研究会・出張報告(2012年度)
研究会報告- 「イスラーム運動と社会運動・民衆運動」研究会 2012年度第1回研究会(2012年5月27日上智大学)
日時:2012年5月27日(日) 13:30~17:35
場所:上智大学四谷キャンパス2号館6階630a会議室
プログラム:
13:30~13:40 ・・・挨拶
13:40~14:55 書評(1)
書評者:見市建
川島緑『マイノリティと国民国家―フィリピンのムスリム』(山川出版社)
15:00~16:15 書評(2)
書評者:高岡豊
横田貴之『原理主義の潮流―ムスリム同胞団』(山川出版社)
16:20~17:35 書評(3)
書評者:清水学
私市正年『原理主義の終焉か―ポスト・イスラーム主義論』(山川出版社)
【報告】
本年度第一回目の研究会が執り行われ、以下の3つの書評報告がなされた。最後の報告では著者が欠席だったため、報告者の書評のみが行われた。
発表者:見市建氏(岩手県立大学・准教授)
報告(1):「書評・川島緑(2012)『マイノリティと国民国家』」
本書はイスラーム運動の視点を取り入れてフィリピンの宗教・政治・社会運動を理解しようとする試みである。具体的にはモロ民族独立運動、とりわけその政治思想と社会的基盤および前後の政治運動との関連に焦点を当てる。評者の見市氏が内容を紹介した後、次の5点についてコメントを行った。(1)フィリピン政治に関する一般的なイメージを崩し、同国のアカデミズムですらあまり重視してこなかった南部地方の現地資料を用いた点や個別の知識人に関する知見を掘り起こした点が特徴であり、本研究の独自性だと評価できる。
しかしながら、(2)タイトルの『マイノリティと国民国家』が内容を表していないように思われる。(3)従来の研究は政治指導者を中心として記述している一方、本書はあまり注目されてこなかったウラマーに着目している。ゆえに従来の記述との違いや関係性を示した方が、本書の想定する読者である初学者に親切だったのではないか。(4)MNLFとMILFとの違いが分かりにくい。イデオロギー的変遷や指導者のエスニシティと支持層に違いがありそうだが、整理が不足しているのではないか。(5)日本による支配時代について、フィリピンではムスリムの政治化を推奨せずムスリムを「未開人」扱いしたことの意味づけをして欲しい。といった批判や要望が出された。
これを受けて著者の川島氏は次のような返答を行った。(2)に関して、国民統合モデルでフィリピンを説明した研究は多く、実態すら明確に把握されていないフィリピンのムスリムを明らかにするオリジナル性をタイトルよりも重視した。(3)について、一般的なフィリピン政治分析はオリガーキー論から始まり、南部でも共通と考えられている。しかしムスリム知識人への注目や研究がなかったからといってイスラーム運動がなかったわけではない。同国のムスリム知識人はカイロやメッカと交流し、運動の原点となっていた。(4)に関して、MNLF・MILFともにメンバーシップが明確ではなく、ふたつのネットワークがあってどちらの内部にも派閥が存在する。(5)について、当時の米国が構築した現地支配における序列構造を日本軍が受け入れたことを意味する。この後、フロアへと議論が開かれ、活発なやりとりがなされた。
発表者:清水学(帝京大学・教授)
報告(2):「書評・私市正年(2012)『原理主義の終焉か』」
本書は「現代はポスト・イスラーム主義の時代である」と問題提起しており、これがいかに妥当な命題であるのかを議論している。「この命題は現段階の中東を理解する上で有益だろうか」と清水氏は問う。そして「現状はイスラーム主義運動の「前衛主義」から「大衆主義」への移行ではないのか」という解釈を持ちかけた。この解釈に対し、著者の私市氏は次のように回答した。本書において中東地域のマクロ変動を概観する見方を提起したのであり、それはイスラーム政治運動がなぜ現代のような姿になったのかを描く必要性があったためだ。イスラーム主義は「80年代に大衆運動として既に成功していた」が、90年代に大衆の支持を失ったのはイスラーム主義に内在する論理が非現実的だった、という理解が本書の骨子となる。
以下清水氏と私市氏のやりとりを一問一答形式で示すこととしたい。まず、イスラーム主義運動が実際に権力を掌握したケースとそうでないケースを区別して理解すべきではないかという清水氏の問いに対して、私市氏は次のように答えた。イランにおいてイスラーム国家が語られ、実践されたにもかかわらず、「神の統治」はヴェラヤーテ・ファギーという人間の統治の読み替えに過ぎなかった。権力が掌握できなければ暴力に走るのみ。やはり論理が非現実的だった。要するに「神の統治はあり得ない」ということをイラン革命は実証したのであった。
