研究会・出張報告(2009年度)
研究会- 「スーフィー・聖者研究会(KIAS4/SIAS3連携研究会)」研究会(2010年1月31日京都大学)
日時:2010年1月31日(日)16:00~18:00
場所:京都大学AA401号室
発表:藤本龍児(同志社大学/龍谷大学)「公共性をめぐる議論の展開」
概要:
報告の目的は、「公共性」をめぐる議論の展開と課題の一端を明らかにし、併せて「公共性」と宗教をめぐる議論の現状と問題点の一端を明らかにすることであった。藤本氏は最初に、西洋における「公共性」の議論は「世俗化」を前提になされてきたことを指摘した。近代社会は、公私の区別を前提とする。その社会では、宗教は私的な領域(個人の問題)と見做され、公共の場から排除される。公的領域は、中立かつ非宗教的でなければならず、それゆえにイスラームを想起させるスカーフ着用はそこでは禁じられる。つまり、近代社会において、宗教は公共の場にその姿を現してはならないのである。しかし、その一方でデンマークの『ユランス・ポステン』紙に掲載され、ヨーロッパ諸国の新聞に転載されたことでイスラーム世界から多くの反発を受けた「ムハンマドの諷刺画」については、言論・表現の自由を盾に擁護する。そのようなヨーロッパのスタンスは明らかなダブルスタンダードだと氏は指摘する。
氏は次いで、ヨーロッパにおける「公共性」をめぐる議論は、民主主義の機能不全を克服する手段として展開されてきたことを指摘した。民主主義は、個人が個々の判断で政治に参加することによって成立する。つまり、民主主義は、個人主義を前提とする社会で健全に発展する。しかしながら、個人主義の発達は、各々の個人を私的領域への関心へと向かわせる。個人は自分の私的な問題以外の公共的な問題への関心を失っていく。その結果、個人主義を前提とする民主主義がいわば個人主義の行き過ぎによって機能不全に陥ってしまう。この民主主義の危機を克服する処方としてハンナ・アレントやユルゲン・ハーバーマスによる「公共性」をめぐる議論が生み出されることになる。
ハンナ・アレントは、「公共性」を現在では既に失われたものとして位置づけ、その失われたものを概念的に再生するために公的でもなければ私的でもない場としての「社会的領域」の勃興を提唱した。アレントは、失われたものとしての「公共性」を古代ギリシアのポリス政治に見出す。古代ポリスの政治は、公的領域における言論・活動で成り立ち、「共通善の実現」を目的とする。古代ポリスでは、私的領域と公的領域は明確に区別される。私的領域は、生命の維持と種の保存、すなわち家(oikos)の経営の場であり、公的領域は、公開性のもと、家長たちが自由で平等な言論・活動を行う場として位置づけられる。しかし、資本主義が高度に発達した近代市民社会では政治は個々人の「経済的利害の調整」の場となり、議会における利益代表者たちの討論は私的利害をめぐる議論になり果ててしまった。アレントはかくして現代では「公共性」は失われてしまったと主張する。
氏の報告は、ユルゲン・ハーバーマスの説く市民的公共圏の議論へと続く。ハーバーマスは、誰もがその社会的地位を度外視して平等に参加することができる場として市民的公共圏を提唱した。市民は、国家権力によって規制されてきた公共性を公権力に対抗し、自己のものとして主張するようになる。市民が彼ら自身のものとして主張する場=市民的公共圏は、具体的にはサロン、喫茶店(パブ)、新聞等であった。それらは、市民にとって娯楽の場であるとともに公衆が公共的な問題について自由に議論し、合意が形成される場であった。
しかし、このようなハーバーマスによる公共性をめぐる議論には批判もあった。その最たるものは、公共の場で社会的不平等を無視して自由な議論が行わるとしても、現実に存在する不平等が存在しないかのように合意の手続きがなされている限り、真の意味での公共性が担保されているとはいえないという批判であった。つまり、合意形成からこぼれ落ちてしまった人々を度外視して公共圏を論じるのは、どう考えても片手落ちではないかという疑問が提示されたのである。この疑問に端を発し、90年代以降、カルチュラル・スタディーズや多文化主義の議論が生み出されることになる。氏は以上のようにハーバーマスの公共をめぐる議論を説明した後、ハーバーマスによる公共圏をめぐる議論自体が現在行き詰っており、それにかわる新たな公共性の議論の必要性を指摘した。
氏の報告は次いで、「公共宗教」論に進んだ。これは、「公共性」と宗教の関係をめぐる議論である。「世俗化」された社会では、制度化された宗教は衰退し、宗教は個人の私的体験・嗜好によって選択されることになる。これが即ち宗教の私事化である(T. Luckman)。そして宗教の私事化は、1970年代以降、スピリチュアリティ文化の興隆という形をとって社会に現れる。しかし、そのようなスピリチュアリティ文化の隆盛とは違う次元で、かつてのカトリック教会のような制度化された宗教は確かに衰退したといえるが、市民の社会生活・政治的行動に宗教的次元を付与している一連の体系(信念・象徴・儀式など)は今もなお存在しているとする「市民宗教」論(R. N. Bellah)も提唱された。さらに、1970年代における福音派(evangelicals)の伸長、カウンターカルチャーの席巻といった現象を踏まえて宗教の脱・私事化を唱える論者も現れた(J. Casanova)。氏は続いて、デュルケーム・モデル(教会の影響力の範囲=社会の範囲)による類型を「公共宗教」論に応用したC. Taylorによる議論やタラル・アサドによるカサノヴァ批判を取り上げ、最後に公的なアリーナに登場する以前の集団の意識・心理をも包含する新たな「公共宗教」論の必要性を指摘した。
