であった。1930年代のイスラーム系定期刊行物の中では、1920年代から出ていたイスラーム同盟系の刊行物に加えて、設立から間もないムハンマディア系の刊行物の拡大が見られる。
当時のインドネシアのムスリムが抱えていた問題として、ナショナリズムと結びついた議会開設要求、婚姻登録法案問題、キリスト教宣教問題、アフマディヤ問題、イスラームと女性の問題等、現代に至るまでインドネシアが抱える問題とも深く関わる問題が考えられる。また、当時意識されていた国際情勢上の問題としては、中東諸国での国民国家建設、パレスティナ問題、東アジアにおける日中戦争やそれと関連した日本のイスラーム・プロパガンダ等があったと考えられる。1930年代の定期刊行物の多くは、刊行期間が短命であり、現在では全巻が保存されている刊行物はほとんどない。また、発行部数もその多くは不明であるため、影響力を把握することが難しい。こういった問題があるものの、1920年代から30年代にかけての定期刊行物という資料を通して当時のインドネシアにおけるムスリムの世界認識を見るという研究には大いに発展の余地がある。これまで知られていなかった面も含めて、ムスリムが国内および国際的な諸問題にどのような認識を持っていたのか、従来よりも深く把握していくことが可能であると考えられる。
山口元樹(慶應義塾大学)「東インド・イスラーム会議とアラブ人―1920年代後半におけるインドネシアのムスリム社会の構築―」
本発表では、1922年から32年にかけて開かれた東インド・イスラーム会議を中心に、当時のインドネシアにおけるイスラーム運動の中でのアラブ人の役割やプリブミ(土着の住民)との関係を考察することを通して、インドネシアのムスリム社会が構築されていった過程を新たにとらえ直す可能性が示された。オランダ統治下インドネシアのムスリム社会において、アラブ人は少数派とはいえ特殊な発言力と地位を有していた。その背景にはアラブ人が持っていた中東とのコネクションや経済的な優位性があった。1910年代、20年代は、プリブミを主体としたナショナリズム運動やイスラーム運動が台頭し、アラブ人は周縁化されていったと考えられてきた。東インド・イスラーム会議においてアラブ人の果たした役割から、当時もアラブ人が一定の存在感を持っていたことがうかがえる。
1924年にトルコでカリフ制が廃止されたことにより、エジプトのアズハルやサウディアラビアのイブン・サウード国王は、今後の全イスラーム世界の政治体制のあり方を決定するための国際会議の開催とそこへの参加を広く呼びかけた。東インド・イスラーム会議は、このような呼びかけに応じ、国際会議にインドネシアからの代表団を派遣することを主な活動目的としていた。アラブ人は、東インド・イスラーム会議とこれらの国際会議の一部に参加するとともに、資金面等で大きな役割を果たした。
東インド・イスラーム会議では、ナフダトゥール・ウラマーに代表される伝統派とイスラーム同盟やムハンマディアのような改革派の対立が見られた。また、中東におけるサウディアラビアの台頭のような重大な情勢の変化も東インド・イスラーム会議のあり方に影響をおよぼした。東インド・イスラーム会議の一角を占めたアラブ人の団体イルシャードとその代表アフマド・スールカティーは改革派の立場をとり、サウディアラビアを支持する姿勢を明確に示した。
東インド・イスラーム会議は1932年に終了し、インドネシアのイスラーム諸団体が会同する新たな会議として1937年にインドネシア・イスラーム最高会議(ミアイ)が開催された。当初ミアイに参加した七団体の内、三団体がアラブ人の団体であり、「インドネシアのムスリム社会」が形成されていった過程で、アラブ人がその一員として組み込まれていった一例であると考えられる。
文責:塩崎悠輝(同志社大学神学部・助教)
左右田直規(東京外国語大学)戦前期英領マラヤのマレー語歴史教科書に見るムスリムと近代
本発表は、植民地支配を契機とする近代歴史学の導入が、マレー人ムスリムの歴史認識の形成においてどのような役割を果たしたのかを明らかにするため、20世紀前半に出版された二つの歴史教科書を比較考察したものである。主な資料は、R・O・ウィンステッド著『マレーの歴史』(1918年初版)と、アブドゥル・ハジ・ハサン著『マレー世界の歴史』(1925年初版)である。発表ではこの二冊に関連する諸資料も参照しながら、二冊の教科書におけるイスラームやムスリムに関する言説が分析された。