著書で触れられたモダニズムについては、今のイスラーム世界がある意味でポストモダンの時代に突入していると回答された。モダニズムへの疑念がポスト・イスラーム主義であり、「ベールはかぶるけど髪は出す」という女性の行為は社会の中でイスラーム主義がポスト・イスラーム主義に変わった結果である。
トルコの事例・エルドアン政権については「もう一つのイスラーム主義の失敗例」と位置づけられた。ナショナリスト政党でもイスラームを否定するような事は決して言わないのでAKPもイスラームを主張するナショナリスト政党と言ってよい。エジプトの自由公正党も政治的多元主義を認めている段階で「シャリーアに基づく国家建設」というプログラムを否定しているに等しい。イスラームに対する姿勢の濃淡があるにすぎず、またそうするしかない時代に入っている。
国際金融システム批判が強まるのは「ポスト・イスラーム主義」時代の特徴になるのではないか、との問いに対して「利子を取らない」というルールも現実的な解釈(配当をつける)という形で対応していると回答された。現代の金融システムにイスラーム主義を厳格には適用できない。
しかしながら、川島氏から「ポスト・イスラーム主義を歴史的な段階を表す概念と見なしたとき、東南アジアに関する現体制の分析がないままインドネシアを位置づけるのはおかしい」という反論が出された。東南アジアではイスラーム主義者が政治権力を取ったことはないので、いきなりポスト・イスラーム主義がやってきている。別の説明の仕方があると思われるという。
この反論を受けて、議論をチュニジアに枠組みを当てはめたとき、イスラーム主義の高揚は1970~80年代に見られたのかが不明になる。イスラーム主義の挫折が実際に見られたのか。ナハダ党自体はじめからポスト・イスラーム的だったのではないだろうか。そしてサラフィーについてはどうか、という質問がなされた。私市氏は次のように回答した。まずトルコと同様チュニジアでもライシテ原則があり、その枠中で活動しようとすると厳密な意味でのイスラーム主義を求めることができなかった。だからナハダ党はイスラーム主義ではなかったかもしれない。憲法に国教条項が入ればシャリーアに関する条項については妥協したので、ポスト・イスラーム主義という妥協の政治姿勢を示している。サラフィーについても彼らが出てきたこと自体が自由主義というあらゆる政治潮流を許す環境が現れたことを実証している。そしてそれがポスト・イスラーム主義の状況である。
発表者:高岡豊(中東調査会・研究員)
報告タイトル:「書評・横田貴之(2009)『原理主義の潮流』」
本書はエジプト・ムスリム同胞団の思想的特徴を組織が設立された過去から現在までの歴史的経緯に沿って論じている。まず、バンナーによる社会のイスラーム化の観念と実践方法では3つの主義「段階主義:個人から家庭、そして社会へ」、「包括主義:社会すべての諸相を対象とするイスラームという包括的システム」、「行動主義:イスラームに奉仕する行動、同胞団は行動の場」が解説された。
続いて「冬の時代」を特徴付けるクトゥブ思想『道標』(1964)を思想上の転換点として示した。ファーキミーヤの世界を実現する方法は示されておらず、状況認識で終わった未完の思想であると位置づける。とは言え過激派運動を支える「クトゥブ主義」行動様式(実力で邪魔者を排除)との直接的なつながりはないことも言及された。
ムスリム同胞団の内部では世代対立の構造がしばしば言及される。「70年世代」とは大学自治会や医療・福祉分野で具体的に組織運営に携わった世代を指す。現在組織の幹部を占める古参世代は刑務所にいたため組織運営の経験に乏しく、政府からの弾圧が激しい時代に組織活動を経験したため、組織防衛のために秘密主義のもとに行動することが多い。こうした能動的な世代と秘密主義の世代がぶつかりあい、組織としての行動原理をその行動から読み解くことが難しくなっている。
本書は2011年のアラブ政変前に書かれているため、研究会ではムスリム同胞団の思想と実践の現代的意義について、「自由公正党を設立し、現行の政治制度の下で参加していることをどう評価するのか」という問題が提起された。すなわち同胞団と関係する諸国や機関との関係を通じ、改めて「なぜムスリム同胞団が現在最重要の政治アクターとなったのか」問われる必要があろう。また1940年代の「過激化」から暴力革命を求める思想の根があるのか、この時代状況を検証する必要が改めて求められている。
文責:濱中新吾(山形大学准教授)