質疑応答:「公共性」についての当勉強会の議論を通じて、明らかになった問題点は2つある。一つは、西洋において「公共性」をめぐる議論は現在行き詰まりを見せていること、したがって、「公共性」をめぐる議論から有意義なアウトプットを齎すためには新たなアプローチが必要であること。二つ目は、非西洋世界、例えばイスラーム世界の研究の観点から「公共性」の議論をいかに有効かつ有意義なもの足らしめるかということ。それは換言すると、「公共性」の議論は本来、もっぱら西洋で生まれたものであり、西洋と歴史的・文化的な価値観を共有していない非西洋では使えない議論ではないかという問題である。その問題に関しては、そうは言っても現実問題として「公共性」をめぐる議論が西洋で生まれたことは事実であり、非西洋世界の研究者達が非西洋の立場を尊重するあまり、その議論を拒否することは非生産的であり、例えばイスラーム世界には歴史的にどのような形での「公共」がありえたのかを検証する必要性が指摘された。その際、何を持って「公共」の場とするかが、藤本氏と主として中東を研究対象地域とする参加者たちとの間で認識の相違が明らかになった。中東研究者の視点に立てば、市場(バザール)がムスリム、非ムスリムを問わずだれでも参加可能かつ、参加する人々全員が平等の基盤に立つことができる場ということになる。しかし、藤本氏の見解によるとヨーロッパにおける「公共性」の議論において市場は、私的な利益がせめぎ合う場であり、私的な利益を離れたところに成立する「公共」の場ではない。これに対して中東研究者の側からは、イスラーム教、ユダヤ教、キリスト教の各コミュニティーにおいて多様な「公共」概念がありうるのではないかという問題提起がなされた。例えばインドのパブリックといった場合、ムスリムのパブリックとヒンドゥー教徒のパブリックは同列に論じられるものなのか、エジプトのパブリックといった場合、ムスリムとコプト各々のパブリックはいかなるものなのかといった問いが提起された。また、イスラーム世界では前近代においてシャリーア(イスラーム法)がムスリム、非ムスリムを包含しており、その点ではシャリーアを「公共圏」と見做すことも部分的には可能ではないかとの指摘もなされたが、軍事奉仕が「公共」の概念と深く結び付いて発展してきたヨーロッパとは異なり、シャリーアには軍事と「公共」の関連は認められないという相違も確認された。さらに、近代以降、イスラーム法がかつてのような有効性を持たない状況下でムスリムの「公共性」をいかに設定するのかという問題も提起された。また、インターネットの普及によって地域、風土、領域に捉われない新たな「公共圏」が生まれるのではないかといった議論もなされたが、現実にはそのような「公共圏」は形成されていないことが指摘された。以上の議論を踏まえて、本勉強会の結論として、ヨーロッパにおける「公共性」の議論にはハーバーマスの議論ではなく新しいアプローチが必要であること、イスラームの「公共性」の問題は議論の途上にあり、今後も検討の余地があることが確認された。
(茂木明石・上智大学アジア文化研究所リサーチ・アシスタント)
1990年代、議会制民主主義先進諸国において、投票率の低下などの現象がみられ、そうした民主主義の機能不全に対する対処法として、「公共性」をめぐる議論が注目され、期待されるようになった。ところが、欧州におけるムスリマたちのスカーフ論争や、ムハンマドの風刺が問題などに象徴されるように、公的領域への宗教の侵犯や言論・表現の自由をめぐる問題などが生じており、「公共性」という概念自体が問題化される事態に至った。そこで、西洋思想におけるこの概念をめぐる議論が、どのように展開してきたのかをテーマに、公共性をめぐる議論の展開と課題を明らかにするとともに、公共性と宗教をめぐる議論の現状と問題点を検討した。
「公共圏」に関する研究に関して、われわれ中東地域をフィールドとする研究者にとって、D. アイケルマンの代表的な著作の1つ、New Media in the Muslim Worldがよく知られている。彼の議論は、「公共圏」の理論的研究の専門家として知られる、ユルゲン・ハーバーマスの研究によるところが多いが、藤本氏はそもそも、ハーバーマスの公共圏理解に問題があるとし、その批判的検討を行った。
藤本氏は、「公共圏」をめぐる議論でよく引用されるハーバーマスの「公共性」の概念は、あくまで理想化された公共性であって、現実に適応できないのは当然であると指摘。「国家⇔個人」という枠組みで議論を展開できるのは、全体主義体制の国家のみであると批判した。そのうえで、公共圏が「出現した」ものではなく、「失われた」ものであるという見方を示した。
また藤本氏は、「公共宗教論」の展開にも触れ、ロバート・ベラーの市民宗教論、ホセ・カサノヴァの「宗教の脱・私事化」の議論にはらむ危険性を、藤本氏自身の著書『アメリカの公共宗教:多元社会における精神性』を紹介しながら指摘した。
(若松大樹・日本学術振興会特別研究員/上智大学)