マレー語による歴史叙述は、古典的には王朝の起源と系譜から王朝の正当性を示すヒカヤットを中心とし、その記述には「神話」「伝説」とみなされるものと「史実」と見なしうるものが混じっていた。しかし、イギリスによる植民地化が進み、植民地官僚によるマレー研究が進んだ19世紀前半以降、「事実」に基づく実証主義的な歴史叙述が導入され、1910年代後半には学校教育にも反映されるようになった。教員養成カレッジに初めて歴史が独立の科目として教えられるようになった1918年に使用されたのが、ウィンステッドの『マレーの歴史』であった。
『マレーの歴史』は「イギリス人による」「マレー人のための」「マレー人の」歴史ということができるが、一部著者を「マレー人ムスリム」と同化する表現も見られ、ウィンステッドの単著と見なすべきかについては検討の余地がある。方法としては、様々な史料を比較し、史料批判をしながらマレーの歴史を再構成する実証主義的な歴史叙述となっている。一方、『マレー世界の歴史』は「マレー人による」「我々の歴史」ということができるが、「マレー人」をできる限り客体化しようとする姿勢が見られる。叙述の方法は、『マレーの歴史』と同様の実証主義的な方法が採られている。
イスラームに関する記述について両者を比較すると、イスラームの伝来に関する説や時代区分、イスラーム伝来後の社会の記述のあり方については共通性が見られる一方で、『マレー世界の歴史』ではマレー世界以外のイスラームの展開に触れるなど内容の選択に違いが見られる。
これらの教科書の歴史記述には明らかに近代歴史学の方法の影響が見られるものの、新しい歴史記述の出現とマレー人ムスリムの歴史認識の変化の関係は、単純な西洋近代のインパクトと捉えることはできない。新しい歴史記述がマレー民族意識の覚醒に及ぼした影響や、イスラーム世界を経由した近代的発想の伝達といった複眼的な視角から、「我々の歴史」と「彼らの歴史」の関係の展開を読み解く必要があろう。質疑では、歴史記述をマレー世界やイスラーム世界に拡大することは植民地政府に危機感をもたらさなかったのか、同時期のインドネシアの歴史教育と比較すると新たな視野が開けるのではないかといった質問、コメントがなされた。
川島緑(上智大学)1930年代フィリピンにおけるアメリカ人宣教師の出版活動とイスラーム:『ラナオ・プログレス』をめぐって
本発表は、従来のフィリピンのイスラーム改革運動研究において着目されてこなかった、20世紀半ば以前のイスラーム改革運動成立期におけるムスリムの言論に焦点を当てたものである。分析の対象は、1930年代にアメリカ人プロテスタント宣教師、フランク・ローバック(Frank Laubach)が、その出版活動の一環として発行した地方紙『ラナオ・プログレス(Lanao Progress)』である。
1930年代のフィリピンは、独立をめぐる動きが加速する中で社会の不安定性が目立つ一方、公教育を受けたムスリムの知識人、専門職が活躍を始めた時期であった。1915年に伝道師としてアメリカから赴任したローバックは、1929年にラナオ州で宣教を開始し、識字教育、出版等の活動に携わった。この中で発行されたのが『ラナオ・プログレス』であった。
『ラナオ・プログレス』はローバックを編集長として英語とマラナオ語(のちにビサヤ語が加わる)で書かれ、1938年時点で1200部が発行されていた。その内容は一般読者に向けたもので、世界とフィリピンのニュース、法律や保健衛生等、生活に関する情報、イスラームに関する基本的知識と民話・伝説・民謡等であった。多くの記事は英語とマラナオ語の両言語で書かれたが、1935年頃から増加した読者投稿による民謡についてはマラナオ語のみで書かれていた。民謡の欄は、最も人気のある欄でもあり、ここから広く知られる「ヒットソング」も生まれたという。
『ラナオ・プログレス』はこのように二言語で記載されたことによって、マラナオからフィリピン全体、そしてアメリカへと繋がる言論区間を形成し、マラナオの人々に外の世界とのつながりを意識させたと考えられる。同紙における言論は、一見ローバックによって管理統制されていたように思われるが、複数言語で記載された記事における訳語の選択や、マラナオ語のみで記載された記事の内容を細かく見ると、必ずしもローバックの意図やアメリカにとって都合の良い情報に限られない、マラナオの民衆的知識人が相対的に自由に発言をする可能性のある言論空間として機能している様子が見られる。このような記事の内容と表現からは、先行研究では着目されてこなかった、20世紀のマラナオの民衆知識人のイスラーム観やアメリカに対する認識、独立への意識といったものを読み取ることができよう。質疑応答では、同紙の背景や、紙面に現れた問題意識には、中国におけるムスリムの関心やプロテスタント宣教の状況とかなりの共通性が見られること等が指摘された。
文責:久志本裕子(日本学術振興会特別研究員)