研究会・出張報告(2012年度)
出張報告- モロッコにおけるイスラーム政権に関する調査研究(2012年9月5日~9月18日)
期間:2012年9月5日(水)~9月18日(火)
国名:モロッコ
出張者:私市正年(上智大学・教授)
概要:
2011年の「アラブ政変」後に誕生したイスラーム政権(イスラーム政党が第一党の地位を占める政府)のなかで、モロッコは他のアラブ諸国とは異なる様相を呈している。すなわち、チュニジアやエジプトのイスラーム政権は、イスラーム急進派やいわゆるリベラル派(世俗派)の抵抗と経済の低迷を受けて、ますます混乱状況を深めつつあるのに対し、モロッコのイスラーム政権は、政治的に大きな抵抗や対立がなく、また観光業も含めて経済状況は順調であり、安定しているように見える。この違いはどこから来るのか。本調査では、こうした問題について政治学者で新憲法の草案作成にもかかわったAbd al-Rahim氏(ムハンマド5世大学教授)、イスラーム政権の与党「公正発展党」事務所、モロッコJICA事務所などを訪問し、取材と調査を行った。
調査の結果、暫定的ながら以下のような見通しを得た。(1)体制は、イスラーム政党「公正発展党」が1997年以降の合法化され政治参加(正式には1998年)した後、そのイデオロギーや体制(王政)との関係、政治行動などを検証した結果、本政党は、体制にとって危険な政党ではなく取り込みが可能である、と認識していたこと。当然、それは、2011年11月の選挙における「公正発展党」の勝利はイスラームの勝利ではなく、イスラームと政治を分離した政治選択がなされたことを意味する。(2)「アラブの政変」は、いわゆる既存のイデオロギーや宗教勢力による政変というよりも、「市民」の運動が大きな力になった。少なくとも、独裁者を打倒するまではそう言ってよかろう。その変革では自由や公正さや人間としての尊厳という価値観が大きな意味をもっていたので、リベラル・デモクラシーの形(体裁)をとることは、国内外で体制の正当性を得るために必要であった。その意味で公正発展党を与党に入れ、これまで与党であったUSFP(人民社会主義諸勢力戦線)を野党にすることは、選挙によって政権交代が実現したことを示すことができ、きわめて好都合であった。政治学的には、取り込みと与党・野党のローテーション制の組み合わせによる、権威主義体制の維持をはかろうとした、と理解することもできよう。(3)モロッコの経済発展は著しく、それが体制主導の政治変革を支えることになった、という経済的背景も無視できない。経済成長率は、2001年以降、低くても、2.71%、 高いときは7.76%を達成していた。それは、国民一人あたりの所得が、1997年1260ドルから、2010年3249ドルと、2.58倍の増加であったことからもわかる。
[経済成長率]
2000 | 2001 | 2002 | 2003 | 2004 | 2005 | 2006 | 2007 | 2008 | 2009 | 2010 | 2011 | 2012 |
1.59 | 7.55 | 3.32 | 6.32 | 4.8 | 2.98 | 7.76 | 2.71 | 5.59 | 4.95 | 3.7 | 4.27 | 3.7 |
[一人あたりの国民所得]
1260ドル(1997年)
1520ドル(2005年)
2851ドル(2008年)
3249ドル(2010年)
[イスラーム政権の誕生と党構成]
(1)年月
・「2月20日運動」
・3/9 国王による憲法改正に実施宣言
・7/1 国民投票によって憲法改正案承認・・・第一党から首相が任命。国王から首相にいくつかの権限移譲(閣僚任免権)
(2)選挙結果
①2007年衆議院選挙(総議席325)
イスティクラール党:52、PJD(公正開発党:イスラーム系):47、MP(人民運動:ベルベル系):41、RNI(独立国民連合:王党派):39、USFP(人民社会主義諸勢力戦線):36、UC(立憲同盟:リベラル派):27、PPS(進歩社会主義党):17
・・・・ =連立与党
②2011年11月25日衆議院選挙(総議席395)・・・モロッコ史上はじめて、イスラーム系政党が第一党となる。
PJD:107、イスティクラール党:60、RNI:52、PAM(真正近代党):47、USFP:39、MP:32、UC:23、PPS:18
・・・・ =連立与党
*連立政権
・PJD、イスティクラール党、人民運動、PPSの4党連立内閣
・首相はPJD党首のベンキーラーン
・31閣僚ポストのうち首相、外相、法務相、通信相など12ポストをPJDが占める。
(私市正年:上智大学・教授)